弟を憎んでいるのだろうか、と自問する。正面切って誰かを憎めるほど、自分は強くないと否定した。ならば恨んでいるのだろうか、と思案する。卑屈な自分が抱くには相応しい感情なのだろうが、泣きすぎて涙と一緒に流れ出てしまったのか不思議と恨みすら湧かなかった。
(……鉱石病、顔にまで……)
の頭を腕に抱え込んで眠っている弟の顔を、ぼんやりと眺めていた。体全体が疲れ切って鉛のように重かったけれど、その頬にそっと手を伸ばして。体表に浸蝕している鉱石病の痕をなぞって、眉を顰める。検査や治療をするにあたって目の当たりにしてはいたが、こうして改めて触れるとやはり何とも思わないではいられなかった。子どもの頃にはなかったその痕を痛ましいと思うのは医師としての使命感などではなく、姉としての情なのだろう。憎んではいない、恨むこともできない。ただただ、怖くて。それでも、嫌いだと突き放すこともまたできない。がんぜない子どものように泣いて嫌がるばかりの自分を「酷い女だ」という弟の言い分も、少しはわかる気がした。だからといって、弟にされたことを許容できるわけではないけれど。辱められて、貶められて、耐えることしかできないことと受け入れることは違う。どうしようもないところで優しさを見せるくせに、本当に大切にしたいことだけは尊重してくれない。ずるい、とそれこそ子どもじみたことを思ってしまった。その身勝手な思慕と執着こそが恋なのだと、未だ恋というものを経験していないは知らないのだ。愛しさと憎らしさの綯い交ぜになった感情を炎色の瞳に燻らせる弟は、よりよほど恋というものを知っている。ある意味では姉よりずっと人間らしい弟の執着を理解するには、は少し純粋すぎた。
(似てない、)
外見はよく似ている姉弟だと、周りは言うけれど。静かに眠る弟の精悍な顔立ちに、は自分との共通点を見い出せなくて。目や髪の色、角の特徴など確かにパーツは同じだ。だが、目の前の弟の顔を見ているとやはりどこまでも違う生き物だと感じさせられる。職人が手がけた彫刻のような印象すら受ける硬い顔つきと、人馴れしない気高い獣を思わせる雰囲気。男女差もあるのだろうが、血の繋がりを感じさせるのは体を構成する部品くらいのものだった。神というものが命を作るのなら、たまたま同じ材料でふたりを作っただけだと言われても不思議はないような。つまるところ、そのくらいにとって弟というものは遠い存在だった。わかり合えないくせに近すぎて、噛み合わなくて、苦しい。病巣となった腕の傷痕が、ずきりと痛んだ気がした。弟にとっても、この病が何の苦痛も齎さなかったはずがないのだけれど。すぐ泣くと違って痛いだとか苦しいだとかを表に出すことの無い弟が、何に苦痛を感じるのかわからない。はたして弟が人並みの痛みを感じるのだろうかというありえない疑念すら抱いてしまうから、は『酷い姉』なのだろう。いがみ合いたいわけでも、傷付けたいわけでもないのに。けれど、そうやって争いを避けるのは結局怖い思いをしたくないという自己保身の結果であって、弟を受け入れる気もなくいつか執着が失せるまで怯えて萎縮しているだけだ。そういうところが弟を苛立たせているのだとは、わかってきた気がするけれど。を詰る弟だって、十分すぎるほどに酷い。脅して、逃げられなくして、受け入れられないと言っているに男女の関係を強いて。泣きたくなることばかりするくせに、泣いているに優しくする。今日だってどんなに嫌がっても泣いても嗤って行為を続けたのに、ほとんど気を失いかけていたが我に返ったときにはこうして弟の腕に守られるようにシーツの上で横になっていて。身を離そうにも、眠っている弟がしっかりとの頭を抱いていて抜け出すことができなかった。に酷いことをする手で優しくするから、余計に弟の考えていることがわからない。愛恋の何たるかを知らないには、弟の(おそらく)一般的ではない情愛は荷が重すぎた。
「…………」
それでも、嫌いになれないけれど。そっと弟の頬を掌で覆って、アーツを使うために集中する。死んでほしいわけでも、病魔に冒されて苦しんでほしいわけでもない。弟が鉱石病に苦痛を感じているかはわからないが、やはりこれはただの情だった。弟は傷を負うことも病に罹ることも顧みないが、目の前にそういうものがあればは顔を背けることもできない。ただ、他人の傷を見て見ぬふりするのが怖いだけで。これは使命感でも、善性でもない。怖いから逃げて、怖いから蓋をする。これまでもこれからも、きっと自分はそういう人間だ。せめてほんの少しでも病苦が和らげばと、人も物も燃やせない炎でその頬を撫でた。
「……寝首を掻こうとしていたわけではないのか」
「っ!?」
突然目の前で炎の色をした瞳が開き、どこか呆れたように呟いたエンカクにはぴゃっと跳ね上がった。心臓が縮み上がるほど驚いて手を引こうとするが、その上から手が添えられて逆に押さえ付けられる。小さな橙色の火に視線を落とし、自らに巣食う病を燃やそうとするそれに何を思ったのかエンカクはスッと目を細めた。
「お、きて、」
「元々深く眠らないようにしているだけだ」
根本的に、他人がいようがいまいがぐっすり眠るということはない。周囲を信用はしても信頼などしないし、呑気に眠っている間に殺されるなどつまらない死に方にもほどがある。がエンカクから逃げたとき殺されることすら現実の可能性として考えたように、エンカクも姉だからと呑気に急所を晒して寝こけることなどしない。の本心も自覚も、エンカクがに向ける感情もそこには関係なかった。エンカクの追い求める死は戦いの果てにあるもので、それは刃も感覚も研ぎ澄ましていなければ手に入らないものだ。安息というものをそもそも必要としていないだけで、そこに姉に対する情は関わりない。がたとえ逃げるために弟を手にかけようと思い詰めたところで、戦いにすらならないことはわかりきっているが。その両手で縊り殺そうとしても、ナイフを持って頸動脈を狙ったとしても。それらがエンカクの命に触れる前に、エンカクは姉を容易に殺せてしまう。弱い姉を殺すには刀どころか、片腕だけでも過剰なほどだ。はエンカクと同じ塵に還る生き物であって、エンカクと対峙して死を奪い合う相手ではない。自身の情欲で姉の尊厳を踏み躙るのは二度目とはいえ、姉が自分に殺意を向けることは期待していなかった。あの日見られなかった殺意という刃を持つことを選ぶのならそれはそれで構わないが、姉は何を血迷ったのかよりにもよってエンカクを癒そうとしていた。本当に、心底から意味のわからない生き物だ。責めるか泣くかはするかと思っていたのに、何を思って頬に手を当てたのかと様子見をしていたが。頬を張り飛ばすならまだわかる、殴ったとしても手を痛めるのは姉の方だから、好きにさせてやろうと思っていたら頬を包んだのは暖かい炎で。呆気に取られて目を開ければ、姉は悪さの見つかった子どものように顔を青くしていた。虐待じみた目に遭わせたせいで頭がおかしくなったのだろうかと一瞬疑ったが、泣きそうな瞳にはいつものようにエンカクへの怯えが映っている。正気のまま、泣くほど怖がっている弟に対して鉱石病を少しでも除こうとしたらしかった。狂ったわけでも、媚びているわけでもない。かといって自分を受け入れる気になったのかというと、そういうわけでもないだろう。
「……あの、離して、」
距離の近さをやっと思い出したのか、今更顔を赤くして消え入りそうな声でが言う。「先に触れたのはお前だろう」と頬に当てられた手を握れば、気まずそうに目を伏せた。弱々しく瞬いた炎が消えて、ただ掌の温もりだけが残る。
「勝手に触って、ごめんなさい……」
「…………」
それを言うならエンカクは眠っているを勝手に触るどころか犯したわけだが、これが当てつけのつもりでもないのだから余計たちが悪い。やりづらい女だ、と呆れつつも黙って抱き寄せると、怯えたように身を震わせて戸惑う声を上げた。
「エンカク、」
「寝なくていいのか」
色々と棚上げして姉の言葉を遮れば、案外素直に大人しくなって縮こまる。おそらくもう弟への抵抗を諦めているのだろうが、そんなだから付け入られるのだと付け入る側でありながら思った。どうしてこうも被虐嗜好を疑いたくなるほど一挙一動で煽ってくるのか疑問だったが、根っからこういう生き物なのだろう。従順で気が弱く卑屈で、そのくせ妙なところで強情で。綺麗な顔をしたサルカズだから有象無象には遠巻きにされているが、そうでなければとっくにつまらない男に引っかかって食い潰されていただろう。よほど首輪でもつけて閉じ込めておいてやろうかと、妙な趣味に足を踏み入れそうになる。
「俺からすれば、お前の方が理解し難い」
頬を包む温もりに奇妙な心地を感じて呟くエンカクに、腕の中のはきまり悪そうに身をよじった。蚊の鳴くような声で何か言うから問い返せば、また泣きそうな顔をしてエンカクを見上げる。
「苦しいかもしれないって……思ったから……」
「……ここまで来ると偽善よりもタチが悪いな」
「え……?」
思わず溜め息を吐きそうになったが、姉の考えそうなことは知っている。単純に、見限ったり見捨てたりということができないのだ。弱いくせになまじ善性と良心があるから、自分に危害を加える相手ですら見過ごしておけない。弟であるエンカクに対しては、特にそれが顕著で。あるいは『商品』だったとき逃げようとエンカクに手を差し出したのも、そのどうしようもない善性のためかもしれなかった。姉はエンカクが弟で幸運だ。姉は弱く、弟は強い。自分の姉が目の届かないところでつまらない死に方をするのは面白くないから、手元に置いて死なないように見てやっている。自分と離れていた間、よく生きていられたものだとは思うが。を拾ったとかいう吸血鬼も、弟子にしたとかいう医師も、奇特なことをするものだ。エンカクと姉を繋ぐものは血と執着だが、は他人と信頼だとか損得勘定だとかで支え合っていると平和な幻覚を見ているのだろう。姉がお花畑なのは別段構わないが、骨肉の関係である自分にまで普遍の善性を向けられるとあまり面白くはない。それが取り繕った偽善ですらないのだから、弟相手に何のままごとをしているのかと憤ることもできなかった。もっとも、真性のお花畑であればあの日姉はエンカクだけではなく全ての『商品』に手を差し伸べていただろう。そうではないから、この女が聖女などではなく自分の姉だと認めて手を引かれてやったのだ。普通のいい人とやらでいたがる姉にその夢を見させてやっているのは、自分が弟という特別の自覚があるからこそだった。拒まれると腹が立つくせに、何も無かったかのように接せられるとそれはそれで苛立つ。逃げられないからと腕の中に大人しく収まる姉を見ていると、満たされると同時に恨み言のひとつでも漏らせばいいものをと思わせられた。
「んッ……!?」
理不尽な苛立ちをぶつけるように首筋に噛み付くと、びくっと跳ねて逃げようと身をよじる。当然逃げられるわけもないのに、腕の中でじたばたともがくのが面白くて好きに暴れさせてやった。いくつも噛み痕や鬱血痕をつけて、人前で首筋を晒せないほどに自分の痕跡を残していく。「優しくして」と乞うたのはだから、例えそれがエンカクに追い詰められたせいで発したうわ言でも聞かなかったことにする気はなかった。姉は自分が誰のものか理解した上で許しを乞うたのだろうと、所有の証を刻んでいく。この期に及んでまだ嫌だの何だのと言うのなら、また泣くまで犯してやればいいだけだ。男女の関係を強いたのは他人でいようとする姉に距離を置かせないためだったが、思ったよりも姉の内面に踏み入るという点では有効だったらしい。体の関係を無理やり持たされたことで距離感が狂ったとでも言うべきか、その結果がこの頬に触れた掌ならそう悪いことでもないのかもしれなかった。少なくとも、この姉が自発的にエンカクに触れることなどそう多くはないのだから。
「っ、エンカク、寝ないの……?」
窘めるというよりは懇願の響きのある声色で、姉はエンカクに縋った。焦らしているつもりでも、先程のエンカクの言葉に対する意趣返しのつもりでも上等だ。男女の機微もわからないくせに煽ることだけは一人前な姉に、憐れみすら浮かんだ。
「夜泣きする『姉さん』を寝かし付けるのが先だ」
「な、泣いてない……っ、」
既に涙の滲んでいる目でそんなことを言われると、本当に泣き出すまで虐めたくなる。自分に好意を寄せている男に安易に触れることがどれだけ愚かなことか教えてやろうかとも思ったが、さすがにもうの方が限界かとその力無い抵抗を見て理性に譲ることにした。首筋から顔を離して、ぽすりと頭を撫でてやる。困惑した顔で撫でられるままになる姉の愚かしさをいじらしく思いながら、赤い痕の散らばる首筋の白さをじっと見ていた。長い放浪生活で砂混じりの風に晒され日に焼けたエンカクとは違い、ロドスの艦で多くの時間を過ごしてきた姉の肌は白く柔らかい。同族の中には吸血鬼と呼ばれる種族もいるが、もし自分がブラッドブルードであれば姉を糧に生きただろう。見れば見るほどに、自分とは違う生き物だと実感する。奇しくも姉と同じ結論に至っていたが、エンカクがそう感じるのは元々ひとつのものがふたつに分かたれたと思っているからだ。元から全く違う生き物がたまたま隣に生まれただけだと思っているとは、根本的なところで考えがズレていた。そしてその感覚が噛み合うことは、きっとこれからも永遠に無い。互いに似ているようで重ならない思いを抱きながら、隣り合って眠る姉弟。その命をひとつと数えるのかふたつと数えるのか、閉じられた瞼だけが知っていた。
201212