今日はどうにも寝付きが悪いと、幾度目かの寝返りを打ちながらは目を瞑ったまま眉を寄せる。弟が同室になって以来、緊張で不眠が悪化するとばかり思っていたのだが。なぜかエンカクが任務に出ている今日に限って、虚しく秒針の音を数え続けていた。思えば、ここ数日は不思議と寝付きが良かった気がする。起きている間の弟に対する警戒心で疲れて、かえってよく眠れていたのだろうか。ポデンコが作ってくれた花枕に顔を埋めると、心安らぐ匂いが仄かに香る。
(だいじょうぶ、)
 きっと、数日ぶりに自分を脅かすものと離れて解放感に戸惑っているだけだ。恐怖の根源がいないのだから、今日は眠れるはずだと自身に言い聞かせる。そういえば、弟が来てから部屋の匂いは少し変わった。パフューマーやポデンコなら、エンカクが纏う匂いをうまく言い表せるのだろうか。にとってあの匂いは重たくて、怖くて、けれど一番よく知っている。今この部屋に弟はいないけれど、戦場の匂いはやはりかすかに漂っていて。重苦しく肺を満たす空気が思い起こさせる記憶を振り払うように起き上がり、サイドテーブルの引き出しから睡眠導入剤を取り出して服用する。再びシーツの上に体を横たえた後は、努めて何も考えないようにして目を閉じることにただ集中した。やがて、無意識に何かに縋るように指先がシーツを掴んで。
「…………」
 すぅ、と深い呼吸の音が漏れる。ゆっくりと上下している胸は、がいつの間にか眠りに落ちたことを示していた。

 ぎしりとベッドが軋む音に、エンカクは一瞬動きを止めた。だが、姉は呑気な寝顔を晒して穏やかに眠ったままだ。案外神経が太いのかと本人が聞いたら怒りそうなことを考えながらも、簡素なワンピース姿で眠る姉に覆いかぶさった。夜中だろうと医療部の呼び出しが来ることがあるからか、が寝間着らしい寝間着を着ているのは見たことがない。一度の動く気配に目を覚ましたことがあるが、ワンピースの上に白衣を羽織り急いだ様子で部屋を出て行くところだった。無防備な格好のまま出歩くなと思うものの、自分も傭兵のときの癖で上着も羽織らず出て行くことは珍しくないから似たり寄ったりではあるのだが。それでもお前は女だろうと、に危害を加えた張本人でありながら自衛を促したくなる。
「……、」
 首筋に鼻先を寄せると、いつもと少し違う匂いがする。いくつかの花の匂いが混ざり合ったそれは、姉の頭の下にある枕から髪や肌に移ったようだった。無言で枕を抜き取ったエンカクは、それをベッドの隅に放り投げる。香り袋といい花枕といい、姉はどうにも不眠の改善を花の匂いに頼ろうとしているらしい。「馬鹿だな」と呟いて、血錆の臭いが染み付いたままの手で姉の頬を撫でた。繊細極まる姉にとっては、年端もいかないのに躊躇いなく他人を手にかける弟は恐ろしいものだったろうが。同時に、弟の傍にいれば他人に害されることもなかった。最も怖いものの隣が、最大の安心の場所でもある。実際エンカクがロドスに来てからはサイドテーブルの引き出しにあった睡眠導入剤が使われた形跡は無く、朝もエンカクがトレーニングルームに行く前に寝顔を覗き込んでいることに気付かず寝入っているようだった。子どもの頃の歪な安息を、体は覚えているのだろう。エンカクにとっては安心など感覚を錆び付かせる毒でしかないが、姉はそれがないと眠ることすら儘ならないらしい。夜を恐れるサルカズなど滑稽だと思いながらも、姉が無意識ながら自分の存在を求めていることに愉快な気持ちもあった。とはいえ、今は姉に子守唄を歌ってやるために顔を寄せたわけではない。首筋に指を這わせると、血と泥の混ざった汚れが白い肌に赤黒い線を引く。言いようのない興奮にぞくりと背筋を震わせて、ここでは初めての戦場となった光景を思い返した。
「……今日はつまらない戦いだったな」
 実力を測る意味合いもあったのだろうが、何とも生温い戦いだった。刀を抜くにも値しない雑兵ばかりで辟易としつつも、ある種の昂りを覚えたのは確かだが。ロドスの指揮系統は、少なくとも愚鈍な暴徒共よりは遥かにまともだった。これからのより良い死闘への期待はまだ捨てずにいられるだろう。だが、拍子抜けするほど生易しい戦場に燻るような熱を持て余したのも確かで。眠る姉に触れていると、ふつふつと欲情が湧き上がってくる。首筋から鎖骨へと肌をなぞっていく無骨な指に、が「ん……」とかすかな反応を示した。今はよく眠っているとはいえ、元々の眠りは浅い方だ。触れているうちに目を覚ますかもしれないが、どうせ眠ったままにしておく気も無いので別に構わない。無遠慮に胸を掴んで揉むとの眉間に皺が寄ったものの、目覚める様子はなく。柔らかな膨らみの感触を阻む下着の固さに眉を顰め、緩い首元から手を突っ込んで邪魔なそれを外した。華奢な体に見合わない少し大きめの膨らみは、掌で包み込むとふにりと指が沈む。柔らかくも弾力のあるそれを好き勝手揉みしだき、つんと布地を押し上げるように勃った突起を指先で弾いたり摘んだりして弄ぶ。未だに瞼を閉ざしたままのが、嫌々をするように顔を逸らした。
「う、ん……?」
 何か違和感は覚えているのだろう、身を捩ってエンカクの手から逃れようとする。腰の上に跨って体を抑え込むと、寝苦しそうに眉が寄った。姉の体はどこもかしこも細くて頼りなくて、よくこれで前線への参加を言い出せるものだと呆れるほどだ。弱いのだから、昔のように自分の陰に隠れていればいいものを。自分の傍から逃げ出したくせに、一人では満足に眠ることもできない生き物。愚かだとは思うが、そういうところも含めて好ましいと思うこの感情が愛とかいうものなら仕方がないのだろうか。それにしても案外起きないものだな、と不埒な行為を働いている側にも関わらず未だ眠りの中にいるを訝しく思う。ふとベッド脇のゴミ箱に視線をやれば、底には薬包が落ちていて。「なるほど」と呟いて、薄い唇を指先でなぞった。寝込みを襲うような真似はしないだろうという信用は、一応あったのだろうか。姉のことだから、考えないようにしていただけかもしれない。うっすらと頬が赤く火照ってきたを見下ろしていると苛立ちにも似た感情がよぎって、その衝動を発散するように首元に吸い付いた。
「っ、あ……」
 眠っているからか、ずいぶんと素直に甘えるような声を漏らす。無意識の反応の方が可愛げがあるは、目が覚めたら首に残った痕を見てまた泣くのだろうか。夜めいた美しさを持つくせに稚いところのある姉が狼狽える姿は、征服欲が満たされて愉快ではあるのだが。大人びて落ち着いているだとか儚く嫋やかで近寄り難いだとか、のロドス内での印象をひと通り聞いて思わず笑ってしまったものだ。怖がりで異常に卑屈で自己主張が下手で、弱くて脆く繊細な姉がよくもまあ良いように言われたものだ。それもが必死に「普通」であろうと努力した結果なのかもしれないが、結局誰もこの綺麗な女の内側にいる泣いてばかりの子どもには気付いていないのだから滑稽なものだった。あるいは自身ですら、本心ともいうべきものから目を逸らして忘れようとしているからかもしれないが。結局姉は独りになりたくないだけで、内面をさらけ出して深い付き合いをすることにさえ怯えて本当に親しい人間のひとりもいない。どうしようもなく、哀れな魔族だ。柔らかくて温かい、妖魔と呼ぶにはあまりにひ弱で不憫な存在。少し爪を立てれば血が滲んでしまいそうな薄く白い肌も、頼りない輪郭を描く肢体も、あの荒廃した土地で生まれ育ったとは思えないほど無垢な美しさを持っている。ロドスではあの頃より遥かにまともな生活を保障されているのだろう、離れていた数年の間に姉は温室育ちの花のように手入れの行き届いた生き物になっていた。誰かに守られて生きていくのが当たり前のような、そんな存在。そのを捕まえて、犯したのはエンカクだが。柔らかな肌も、脆い温もりも、全てエンカクが喰らって蹂躙した。痛みと快楽の入り交じる感覚に戸惑い泣き喘ぐ様も、炎の色をした瞳が溺れそうなほど涙を溢れさせる様子も、余さず自分の目の前にさらけ出させて。嫌だと泣くくせに助けを求めるように縋りついてくるのは、愚かでいじらしくて愛おしかった。綺麗な顔をしているのに色気も何もない子どものような泣き方だったが、思い出せばゾクゾクと背筋が興奮で震える。まともな人間であれば庇護欲を感じるであろう姉の姿は、エンカクにとっては嗜虐心を煽られるものでしかない。そういうところが妖魔だと謗られるのなら、まったくその通りだと頷く他ない。自分は騎士でも天使でもなく、サルカズの姉の弟なのだから。

 眠りの中にいる姉を呼んでも、返事はない。いつもなら当然のことだとわかっていながら理不尽に腹を立てるところだが、今日は姉の名を呼ぶことへの優越感が勝っていた。個人的に世話になっていたという医師たちですらと呼ぶように、ロドスには姉を本来の名で呼ぶ者はいない。同僚とやらにそれとなく探りを入れたところ、そもそもという名前を知っている者すらほとんどいなかったようで。エンカクが呼んで初めて知ったと言うその同僚は、自分もと呼んでいいかとエンカクの目の前でのたまって姉に微妙な反応を返されていたが。ほぼ忘れかけていた名前であるし呼ばれても、というのが姉の稚拙な言い訳だった。エンカクに呼ばれるのも許しているというより、何を言っても無駄だと諦めているそうだ。それも本心ではあるのだろうが、エンカクにしてみれば姉にとって自分が特別だと示されているようにしか思えなかった。忘れかけていたと言いながら、エンカクが呼べばすぐに気付くことも。恩師たちですら呼ばない名前を呼ぶことを、諦めという形であれ許していることも。こうして、エンカクの傍でなければ眠れない姿を晒してしまっていることも。怖いだの嫌だの言うくせに、自覚のないところで弟を受け入れている姿が滑稽で腹立たしくて、愛おしいのだ。他人に踏み込むのも踏み込まれるのも恐れすぎて、まともな恋愛のひとつもしてこなかったのだろう。女としての経験が少しでもあれば、自分の気持ちをすっかり差し出していることに気付かずあれこれ言い募るような無様な姿は晒すまい。姉がそれに気付くのを待つのは、苦ではないが。促すくらいなら構わないだろう。結局弟の隣が自分の居場所なのだと、自覚するのはいつになることやら。待っていてやるから、好きなだけ泣いて怯えていればいい。手を差し伸べたことを忘れているのなら、今度は自分から掴んでやってもいいのだ。力なく投げ出されている姉の手を、戯れに握って指を絡めてみる。笑ってしまうほど、華奢な指だ。刀を握る自分の手とは、あまりにも違う。誰かを傷つけるための炎は生み出せない手。自分を守るための武器すら持たない掌。ほっそりとした指と、丸く整えられた桜貝のような爪。どこまでも、戦いとは無縁の手だった。こんな手が、あの日エンカクを連れ出した。そして誰かの命を奪ったことを忘れて、こんなにも弱々しく綺麗なものでいる。絡めた指を一本一本指先でなぞっていくと、くすぐったそうに薄い瞼が震えた。
「ん、」
「…………」
 それでも、まだ目覚めない。弱々しい力で、きゅっとエンカクの手を握り返しただけだった。本当に、無意識の行動が厄介な女だと思う。弱いくせにタチが悪くて、けれどそれに振り回されるのも満更ではない。くっと喉奥で嘲るような笑みを零して、口元に引き寄せた手に唇を押し付けた。
 
201202
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