「『事故』、か」
「はい、ケルシー先生」
の報告を前に、ケルシーはとんとんと机の縁を叩く。エンカクに源石結晶を刺された腕は、同僚たちに「自分ではやりづらいから」と治療を頼めば大慌てで処置をしてくれて。は鉱石病への感染について、『事故』としか報告していない。直属の上司であるワルファリンは、を一瞥して「あの小僧か」と鋭すぎる言葉を口にしたがそれ以上の追及はなく。けれど基本的にロドス内勤のはずのが感染した原因、及び感染者になったことによるキャリアへの影響を鑑みて、師であり医療部門の責任者でもあるケルシーとの面談が急遽もうけられていた。
「『事故』で構わないのか?」
「はい、事故です」
「……わかった。君の意志を尊重しよう」
幸か不幸かエンカクのとった手段が単純で乱暴だったため、感染原因の特定が容易、かつ他者への影響がないと判断されて。これが例えばミッドナイトのように源石製品と知らず接触させられたことによる感染であれば、事故と言い張ることはできなかっただろう。害されたことを隠すの意図など見透かしてはいるのだろうが、ワルファリンもケルシーも『事故』の原因については多くを尋ねなかった。元よりケルシーは、オペレーターの語りたがらない個人的な事情について口を割らせようとしない。わかっていてそれを利用するのは、ずきりと胸が痛む罪悪感が募ったが。きっと、否、必ず、弟の暴行について訴えれば二人はを支部に異動させるなり、エンカクを処罰したりといった措置はとってくれるだろう。けれど他者を巻き込めば巻き込むほど、万が一の時の被害は大きくなる。せめて部屋だけでも離してもらおうかと思ったが、このタイミングでの移動など弟が感染に関わっていると公言するようなものだ。ただでさえ血腥い新入りとして目立っているのに、これ以上弟の悪印象を残したくはなかった。エンカクは処罰を受けることで考えを曲げるタイプではなく、エンカクを置いて支部に異動などすれば確実に「逃げた」と見なされるだろう。そのときに迷惑を被るのは、の恩人であるこの二人だ。たとえ二人が迷惑と思わないとしても、逃げることを諦めた以上は頼るべきではないと思ってしまって。
「私個人としては、君の感染をたいへん痛ましく思う」
ケルシーの言葉に、はきゅっと胸の奥が優しく締め付けられるのを感じて俯く。できれば、二人に顔向けできないことはしたくなかった。ワルファリンは、弟から逃げてカズデルをさ迷っていたを拾ってくれた恩人だ。「雑用係が欲しかったところだ」とに仕事と最低限の社会性を与えてくれて。そのワルファリンの紹介で、はケルシーに師事することになったのだ。ケルシーの思惑としては、実にブラッドブルードらしい問題児であるワルファリンの将来的な医療補佐(という名のお目付け役)を任せるべく、を弟子にしてくれたのだそうだ。ワルファリン自身は控えめに言っても後進の育成には向いていないため、医療技術や事務能力についてはほぼ全てケルシーが与えてくれたといっても過言ではない。幸いのアーツは人体に害のあるものを焼き払う炎として発現したため、術医療の道に進むことができて。というコードネームを与えてくれたのも、師であるケルシーだ。彼女の他の弟子たちと同様に、はケルシーに尊敬と感謝を抱いている。今は医療オペレーターの一人として、実務経験を積み術医療の専門技術を学んでいたところで。時折『ワルファリン係』と揶揄されることもあるが、人生でいちばんの恩人と言っても過言ではないワルファリンにも、やはり敬愛と感謝を抱いていることには変わりない。弟と再会して真っ先にロドスを離れようとしたのも、二人を煩わせたくないという気持ちが大きかった。
「痛ましく思うと同時に……医療部としては、君が感染者になったことが有益だと言わざるを得ない」
「……はい」
「不幸中の幸いなどと、言うべきことではないが」
「いえ、先生……」
この世界の『普通』なら、感染者になった時点で職など失う。それが馘首にならないどころか利益になるとまで判断されたのだから、不幸中の幸いとしか言いようがないだろう。『事故』の原因も明かせないを罰さず、職務もそのままで、術医療者としての期待までかけてもらえる。あまりにも恵まれすぎていて、怖くなるほどだった。
「勘違いしてはいけない、君が痛ましい事故にあったのは事実だ。そして我々ロドスは、感染者が当たり前の日常を送っていけることを『普通』にするために動いている」
可能であれば、とケルシーはの腕の包帯を睨めつけて言う。
「君のアーツ能力が強化されたことで、鉱石病も『焼ける』ようになったのか。時間をかけて検証してほしい」
「わかりました、先生」
「とはいえ君自身の健康が第一だ。くれぐれも、病状を進行させないように」
「それで、。この小僧は検体にしてよいのか?」
「やめてください……」
「なんだ、優しいじゃないか『姉さん』」
「すみませんさん、止めたんですけど……」
医療部に帰ってきたを出迎えたのは、上司と弟が険悪に睨み合っている光景だった。くらりと眩暈を感じたものの、ワルファリンのそれは冗談ではないと知っているので逃避している場合ではないと止めに入る。後ろでは弟が軽口を叩き、その隣では同僚の一人がとてもすまなそうにしていた。にしてみれば何が何やらといったところで、ワルファリンがエンカクにこの場で『事故』のことを問い詰めたりしないかと不安ではあったのだが。ケルシーに頼んでいたワルファリンへの『事故に関する所見を口外することを禁ずる』という伝達は、どうやら間に合ってはいたらしい。実に夜の支配者らしい冷たい目でエンカクを見遣るワルファリンだったが、その口の端は言いたいことを呑み込んでいるようにピクピクと動いていた。
「オペレーターエンカクの、検査結果及び治療方針をお伝えしようとしていたのですが……」
「必要ない」
「医者の言うことを聞かない手合いには、こちらとしてもやりようというものがある」
「俺はお前の患者ではないが?」
「……その、この堂々巡りでして」
再び眩暈がしそうになったのをどうにかやり過ごして、は引き攣った笑みを浮かべる。つまり、エンカクはその見るからに深刻な病状にも関わらず鉱石病の治療を受けるつもりがさらさらなく。ワルファリンは人格や倫理観に問題こそあれど医者として他者の命を守る意識はまっとうに備わっているため、を傷付けた上に嘲笑を浮かべて治療を拒むエンカクに辛辣な言葉で対応して。ここまで医務室の空気がギスギスと冷え込んでしまったのも、お互い我の強いサルカズ故なのだろうか。どこかそわそわとした様子で部屋の外から室内を窺う医療部のメンバーたちも、に縋るような目を向けて事情を説明する同僚も、「身内なら宥められるはず」「ワルファリン係として何とかしてくれ」といった心情がありありと顔に表れていて。正直なところエンカクもワルファリンもが止めに入ったところで聞く耳を持つようには思えないのだが、二人に近い立場として他人に認識されている以上投げ出して逃げるのも無責任だろう。ワルファリンが問答無用でエンカクを昏倒させてストレッチャーに括り付けていないあたり、見た目の表情よりは自制心がはたらいている状態らしい。ならばが宥めすかすべき相手はエンカクだと、壁にもたれて足を組んでいる弟におそるおそる向き直った。
「その……検査結果と治療方針の説明だけでも、聞いてほしくて」
「お前の時間を無駄にするだけだ。俺は鉱石病の治療に興味がない」
「ロドスで働くなら、病状の把握と最低限の治療は必要なことだから……」
言い募りながらも、無駄な説得であると思ってしまう自分がいた。エンカクがどういう人間か、理解はできなくとも多少は知ってはいる。本当に鉱石病の治療など、どうでもいいと思っているのだろう。病状が悪化して動けなくなると宣告を受けたとしても、その体で自分の求めた死に最も近いものを探して戦場に向かってしまうだけだ。は弟に死んでほしいわけではないが、弟の望みを阻むことに意味がないと思っているのも変わらない。結局二人とも徒労が嫌いだというところは、この歳になって初めて見つけた共通点なのだろう。だから、はエンカクが説得を厭うて医務室から出て行くことを予想していた。ある意味では、期待だったのかもしれない。『オペレーターエンカクは鉱石病の治療に極めて非協力的だ』という認識を医療部に周知し、ワルファリンに謝ってエンカクという患者から意識を逸らしてもらい、そうすれば少なくとも皆が望むようにこの場は収められる。まだ、先日の諸々で弟に抱いた恐怖は少しも小さくなっていない。あの後鏡で見た自分の体にはおぞましいほどの赤い痕が残っていて、鬱血痕はともかく噛み跡や指の跡は今こうしている時も服の下でジクジクと痛む。歩くことさえ億劫なほど下半身は倦怠感と鈍い痛みに苛まれており、正直エンカクが同室でさえなければ部屋に籠って布団にくるまっていたいほど体調が悪いのだ。どうにかいつも通りに過ごさなければと気を張っていたのに、医療部に帰ってきた途端にこれで。本音を言えば、今は弟から早く解放されたかった。その視線が自分に向けられるだけでも逃げ出したいほど怖いのに、その低く響く声や大きな手がぞわぞわと薄暗い部屋での恐怖を思い起こさせる。医療部は、の仕事場であると同時に「日常」の場でもある。そこに弟がいることそのものが怖くて堪らなくて、治療が必要ないと言った弟に正直安堵してしまった最低な気持ちを認めざるを得なかった。医療オペレーターとしてあるまじき思いだとわかってはいるが、せめて仕事の間だけでも弟と関わらずにいたいと望んでしまう。そんな気持ちがあることを、自覚せずにはいられないほど弟が怖かった。
「治療を受けてほしいのか?」
けれど、弟の口から出たのは意外な言葉で。「おおっ」と小さく期待の声を上げた同僚の横で、はぱちりと目を瞬いた。
「お前は俺に、治療を受けてほしいのか」
「……ええ」
反応の鈍いに言い聞かせるように、ゆっくりと弟は問いを繰り返す。どこか引っかかりを覚える言い回しだったが、問われている内容そのものに間違いはない。安易に頷いてはいけない気もしたけれど、そもそも頼んでいるのはだ。若干の戸惑いを覚えながらも首を縦に振ったを、エンカクはじっと見つめて。
「なら、いい」
「え?」
「お前がそうしたければ、少しは付き合ってやる」
「あっ、それでは資料はさんにお渡ししておきますね!」
「えっ」
「尊大な小僧だな。くれぐれも妾の雑用係を煩わせてくれるなよ」
「あの……」
途端に解放感に満ち溢れた表情になった同僚から、カルテや諸々の資料を押し付けられて。ワルファリンも言いたいことは言ったのか、ガタリと席を立って去っていこうとする。さっきまであれほど室内を興味津々で覗き込んでいた医療オペレーターたちもそそくさと散ってしまい、エンカクと二人で部屋に残されたは途方に暮れた表情で彼らを見送った。基本的に身内の治療には直接関わらないものなのに、どさくさに担当医まで任されてしまった気がする。はただ、治療を受けてくれと説得するだけのはずではなかったのか。後にそれを問い詰められた同僚は「だって、あれってさんの治療なら受けるって意味でしょう?」と親指を立てたのだが。ワルファリンも、条件付きとはいえ治療を受ける意思を示したエンカクにこれ以上時間を費やす必要は無いと判断したのだろうが。
(は、薄情……)
思わず恨み言が脳裏を過ぎるくらいには堪える。昨日の今日で皆に弟が苦手だと知らせる時間がなかったとはいえ、これは。「座らなくていいのか」とのために椅子を引いてくれるエンカクだが、その優しさは別のところで発揮してほしかったと思う。とはいえが担当から外れれば弟が治療を放り出すのは目に見えているから、他のオペレーターを捕まえてくるというわけにもいかなくて。ため息を吐きそうになるのを押し殺し、は諦めと紙一重の覚悟を決めて椅子に腰を下ろした。向かいに座ったエンカクに患者向けの資料を渡すと、明らかな流し読みではあるが一応目を通してくれる。弟の中では他者には理解し難い優先順位が定まっているようだが、が治療を受けてくれと言えば(決して自分の手で治療をしたいと言ったわけではないのだが)極めて低かったその優先順位を引き上げてはくれるらしい。少なくともその程度には弟が自分のことを好いているというのは本当らしいと、その実感はただ背筋に冷たいものを走らせただけだった。
「…………」
資料越しにエンカクの視線を感じはするものの、責任感で何とか意識を切り替えて自身も検査結果の書類に目を通す。怖いのも、逃げ出したいのも変わらないが、昨夜の暴行がなかったかのように今朝のエンカクはをあっさりと腕の中から解放した。仕事に向かうを邪魔することも、過度な接触をしようとすることもなく。にしても色々と言いたいことはあったけれど、現実として仕事に遅れるわけにはいかないと諸々を後回しにした。もしくは、一時的でもエンカクから離れる理由を手放したくなかったのかもしれない。問い詰めようが話し合おうが、エンカクがにしたことは取り返しがつかない。不毛な会話にただ疲労と恐怖を募らせるより、弟と会わないでいられる時間を作った方がいいと。逃げることを諦めはしたが、そうやってどうにかせめてもの安息を得ようとしたのだ。それがこうして仕事の間も弟と関わる理由ができて、怖くないわけがない。人目のあるところではさすがに危害を加える気がないのか、単に昨日のことでそれなりに気が済んだのか、今ここでが逃げ出そうとでもしない限りは何かされる心配はなさそうだが。猛獣の檻の中で自由を許されているような、歪な安堵。ひとつ選択を間違えれば喉笛を噛みちぎられそうな感覚に怯えつつも、はエンカクを窺った。
「あの花はお前か?」
「え……?」
「机の上に鉢植えがあっただろう。お前が育てているのか?」
あまりにも突飛な質問に目を白黒とさせながらも、自室の鉢植えのことだと思い当たっては曖昧に頷く。の持ち物に、興味を示すような弟だっただろうか。怖々とした態度が面白いのか、目を細めて口の端を持ち上げた弟が何を考えているのかよくわからない。も緊張している患者に雑談を振って気を紛らわせたりすることはあるが、これではまるで立場が逆だ。酷いことをする弟なのに、時々子どもにするように甘やかされている気になる。気を取り直して検査結果の書類を手に取ったは、唐突に腕を掴まれて肩を跳ねさせた。
「っ、」
反射的にこみ上げた恐怖をどうにかやり過ごして、何をしているのかと戸惑いの目をエンカクに向ける。の腕を掴んだエンカクは、勝手に白衣を捲って腕を剥き出しにして。源石を突き刺された傷に巻かれた包帯が露わになり、はぎゅっと唇を噛み締めた。癒着しかけていた源石は除去されたものの、傷口の周辺には既に罅にも似た感染の特徴が表れていて。まだ内臓には異変が見られず血液検査の結果待ちにはなるが、感染はほぼ間違いないだろうと診断された。いずれ、この腕の傷が病巣となって再び源石結晶が生成されるだろうとも。結果的に自分で刺したとはいえ、そうさせたのはエンカクだ。きちんと感染したか気になるのだろうかと思って視線を包帯からエンカクに移すも、その表情はよくわからない。包帯越しに傷口をなぞっていく弟の手付きは、奇妙なほど優しくて。触れるか触れないかの強さで慈しむように包帯の上を這っていく指は、何を探しているのか傷口の辺りを何度も往復していた。
「源石結晶はどうした?」
「切除、してもらって……まだ、癒着してなかったから……」
「ほう」
「……また刺したり、しないでね」
まさかとは思うが、結晶を除去したのが気に食わなくてもう一度刺せと言われたらどうしようかと馬鹿な心配が頭をよぎった。それは本当に杞憂だったようで、エンカクは目を僅かに見開いたあと可笑しそうに笑う。が面白い冗談でも言ったかのような反応に少し馬鹿にされている気もしなくはないが、エンカクにを害する意思がないならそれでよかった。
「安心しろ、次はない」
含みのある言い方に背筋が震えるが、人並みに痛みに弱いは一応の安心を得て緊張を緩める。「それに」と、人差し指の先が傷の周りをぐるりと這った。
「どうせ、そのうち石は生えてくる」
楽しみだと言わんばかりの声色と、まだそこにはない石を撫でるかのように傷に触れ続ける指。結局が治療方針やらの説明をしている間ずっと、聞いているのかわからないような態度でエンカクはの腕を放さなかった。
201110