「大丈夫ですか? さん」
「……ありがとう、ポデンコさん」
 まるで萎れた花のようだと、に特製の花茶を振る舞いながらポデンコは思った。苦手だという弟がロドスに来たことと、不幸な事故で感染者になったことで気落ちしているのだろう。女性にしては高めの身長とサルカズという種族、儚げな麗貌からはロドス内では高嶺の花のように遠巻きにされている。けれど実際話してみれば少し内向的なだけの優しくて可愛らしい女性で、田舎育ちでサルカズという種族に縁のなかったポデンコにしてみればと魔族という言葉は到底結びつくものではなかった。はパフューマーがメンタルケアをしている相手の一人で、ロドスの面々の中では相当良識的で扱いやすい部類に入るため今はポデンコがほとんどケアを任されている。平たく言うと練習台にしているようなものだが、は気にしないどころかポデンコに「サルカズは嫌ではないか」と逆に聞いてくるほどで余計心配になったものだ。が療養庭園の世話になっているのは、主に精神面の不調による不眠を改善するためだ。医者の不養生とはよく言われるものの、自分のメンタルケアとなると勝手が違って当たり前だろうと思う。特にはヒーリングアーツを用いた身体面の治療に特化していて、専門となると毒物や汚染物質を『燃やす』ことで浄化するという、凄惨な現場に赴くことが前提の能力であるために本人の気質に合わず負担が大きいのだ。それでも自分が一番役に立てるのは『そういう』現場だからと、時々の『出張』も躊躇うことなく承諾している。が魘されるのは戦地で子ども時代を過ごしたことが原因だろうから、できればロドス内で行えるものだけに職務を制限した方がいいのではないかとポデンコは思っているのだが。は、サルカズである自分が周りに受け入れてもらうにはまず自分が人に尽くさなければならないと思っている節がある。誰かの役に立てる能力を出し惜しみはできないと、無意識であろうと自身に強いているのだろう。事実が要となる作戦もあったそうで、ロドスにとってはの能力もまた必要なものなのだ。今日会うなり感染者になったと報告されたときはひどく驚くと同時にが心配になったが、感染者は病状の進行と引き換えにアーツ能力が強化されるという側面もある。今までのの炎は鉱石病に関しては悪化を抑制する程度だったが、彼女が感染者になったことであるいは鉱石病を根本から焼き払えるのではないかと期待しているオペレーターもいるのだろう。そしてはまず間違いなく、他人の鉱石病を治すためなら自身の鉱石病を悪化させるタイプの人間だ。
さん。よかったら、お部屋の鉢植えを増やしませんか?」
「……うん、ありがとう」
 難しい、問題だ。他者が安易には、触れられないほどに。ポデンコにできるのは、が笑顔になる手伝いをすることだ。花が好きで、種や苗から育てたそれらが蕾をつけて花開くのを愛おしそうに優しく見つめている人。一生懸命咲いた花が散ってしまうのが悲しいと俯くに花茶や香り袋を贈れば、綺麗な顔を少女のように輝かせて喜んでくれて。パフューマーに教えを受けながらのために選んだ花で、ポデンコの得意な花枕を作ったりもしている。完成を楽しみに待っていると笑ってくれたは、とても尊くて綺麗な生き物に思えた。魔族などと、誰が彼女を謗るというのだろう。が花を慈しみ愛するように、自分自身を愛そうとするための手伝いをしたい。さっそくの好きそうな花を選ぼうと手を引けば、は何事か思い出したようにハッとして俯いた。
「その、ごめんなさい……これから、外に出る任務を増やそうと思っていて……」
 アーツ能力を強化するためにも活用するためにも、実務の多い外での任務に参加しようと考えているのだとは言う。だから、水やりなどの世話がきちんとできないのに鉢を増やすのは無責任なのではないかと。既に部屋にある鉢植えも、一度庭園に返すことを考えていたそうだ。とても残念そうな顔で告げるに、ポデンコはぱちりと目を瞬いて。
「それなら私がさんのいない間、お花を預かります!」
 そう申し出たときののびっくりしたような顔は、案外幼く見えたのだった。

「…………ただ、いま……?」
 こういうところがこの姉の律儀で愚かなところなのだろうなと、夜になり部屋に戻ってきたを見てエンカクは思う。あからさまに怯えと警戒の色を見せながらも、同室としての礼儀からか目が合ったエンカクに声をかけて。少しの間を置いて「ああ」とエンカクが返すと、心底驚いたような顔をする。姉からすればまさしく自分は「魔族」だろうから、挨拶が成り立つだけで天変地異のような反応をされるのも不快に思うこともないが。が部屋に戻ってくるかどうかは、半々だと思っていた。犯された上に感染者にされて、その元凶のいる部屋に戻りたいと思うわけがない。けれどどうせ姉はサルカズというだけで親しくない人間には遠巻きにされているだろうし、近しい人間には迷惑をかけたくないと自分から距離を置くような性格だ。当直でもないのに医療部の仮眠室やらを使って、周りに事情を探られるのも嫌だったのだろう。その葛藤が、がこの部屋に戻ってくるまでにかかった時間だった。まだ正式な任務や作戦は割り当てられていないとはいっても、エンカクが一日の予定を終えて戻ってきたのは三時間も前のことだ。隣室の住人は陽気な性質なのか、酒盛りをしているらしい小さな騒ぎが時折部屋を出入りするために開いた扉から漏れていて。そんな時間になるまで姉が部屋に戻ってこなかったのは、表情からすると仕事ではなさそうだった。
「……あの、」
「なんだ」
「私がいないとき、誰か訪ねてきても、その……怖がらせたり、しないでね」
 昨日の今日で一番に言うことがそれでいいのかと、エンカクは若干呆れつつも適当に頷いた。あっさりとした反応にあからさまな安堵を見せるだったが、改まった様子で口にすることがそれでいいのか。確かにエンカクは他人を愛想良く迎えるタイプでもなければ黙っているだけで周囲に威圧感を与える部類だが、自分の話を差し置いて他人の心配をし始める姉はお人好しを通り越して心底卑屈だと思った。サルカズであることに異常なまでの負い目を抱いている姉は、周囲に悪く思われないことを優先して自身が蔑ろになっている節がある。とはいえ何年も離れていた上に姉弟関係をあえて拗らせた自分が内面にまで口出しするべきではないだろうと、そこは静観することにしていたが。「誰か来る予定があるのか」と何となしに問いかけてみれば、会話が続くとは思っていなかったと言わんばかりに絶望した表情をする。それでも返答のために真っ青な顔で口を開くのだから、ここまで来ると面白いと言えなくもなかった。
「花……私のいないとき、面倒を見てくれるっていう子がいるから」
 日を跨いで留守にするときはそのオペレーターに鉢植えを預けるため、やり取りでこの部屋を訪れることもあるだろうと。もしが医療部の呼び出しなどで急に不在になったときに来訪があっても、邪険にしないでやってほしいと。その『庭園』とやらの職員から新たにもらってきたのか、小さな鉢植えを手にしたはぽつぽつと事情を説明する。机の上の花を見たときも、医療部で会話したときも思ったが。案外妙なところで血の繋がりを感じるものだなと、エンカクは花を見下ろして俯くに目を細めた。
「留守中の世話なら、俺がしてもいい」
「……え?」
「お前が嫌なら手を出さないが」
 奇遇にもこういうところは姉弟らしい、とエンカクが自分の持ち物である花の種を見せると、は暫しの沈黙の後にぽかんと間抜けな顔をする。あれだけ異星人のように思っていた弟が自分と同じ趣味を持っていたということを脳内で処理するために、時間がかかっているのだろう。エンカク自身も、姉の机の上に花を見つけたときは奇妙な感慨を抱いたものだが。容姿以外にまるで共通点のない姉弟だから、こんな誰にでもあるような趣味ひとつでお互いに血の繋がりを意識するほどの反応を示す。滑稽かもしれないが、嘲笑うこともできなかった。少しの間視線をさ迷わせて躊躇していたは、ぎこちない動きで頷く。エンカクがへの当てつけに預かった花を粗雑に扱うようなことをしないだろうという信用は、優しさを期待しているというよりも単にを傷付けたければそんなまどろっこしい真似はしないと思われているだけなのだろう。姉はどうせ花が散れば悲しむ部類の人間で、どんなに綺麗に咲いた花も皆等しく散っていく姿が好きだというエンカクの嗜好は理解し難いに違いない。わかり合えないことばかり知っていて、近いところはあるのに結局似ていない。いっそ他人として生まれていれば少なくともこの女は幸せだったかもしれないな、と思うが詮無いことだ。
「じゃあ、その……お願いしても、いい……?」
「ああ」
「……もし、あなたが花を育てるなら、同じようにするから」
 他人と弟、どちらに手間をかけさせるかを天秤にかけて後者を選んだ意味を姉は理解しているのだろうか。あれだけ恐れ、拒んでおきながらも結局姉の中でエンカクは他人より内側にいる。自覚があるのかは知らないが、姉のそういうところが本当に愚かで、少し腹立たしい。そして同時に、優越感さえ覚えている。結果的に自分を選ぶのなら、自覚があろうとなかろうと構わないが。もう少し被害者であることを振りかざせばいいと、姉曰く「ひどいこと」をした加害者でありながら勝手なことを思う。姉との差異はエンカクにとって面白いことでもあり、愛しいことでもあり、苛立ちを感じることでもあった。タチの悪い女だとは思うが、根本的にこの女は「悪くない」のだから尚のこと厄介で。異常なまでの自己評価の低さと卑屈さから他人と曖昧な距離を保とうとするに、ずかずかと踏み入って蹂躙したのはエンカクだ。姉を女として傷付けるという、まともな人間からすれば最低な方法で押し入って繋ぎ止めた。この女はすぐに怯えて逃げようとするから、関係を拗らせるだけ拗らせて距離のとり方などわからなくさせてやった方がいい。自分たちの姉弟関係はどうせ最初から「まとも」ではないのだから、姉の望む「普通」などとっくの昔に破綻していた。エンカクがそうさせた面もあるとはいえ、なりふり構わず周囲に助けを求めて逃げようとしないは結局弟を受け入れている。今日の態度を見ていて思ったが、この期に及んではエンカクとの間にすら「普通」の関係を築き直そうとしているのだ。結果的にエンカクの暴行を隠蔽し庇うような真似をして、一体何が姉をここまで普通というものに執着させているのか。こうも突き抜けた愚かしさは滑稽を通り越して、薄気味悪くすら思えた。
「それで、
「っ、」
「何か俺に言いたいことはないのか?」
 何となく会話が途切れて黙り込んだに水を向けると、斬りつけられたように痛そうな顔をしたが視線を泳がせる。感染者にしたことでも、犯したことでも、治療に関して横暴な態度をとったことでも、どれでもいい。何かが文句でも泣き言でも口にするなら、聞いてやる気はあった。あるいは、加害者のくせにどうしてそんなことが言えるのかと。何でもいいから、姉の内面を掻き乱して曝け出させてやりたかった。理解できないの心に爪を立ててかき出して、そうすればこのどうしようもない姉のより内側を侵して踏み込める。その弱さを欲しいと思ったことは一度もないが、これも一種の回帰願望なのだろうか。死ぬまで共に在ることが当然だと思うように、より近しく在ろうとする欲求も昔から変わらない。けれどが口にしたのは、その弱さに見合わない拒絶で。
「……ない、」
 鉢植えを抱き締めるように胸元に引き寄せて、俯いたままはぽそりと呟いた。本心から何も言うことがないと思っているわけではないだろう、その声は震えている。つまるところ、これはの意地だ。責めたり咎めたりして問題を蒸し返さず、全て呑み込んで何もなかったかのように振舞おうとする。ほう、と口から漏れた声は、自分で思っていたよりも低く響いた。
「お前は本当に愚かだな。それとも鈍いのか」
 あれだけ抱いて傷付けて、やっと自分に向けられている感情を理解させたというのに。それすら無かったことにして、気付く前の関係に戻ろうとしているのか。弱い姉なりの逃避であるとわかってはいるが、そもそも犯されたときも同じ状況だったと学んではいないのか。逃げたところで、昨夜の事実は消えたりしない。腕に残った傷痕と病巣が、その証だろうに。不毛なことも徒労も嫌いだが、姉に対しては儘ならないことに関心を失くして離れるなどできはしない。情を否定することが最も弟を逆上させるとわかっていないのか。わかっていて敢えてそうしているのなら、臆病なくせにいい度胸だと笑ってやってもいい。
「二度は訊かない」
「……ないの、本当に」
 それだけ言って、は部屋を出て行こうとする。あれだけ無駄なことだと嘲ったエンカクに対して、何を今更と怒る様子すら見せず。考えるより早く、その腕を掴んで抱えた鉢植えを取り上げていた。花を人質にされたような形になったは、困ったように眉を下げて怯えた顔でエンカクを見上げるが。相変わらずそこには嫌悪も憎しみもなく、ただただそれが気持ち悪かった。
「あの……ロドスを出ていくわけじゃない、けれど……」
「俺とお前の思う『逃げ』の意味は、ずいぶん違っているようだが」
「四六時中一緒にいたいの……?」
「わかっていて言っているのか、それは」
 共寝をねだる幼子に対するような口調に、さすがに苛立ちが募る。問答無用で組み敷いてやろうかとも思ったが、ひとまず鉢植えをどうこうする気はないと示すためにも脇に置いてやった。途端にほっとしたような顔をするに、心底この女はどうしようもないなと思う。深いため息を吐いたエンカクに、は戸惑いの視線を向けていた。本当に、他人として生まれていればここまで違う生き物に執着を覚えることもなかったのだろう。その方が良かったなどとは、到底思わないが。
「お前は俺を何だと思っているんだ?」
「……わからない」
 お決まりのセリフを口にして、は俯く。ひとまず距離は保ったまま腕を離してやったが、逃げたり後ずさったりはしなかった。
「……あの猫、」
 ぽつりと、が脈絡もない言葉を口にする。もうずっと昔のことなのに、それがあの荒廃した土地の片隅で姉が可愛がっていた生き物だとわかる前提で話すのが憎らしかった。
「どうして、死んじゃったのか……覚えてないの」
 墓を作ったことも、弟がどこからか摘んできたらしい花を手向けのためにくれたことも覚えている。病気だったのか、事故だったのか。外敵に襲われたのか。あんなに大切だったのに、覚えていない。それだけは尋ねておきたかったかもしれないと、そんなことをのたまう姉に憐れみさえ抱いた。
「……俺も覚えていない」
「そう……」
 残念そうに、姉は気落ちした声で相槌を打つ。本当のことを教えてやってもよかったが、無理に思い出させたいわけでもない。覚えていないのなら、いないでいいのだ。人を殺めたお前が綺麗だったと告げたところで、姉にそれは理解できないのだから。がどうしてと問いたがるエンカクの思慕の根源はそこにあるのだと、自身が思い出して気付かなければ意味が無い。
「じゃあ、その……私はもう寝る、から……」
 結局部屋を出て行く気はもう無いようで、は鉢植えを抱えて仕切りの向こうへと姿を消す。それを引き留めるようなことはせず、エンカクは自分のベッドの縁に腰掛けた。
 ――そんなに慌てて、デートの待ち合わせでもあるのかしら?
 あの時Wは既に、がロドスにいることを知っていたのだろう。エンカクが身内意識の強いサルカズから姉の情報を得ようとしていたことを、あれは知っている。「仇」の存在は仄めかしつつも肝心ののことは黙っているあたり、少し見直した誠実さもまた値打ちが下がったが。しかし、Wがと面識があったとすれば。エンカクに対する不誠実が、に対する義理によるものだとすれば。

「……なに?」
 仕切りの向こうに呼びかければ、少しの間を置いて返事がくる。衣擦れの音が止んだのは、着替えの手を止めているのだろう。
「お前はいつからロドスにいた?」
「……だいぶ、前から」
 具体的な時期は答えず、は答えをはぐらかした。答えられないのかと重ねて訊けば、ロドスの古株であるワルファリンたちに個人的に世話になっていた時期が長いのだという。ロドスという組織そのものができたのは比較的最近だが、ロドスの前身とも言える組織に属していたことにはなるのかもしれないと。その答えを聞いて、エンカクは黙り込む。少なくともこの様子では、本当に知らないのだろう。エンカクがあの『戦争』のとき、どこにいたか。それきり質問は終わったと思ったのか、再び衣擦れの音がして。
 ――お前は、そこにいたのか?
 聞いたところで、意味がわからないだろう。断片的な話を聞く限り、はドクター個人との関わりはほぼ無いようだから。それでも、弟の部隊を全滅させた男の傍に自分がいたと聞けば、この姉は何も思わないではいられないはずだ。「お前は俺の敵だった」と、教えてやれば。Wはおそらく知っていた。が当時既にロドスの前身となる組織にいたことも、弟の所在を知らないままドクター側の人間として動いていたことも。
「……性格の悪さは折り紙付きだな」
 Wがそれらを黙っていた理由が、善意や義理だけであるはずがない。十中八九、その大半は姉弟関係を引っ掻き回して楽しんでいるつもりなのだろう。ぼそりと呟いた言葉はには聞こえなかったらしく、仕切りの向こうから漏れていた明かりが消える。何も知らないに責を負わせるつもりもないが、何事もなく済ませるつもりもない。例え知らなくとも、姉がエンカクの元から逃げ出した結果は最悪の形となっていたのだから。じわりと胸の内に広がった黒いものは、怒りではない。悲しみとも違う。そんな生易しいものではなく、けれど烈しさというには粘着質で。愛憎とでも、呼べばいいのだろうか。恋い焦がれ、心奪われていた相手が間接的に自分を陥れる立場にあったと知って。Wが期待しているであろう、好意の反転ではない。だが、ただ全てを呑み込んで赦せるというわけでもない。殺してやりたいとは、思わないが。
(俺と離れて死ねると思うな)
 シーツの上に横たわって、暗くなった仕切りの向こうをじっと見つめる。明かりを消しても、当分睡魔は訪れそうになかった。
 
201113
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