「最近、さんのあだ名は『サルカズ係』に変わったんだってさ」
「へぇ、それは大変だな」
 同僚たちのお茶請け話にされていることに構う暇もなく、は今日もロドス内を忙しく駆け回っていた。サルカズ係。いささか不本意ではあるが、自分でもそう呼ばれることが納得できてしまうのが悲しいところだ。今朝も検査をすっぽかしたエンカクをトレーニングルームまで迎えに行ってどうにか連れ戻し、帰ってくればワルファリンが一部のオペレーターたちと怪しい会議を開いているところに遭遇してケルシーを呼び出して。その間エンカクの暇潰しにされた髪の三つ編みを解きながら、ケルシーに叱責を受けてむくれているワルファリンを宥めすかした。仕事の合間には術医療の専門課程の教本を読み込み、かと思えばまたワルファリンが新薬とやらで騒ぎを起こして。それがどうにか片付けば、今度は弟がブリーフィングの途中で部屋を出て行ったと作戦立案担当のオペレーターからヘルプコールが入る。ロドス内を探し回り庭園でようやく見つけた弟は、が来るのがわかっていたかのように大して驚きもせず出迎えた。
「……ずいぶんと体力が無いんだな」
 ぜぇはぁと肩で息をしているを、少しの哀れみと呆れが混ざったような笑みでエンカクは見下ろしている。体力が無いのは確かだが、それでもは前線の作戦に参加するための最低基準はクリアしている。息せき切って駆けつける羽目になったのは、そこで薄い笑みを浮かべているエンカク本人のせいなのだが。しかしそんなことより、本題はエンカクを連れ戻すことである。抗議の言葉を飲み込んでエンカクの腕を半ば縋るように掴むと、逆に腕を掴み返され瞬きする間に抱え上げられた。
「なっ、……え……?」
「今日の検査は終わったんじゃなかったのか?」
 片腕でを軽々と抱えたまま、霧吹きやら液肥やらを片付けてエンカクはスタスタと歩き出す。目立つから降ろしてほしいだとか少し息を整えれば歩けるだとか言いたいことはあったが、このまま勘違いで医療部まで抱っこで連れて行かれるのは勘弁願いたい。慌ててまだ整わない息でどうにか「ブリーフィング」「抜けた、って……」と用件を口にすると、何を言われたのか思い出そうとするかのような顔をしてエンカクは立ち止まった。
「ブリーフィング? ……ああ、そんなことでお前を走らせたのか」
「走らせたのは……あなただけれど……」
 不穏な目の細め方をしたエンカクに対し、かの可哀想なオペレーターに弟の不機嫌が飛び火しないよう訂正の言葉を口にしておいた。にとっては恐ろしいことに、弟はいささか歪曲した好意を自分に向けている。そしてサルカズ傭兵の多くが同族中心のコミュニティの中で人間関係を完結させがちなように、エンカクもまた姉以外の人間と新しく関係を築こうとする気配を見せない。それらが噛み合ってしまった結果、過保護というにはあまりに可愛らしくない排他性をエンカクは見せるようになって。一部のオペレーターに、姉離れのできない弟として見られているのはまだいい。自ら人の輪を外れて黙り込んでいるサルカズの刀術師にも可愛いところがあるのだなと、一種のギャップのように扱われてすらいる。もっとも、はそれが「可愛い」などとは決して思えないのだが。エンカクがまともに感情を見せて会話をするのはを除けばドクターくらいで、しかしそれも傲慢とも期待とも取れる奇妙な態度なのだ。結果としてやはり弟と円滑なコミュニケーションを取れているのは姉だけだと、エンカクに困らされたオペレーターたちはもはや最初からに用件を伝えるようになってしまった。弁解させてもらえるのならとてエンカクと完全に意思疎通ができているわけではないのだが、それでもエンカクがの頼みであればそれなりに積極的に動くということが周知されてしまっているのが問題だった。けれどどうにもエンカクは、その態度を改めないわりに自分のことがきっかけでのところに人が集まってくるのを厭う節がある。があれやそれやと頼み事をされるのは最近はもっぱらエンカクのせいなのだから、嫌なら少しでも態度を改めてほしいのだが。そう言ったところで弟は「お前が他人にいい顔をしようとするのが悪い」と鼻を鳴らすのだ。
「お前は、どうしてそう他人のために駆け回るんだ」
「それが普通でしょう……?」
「また『普通』か。お前は弱いのだから、何もせずともいいだろうに」
「何もできなかったら、私がいられるところなんてないよ……」
 それより降ろして、と呼吸の落ち着いたはぽすぽすとエンカクの胸を叩く。けれど弟は立ち止まりはしたものの、を降ろさずにじっと顔を見下ろして。精悍な顔立ちの弟が黙り込むと、どうにも凄みというか、威圧感がある。嫌な軋み方をした心臓には気付かなかったフリをして自分で降りようとするが、「落ちるぞ」と子どもを窘めるように抱え直されただけだった。
「お前を受け入れないサルカズなど、いるとは思えんが」
「……サルカズじゃなくて、他の……」
「同胞がいるのに、なぜわざわざ他人に受け入れてほしがる?」
「私は……サルカズの仲間だけいればいいとは、思えないから……」
 魔族と呼ばれ、他者に疎まれた結果として結束が強くなったのだろう。けれどその閉鎖的で排他的な仲間意識は、にはどうも怖いもののように思えて。血と塵の臭いがする閉じられた場所で殺し合いから離れられずに生きていくのがサルカズだというのなら、はサルカズとしては生きていけない。サルカズが独善的で自分本位だという批判は、あながち的外れでもないのだ。同族同士でつるむのに、その自分本位さから反目し合う。弟はこう言うが、実際のような弱く臆病なサルカズは同族にも受け入れられないだろう。ロドスにいるサルカズたちは優しいから、忘れてしまいそうになるが。サルカズの中では生きられないから外に居場所を求めるというのは、そんなにおかしな話だろうか。珍妙な生物を見るような目で見下ろしてくる弟に、そう問う勇気はない。
「お前は贅沢だな」
 唐突に罵られ、は鼻白む。確かに同族の肉親が目の前にいてこの物言いは、贅沢で勝手だと自分でも思うけれど。些か屈折しているとはいえはっきりと好意を示す弟を拒絶しておいて、他者に拠り所を求めるのは酷いことかもしれない。それでも。
「私は、あなたがこわい」
「…………」
「怖いの」
 こうして話している今もずっと、弟が傍にいるというだけで恐怖に身が竦む。エンカクへの対応を任されて普通に話しているように見えても、体面をどうにか取り繕っているだけだ。逃げられないと諦めたのも、かといって弟を受け入れず曖昧な距離を保つと決めたのも自分だから、泣き言など到底口にできないが。弟を居場所として生きていくのは嫌だと、無理だと思う。血を見るのも自分のアーツの炎すら怖くなったのも、弟という存在がいたからだ。医療オペレーターとして生きていく上で、それらはどうにか克服しなければならなかったが。は、恐怖を誤魔化すことに慣れすぎてしまった。ロドスで再会した弟に塗り替えられた恐怖は、到底誤魔化しきれるものではないけれど。だからこそは、弟がいればそれでいいとは思えない。誰よりも近い存在かもしれない、誰よりも自分を愛して受け入れてくれる存在かもしれない。それでも、怖い。二回目の「降ろして」は、案外あっさりと聞き入れられた。
「……どうして、ブリーフィングを抜けてきたの?」
「抜けるも何も、もう終わっていた」
 エンカクが少しも急ぐ様子を見せないから、その手を引いて早足で歩いて行こうとするものの。何か嫌なことでもあったのだろうかと問いかければ、思わぬ答えが返ってきて。戸惑うに大人しく腕を引かれながら、エンカクは淡々と言う。
「作戦の説明そのものは終わっていた。参加するオペレーター同士で親睦を深めるために会話をしろと言うから、その場に残る意味は無いと思って抜けた」
「それは……」
「生い立ちや境遇を知っていたところで、作戦の成否に関わるほどの影響があるとは思えん。死ぬやつは死ぬ、それだけだ」
 思わず立ち止まったの横で、エンカクも歩みを止めた。エンカクにしてみれば理解し難い通達だっただろうし、ロドスの中には彼に同意するオペレーターも少なからずいるだろう。ただ、は考え方そのものに是非を言える立場にない。弟に信頼関係を築くことの大切さを今更説くことができるほど、はまともに「姉」をしてこなかった。
「……それをリーダーに説明して、許可を取ってから抜ければよかったと、思う」
「そうか。なら、次からはそうしよう」
 に言えるのは、ただ最低限の協調性は持っておけということだけだ。少なくともエンカクが黙っていなくなりさえしなければ、が駆け回る羽目にはならなかったのだから。同時に、やたら聞き分けのいい弟に拍子抜けしたような気持ちになる。が特別だからというより、ほとんどのことに関心が無いからこその聞き分けの良さだとは思うのだが。臨時小隊の誰かがエンカクに声をかけて、去ろうとする理由を訊いていれば彼はあっさりと言い分を口にしたのではないかと。彼らが黙ってエンカクを見送った理由の一つに、サルカズであることが含まれていないとは思えなくて。だが、サルカズは色眼鏡で見られることを前提に行動しろと弟に忠告するのは干渉しすぎだろう。とエンカクの姉弟関係は、気軽に説教やお節介を口にできるほど親密ではない。ただ、近いだけ。近すぎて、離れられないだけの姉弟だ。
「お前はずいぶんと、他人が好きらしい」
「……?」
「弟よりもどこかの他人を選ぶくらいにはな」
 脈絡のないエンカクの言葉に、は思わず掴んでいた腕を離した。人に頼まれて連れ戻しに来たことを言っているわけではないだろう、その言葉には何かもっと重い意味が込められている。けれど、には思い当たることがなかった。過去に逃げたときのことを揶揄しているのかとも思ったが、あの時は弟と何かを秤にかけて選んだわけではない。ただ、弟から逃げたかっただけで。他種族に受け入れてもらうことを望むような発言は、確かに同族の弟にとっては面白くなかっただろうが。その話を蒸し返しているわけではないと、何となくわかる。だが、それだけだ。
「お前は本当に酷い女だ」
 面と向かって罵倒されたのに、不思議と怒りも悲しみも浮かんでこない。エンカクも、そんなことを言っておきながら笑みを浮かべている。或いは、弟に対して酷いことをしているという自覚でもあるのだろうか。酷いことをされているのは、むしろのはずなのに。怖い弟より優しい他人を選ぶことが罪なのかと、反論する気持ちもどうしてか湧いてこなかった。エンカクがに何を求めているのか、わからない。やはり、ただ近くにいるだけで隔たりは少しも埋まっていないのだろう。
「……ごめんなさい」
 目を逸らして、一歩後ずさる。受け入れる気もないのに姉弟の形を取り繕おうとすること自体、弟に対して残酷なことだったかもしれない。報復や仕返しのつもりはなくとも、そう取られても仕方のないことだと反省する。
「その……あなたが嫌なら、こういうのもやめるから」
 部屋はすぐには変えられないが、そのうち時期を見て移動の申請を出そうとも思う。まともな姉弟ごっこに付き合ってくれただけ、この弟にしては優しい方だ。そう思って距離を取ろうとしたのに、弟は呆れたようにため息を吐く。
「……何を勘違いしているのかは知らないが、お前の考えはよくわかった」
 離した手を、弟が掴む。ぎち、と骨が軋みそうなほどの強さで握られて、無理だとわかっているのに思わず払い除けようとした。あまりの非力さに、エンカクは嘲るような笑みを浮かべる。
「お前は心底、俺のことがどうでもいいらしいな」
「……ねえ、痛い、」
「薄情な姉だ」
 ぎちぎちと、掴まれた手が悲鳴を上げている。きっと痣になってしまうだろう。が今この場で殺されなければ、痣になった手を見て憂うこともできるだろうが。
「お前は、ロドスで居場所を得るためならサルカズを殺せるのか?」
「え……?」
「お前が殺したサルカズの名前を教えてやろうか」
「わたし、人を殺したことなんて……」
 わけのわからない弟の言葉に、さすがのも反駁する。サルカズどころか、誰かを手にかけたこともない。弟が何を言っているのかわからなくて、泣きそうな顔で手を振り解こうとしたにエンカクは声を上げて笑った。
「本当に覚えていないのか、幸せなやつだな」
「……あなたが何を言ってるのか、私、」
「まあいい。俺を殺すときはせいぜい忘れないでくれ、『姉さん』」
 パッと手を離されて、は掴まれていた手を庇いながら後ずさる。じんじんとした痛みもどこか遠くに感じるほど、弟の言葉に混乱していて。
「――、」
 喉の奥で、弟の名前を紡ごうとしてただの吐息になった。それでもエンカクにはが言おうとした単語がわかったらしく、「覚えていたのか」と揶揄するように目を細める。
「俺の名前すら忘れたのかと思っていたが」
「……エンカクは何がしたいの?」
 に何をしてほしいのかと、ほとんど自暴自棄になりながら問いかける。少なくともは、弟の好意には応えられない。それでも逃げるなというから、せめて普通の姉弟の真似事でもしようかと努力したのだ。それが嫌なのかと問いかければ、殺しただとか覚えていないだとか。
「殺したくない、あなたのことも、誰のことも」
「そんな覚悟で、よく前線に行けるものだな」
「あなたは敵じゃないでしょう……?」
「俺が敵なら殺せるのか?」
「私にあなたは殺せないよ……」
 今日のエンカクは、いつにも増して無茶を言う。そもそもにエンカクを殺すほどの技量があるわけないと半ば投げやりな答えを返すが、そんな論点をずらすような真似をこの弟が許すはずもなく。
「無知は罪だが、まあいい。お前のことだ、どうせ知っても泣くだけだろうからな」
「……?」
「裏切りもお前なら一度は許す。だが、二度目は無い」
 それだけ告げて、弟は歩き出す。わけのわからないことばかり言われて混乱していたが、頼まれたからにはエンカクが戻るのを見届けるまでついて行くべきだろうとも足を動かした。おもむろに振り向いた弟が、おずおずとついて来るを見て鼻で笑う。
「お前も大概だな」
「何が……?」
「俺の姉で、サルカズだということだ」
 姉弟ごっこは続けてやるさ、とエンカクはに合わせて歩調を遅くする。弟の言うことは抽象的で迂遠で、何の話をしたかったのかにはほとんどわからない。ドクターもエンカクと話すときはこんな思いをしているのだろうかと、あまり話したことはない覆面の彼にひっそりと同情した。けれど、話をしようとしてくれるだけ良い方に変わったのだろうか。弟を理解しようとすることが良いことなのか悪いことなのか、それすらも今のにはわからなかった。
 
201118
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