「あなた、最近また痩せたんじゃない?」
 それ以上痩せてどうするのよ、と食堂で目の前の席に腰掛けたメテオリーテは呆れたように言った。同僚であり同門であるフォリニックも、「自己管理ができない医師を患者が信用するのは難しいわ」と彼女らしく厳しい優しさを見せる。返す言葉もないと肩を竦めながら、は二人が自分のトレーにパンだのソーセージだのを乗せていくのを苦笑しつつ見守った。「食べきれないよ」とやんわり遠慮しても、「胃に押し込みなさい」と余計怒られるのは経験済みだ。仕事が立て込むとゼリー飲料とエナジードリンクだけで日々を凌ぐようになるは、二人から見れば医師としてもサルカズ以前の人間としても半人前で放っておけないらしい。ここ数日は特に食が細くなっていたを、二人が見逃してくれるわけがなかった。
「『サルカズ係』なんて揶揄されてるけど、大丈夫なの?」
「忙しくしてるなら、その分食べなきゃもたないじゃない」
「うん、そうね……」
 最近のは、サルカズらしく自分本位な弟の世話で忙しくしている、と周りは認識している。それもあながち間違いではないのだが、まさか弟に体の関係を迫られているのが心身共に疲弊している理由だなどと言えるわけがなくて。初めて任務に出たあの夜以来、弟はたびたびをベッドに引きずり込むようになった。が嫌がったり泣いたりすればするほど酷くて恥ずかしいことをされるから、弟に腕を掴まれた日は半ば諦めるようになったのだけれど。そもそも弟と関係を持つこと自体忌避感が強く、かといって力で敵うわけもなく強く拒む勇気も無い。行為そのものの負担も大きく、恐怖の対象である弟に身体を暴かれるストレスも相俟ってここ最近は食欲もすっかり失せていた。部屋に帰らないことも考えたのだが、一度医務室で徹夜の業務という理由を作って朝に帰ったときエンカクは妙に静かな怖い顔をしてを迎えて。「次にこういう逃げ方をするのなら相応の覚悟はしておけ」という警告で済ませてくれただけ、優しいのかもしれなかった。どうして逃げた制裁というわけでもなく行為をするのかと怖々問うたときは、「自分の女を抱くことに理由が要るのか」と呆れた声色の返事が返ってきたけれど。弟にとって、が姉であるということと自分の女であるということは同じことらしい。それを否定すればまた最初の夜のように怒らせてしまいそうで、迂闊に触れることができなかった。あの夜のように床や壁に押し付けて服を破かれないだけ、マシなのかもしれない。完全にDVに慣れきってしまった被害者のような思考回路だが、本人が昔から弟の異常性に慣れすぎて弟に対しては正常な判断基準を失いかけているという面もあった。「普通」の関係を保とうとしても、根本的にエンカクとの関係は「普通」ではないのだからどんなに取り繕ったところで杜撰な作りの建築のように歪んで軋む。ただの暴行だけを強いられるのならまだ嫌悪も抱けたのかもしれないが、エンカクはの言葉を聞き入れてくれないという以外は不思議と優しいのだ。本当に任務や仕事で疲れ切っているときは行為を求めないどころか身の回りの世話までしてくれるし、行為そのものもに奉仕させたりだとか準備もできてないのに無理やり進めるようなことだとかはしない。が泣くのを面白がっている節はあるとはいえ、恥ずかしさや気持ちよさで泣かされることはあっても痛いことをされて泣かされることはなくて。だからといって犯されているということそのものを許していいはずがないのだが、優しく酷いことをされるというわけのわからない状況にの正常な感覚はすっかり麻痺していた。元々、男性経験もなければごっこ遊びのような「お付き合い」の経験すらないだ。何が本来あるべき状態なのかもわからないまま、強引な弟に流されて。子どもの頃の真っ赤な恐怖を思い出させる相手に体の関係を強いられ、否が応にも近すぎる距離で他人に見られたことのない自身を晒し続けているという現状が、の神経をすり減らしていた。これが弟でなければ、誰かに助けを求めるという選択肢もあった。どうして弟に対してはそれができないのかと、その意味を考えることをは無意識に避けていて。怖い、他人を巻き込みたくない、そんな上澄みの奥に何が潜んでいるのか、無意識に感じ取って考えることから逃げていた。
「……、ちょっと、聞いてるの?」
「あ……ええと、ごめんなさい」
「まさかあなた、睡眠まで疎かにしていないでしょうね」
「ね、寝てるけど……」
 弟に捕まった日以外は。そんなことは言えないが、言外に毎日十分な睡眠を摂れているわけではないと白状しているような様子にメテオリーテもフォリニックもじとりとした視線になる。綺麗な容姿をしてぱっと見ただけではどこぞの秘書のようなしっかりした雰囲気であるのに、実際のところは押しに弱く流されやすい、仕事や上司に振り回されてばかりのわりとダメな人間だ。最近は彼女を振り回す人間に実の弟まで加わり、医療部や彼女と親しい人間くらいしか知らなかった弱々しい一面を目にする者が増えている。案外隙が多いを、今までサルカズだからと遠巻きにしていたオペレーターたちが可愛いだとか思ったよりも冷たそうじゃないだとか噂しているところまで見てしまったのだ。今までよりもう少し危機感を持てと忠告しようかと思ったら、本人はすっかり疲弊してそれどころではなさそうな様子で。だから放っておけないのだと、綺麗なくせにそこそこダメ人間な同僚に呆れ半分庇護欲半分でふたりはため息を吐いた。
「変なのに絡まれたら、私たちでもいいから呼びなさいよ」
「倒れたり寝不足になったりして、隙を見せないようにね」
「ありがとう……?」
 これは何もわかっていないな、と付き合いの長いメテオリーテたちは視線を合わせて肩を竦める。サルカズで、しかも感染者になったことでは基本的に他人に好意を寄せられることがないと思っている。自分が誰かに好かれるはずがないと、心底からそう思い込んでいるのだ。誰にでも親切で優しく振る舞うくせに、友人関係を築くことすら難易度が高い。ロドスにいる人間は基本的に悪人ではないとはいえ、当然善人ばかりというわけでもない。の柔らかな態度と容姿に妙な期待を抱いた男だって、今までまったくいなかったわけではないのだ。ただでさえ隙が多いのに、ここ最近は食欲不振や寝不足で輪をかけて危なっかしい様子で。これからはもう少し気をつけて見てやった方がいいのかもしれない、と思うものの。
「弟が……エンカクも怒るし、気をつけるね……」
「……あら」
 ぱちりと、ふたり同時に目を瞬いた。最近来たサルカズの刀術師は姉の言うことならそこそこ聞く、と噂になっていたが。姉の方も、弟の言うことは案外素直に聞くらしい。元々は良く言えば従順、悪く言えば八方美人で人の頼みを断れず自分自身をすり減らしていく厄介なところがあったのだが。先日、治療に非協力的なはずのサルカズが珍しく時間通りに来たと医療部で話題になった。しかし、それは前の日の晩から事務仕事で缶詰になっていた姉を回収しに来ただけだったらしい。あの後は俵担ぎで食堂に連行され、自室に押し込められ、寝るまで見張られたということで。目立って死ぬほど恥ずかしかったのと怒った弟が怖かったのとで、はようやく反省というものをしたらしかった。を振り回しているストレス源のひとりがを叱って管理しているという状況は、いささか頓珍漢ではあるのだが。他のサルカズたちとは方向性が違うものの強情で厄介なを無理にでも休ませた弟に、ある種の感心を抱いた。本人からしてみれば弟である自分以外が姉を振り回し煩わせているのが面白くないという、束縛の激しい恋人かと思うような動機なのだが。を疲弊させているのがエンカクのそういう感情なのだと知る由もないメテオリーテたちは、血縁者のおかげでの危ういところも少しは変わるかもしれないと期待も抱いた。隙の多いくせに懐には中々入れないという厄介な人間とはいえ、優しくて放っておけない大切な友人だ。やはり家族が傍にいるというのは良いことかもしれないと、が聞いたら曖昧な笑顔のまま卒倒しそうなことを思っていた。
「これであの人もさんを困らせないようにしてくれれば、もっと良いんでしょうけど」
「そもそもを困らせてるのも、あの人だものね……」
 どうやら自分とエンカクはそこそこ良い姉弟関係に見えているらしいと、フォリニックとメテオリーテが話すのを聞きながらは少しだけほっとしたような表情を浮かべる。胃が萎縮しそうになるのを叱咤して、二人が分けてくれたパンを喉に押し込んだ。過去の恐怖そのものと再会して、色々なものを失って、逃げ道もなくなって。そこまで酷いことをされても、嫌いになれなくて。逃げることも拒むこともできずにずるずると続いた関係に、正常な感覚と距離感が麻痺してしまった。弟の関心が失せてくれることを願いながら日常を取り繕うことを、受け入れてしまったのかもしれない。ロドスを捨ててでも逃げてしまいたいと思えていたあの再会の一瞬が、ある意味ではいちばんまともだったと言えるのではないだろうか。子どもの頃は弟の斬った人間の返り血を浴びせられていたのが、今は男女の関係を強いられるのに変わっただけだとは気付いていないのか、気付こうとしていないのか。あの時も今も、やめてほしいと懇願して聞き入れられないことに変わりはなく。弟なりに好意や愛情を示しているつもりでの行為だというのも同じだ。ただ、二度目の逃亡をする意思を徹底的に砕かれているだけで。強いて言うなら、はエンカクの姉に生まれたことが不運だった。そして本人は覚えていなくとも、隣にいる弟を見捨てて逃げることができない当たり前の善性を有していたことが欠点だった。の非を挙げるとするなら、逃げるときに弟の背中を撃たなかったことだろう。殺す勇気もないのに逃げるから、追いつかれて死ぬより怖い思いをする羽目になる。真っ当でない弟の姉に生まれてしまったのに、はあまりにも普通なまま平凡な人生を望んでしまった。せめても破綻した上で普通を取り繕っているような存在であれば、まともではない弟から逃げることもできただろう。行き着く先は炎すら生温い愛憎の煉獄だということを知らぬまま、は弟に崩された日常という砂の城を泥沼の上に建て直そうとしていた。
「…………」
 あの頃のことを思い出そうとすると、ぎゅっと心臓が凍えて軋むような錯覚に陥る。傭兵の死体からくすねた粗末な携帯食糧をふたりで分け合って齧ったことを、今どうしてか思い出したのだった。
 
201212
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