「怪我は」
短く問われ、は首を横に振る。守られていた自分より、敵と交戦していたエンカクの方がそれを問われるべきだろう。の言いたいことを察したらしいエンカクは、「幸か不幸か無傷だ」と鼻を鳴らした。本人の言う通り見た目に怪我はなく、に皮肉を言うくらいの余裕も見せる。確かに、戦ってもいないのに顔を青くしているよりはよほど色んな意味で大丈夫なのだろうが。生憎と、エンカクが傷付いて喜べるほどは弟を嫌えていない。「無事でよかった」と恐る恐る告げると、弟は皮肉げに口の端を吊り上げた。
「思ってもいないことは言わない方がいい」
「そこまで薄情じゃない、けれど……」
「どうだかな」
行くぞ、と外を窺ってエンカクは話を打ち切る。確かに今は自分たちの姉弟関係について話している場合ではないと、も大人しくエンカクの後をついて行った。そも、本来ならエンカクもここに来ているはずではなかったのだけれど。の単独出張任務だったはずが、どうしてかエンカクがついて来たのだ。正確に言うと、任務先に向かうルートのひとつで待ち伏せられていたのだが。としては穏便にロドスにお帰り願いたかったところではあるが、許可は取っていると正式な伝達の画面を見せられればそれ以上は言い返せなくて。元々、この任務をに言い渡したドーベルマンは戦闘能力の低いが護衛のための人員を連れて行かないことをよく思ってはいなかったらしい。普段からがそうしているとはいえ、なぜ毎回がたいした戦闘にも巻き込まれず帰ってこれているのかと首を傾げていた。だから、色々と問題のある『弟』とはいえ腕の確かなエンカクが姉を追おうとするのを、渋い顔をしながらも止めなかったらしく。
「――お前、傭兵を使っているだろう」
先を歩いていた弟が、振り向きもせずに断定的な口調で問いかける。特に隠すようなことでもないが、その声はわかりやすく不機嫌を滲ませていて。弟に見えるわけでもないのに、おそるおそる頷いて返事をした。
「そう、だけど……」
「今回もその予定だったのか?」
「うん……」
「断りの連絡を入れておけ」
がどうしたいかなど、まるで聞く気の無い強い口調。どのみちダブルブッキングと思われるのも嫌だから、今回護衛を依頼していた相手には既にキャンセルと謝罪の連絡をしているのだけれど。それを伝えつつ「どうして知っているの」と怖々尋ねれば、弟は「最初に依頼したのはあの『友人』だろう」と鼻を鳴らした。
「お前がサルカズの傭兵と『友人』になる接点など、それしか思い当たらん」
エンカクの物言いには妙な含みがあったが、言っていることは概ね間違っていない。ロドスのオペレーターたちは比較的サルカズへの偏見は少ないとはいえ、艦に帰っても関係の続く面々と思えば道中も妙に気詰まりで。実際、遠回しとはいえ魔族と連れ立って歩きたくないというようなことを言われたこともある。同族の、それも傭兵となると弱く戦えないがどう思われるかは怖かったけれど。個人的に護衛を『依頼』したいというの頼みに、「あなた変わってるのね」と言いながらも快諾してくれたのがメテオリーテとの友人関係の始まりだった。今は毎回メテオリーテに依頼しているわけではないが、その伝手でサルカズの傭兵を紹介してもらって護衛を頼んでいる。自費でが個人的に雇っているということと、メテオリーテの伝手ということもあり機密保持などはしっかりしてくれているから許可も得ていて咎められることもないが。ドーベルマンのように、ロドス内における差別意識に厳しい目を向ける優しい人には言いにくいことだ。は同族のことも恐れているとはいえ、メテオリーテが気を回してくれているおかげでサルカズにしては穏やかで良識的な者を紹介されることが多く。を怖がらせることのない、後腐れのない傭兵たちとそれなりにうまくやっていたのだけれど。
「ごめん、なさい……?」
「……何がだ」
「何だか、怒ってるみたいだったから……」
淀みなく歩いていた弟が、ぴたりと立ち止まる。あからさまにゆったりとした歩調でもなかったのにに合わせて歩いてくれていたのだと、振り向いたエンカクがたった一歩で目の前に戻ってきて気付いた。にしてみれば数歩分の距離を空けていたつもりが、その長い脚にとってはまったく無意味な距離だったらしい。未だに、弟に手を引かれていた頃の感覚でものを捉えていることに気付かされる。目の前にいる弟は、今はもうをすっかり見下ろしてしまえるのに。ぬっと大きな掌がに向かって伸ばされて、華奢な肩を掴む。触れられることに怯えて反射的にびくりと震えたは、路地裏の壁に押し付けられてやっと今の自分の言葉が失言だったのだと理解した。
「謝るということは、何かしら埋め合わせでもしてくれるつもりなのか?」
「埋め合わせ、って……」
「俺の機嫌を取ってくれるんだろう?」
弟の目は、怖いくらいに冷たくて。先程までの不機嫌など、きっと本当に可愛いものだったのだ。今目の前でを見下ろしている弟は、本当に怒っている。そうさせたのは、の言葉なのだろうけれど。
「どうして、怒ってるの……?」
「……それを先に訊いていれば、怒らずに済んだだろうにな」
が怯えてエンカクを窺うと、冷ややかな笑みを浴びせられる。「お前のそういうところが本当に腹立たしい」と、肩を掴む手に力が篭って。痛い、と眉を寄せたの顔に影がかかる。ハッとして顔を上げると、思ったよりも近付いていた弟と頭の角がぶつかってカチリと硬質な音を立てた。
「んッ……!?」
噛み付くように口付けられ、は思わず顔を背けて逃げようとした。頬を覆うように顔を掴まれて、それは叶わなかったけれど。強引に舌をねじ込まれて自身のそれを絡め取られ、引きずり出されて。鋭い犬歯が、柔くの舌を食んで捕らえていた。少しでも力を込めれば、容易く噛みちぎってしまえそうな。本能的な恐怖が湧き上がり、ゾッと背筋に冷たいものが走る。目に涙を滲ませて震えるの腰に手を這わせたエンカクは、ポケットの中を探るとの端末を勝手に取り出す。がそれを取り返そうとするのを、舌に立てた歯に軽く力を込めることで抑えて。どうするつもりかと問いたくとも、今は身動きすら許されていない。端末を自分の懐に収めたエンカクは、ゆっくりと舌を離してを解放した。ケホケホと咳き込むの顔を上げさせて、涙の滲む炎色の目を冷たく見下ろす。
「これは俺が預かる」
「預かる、って……」
「本当なら叩き割るか傭兵の連絡先を消去させたいところだが、任務中だからな」
「でも……」
「舌を噛み切られる方が良かったか?」
自分の端末を弟に奪われることに、不安しかなくて。いくらが不用意な発言で怒らせたからといって、任務中に私情でそういう振る舞いをされては困る。けれど、珍しく食い下がるの頬を、弟の指がゆっくりと食い込むように撫でて。この弟なら本当に舌を噛み切りかねないと、は背中を震わせた。エンカクに腕を掴まれて、つんのめるように再び歩き出す。悪路に足を取られながらも必死に弟の歩幅に合わせると、さっきまで弟がいかにに合わせていてくれたのかわかった。おずおずと、は弟の背中に呼びかける。
「ねえ、困るの……」
「…………」
「エンカク、」
「…………」
「……ごめんなさい」
「…………」
「これしか言えないことが、あなたの気に障ることはわかったけれど……本当に、ごめんなさい……」
叱られた幼子のように心細い様子のは、何も答えてくれない弟を前にだんだんと俯いていく。腕を掴む手に縋るように触れると、弟の手がぴくりと震えた。
「……許しを乞われる側が求めているのは誠意だ」
「……?」
「もう二度と過ちを犯さないという確約、あるいはそう努めるという決意、もしくは許しを乞う相手の優位に立つことでの利益……何でもいいが、お前が謝ったところでそのどれも得られない」
『お前』を傅かせる優越感くらいは得られるかもしれないが、とエンカクは皮肉げに言う。弟が口を開いてくれたことに安堵しながらも、突然の話に少し頭が戸惑っていて。そんなを笑うように、弟は鼻を鳴らした。
「俺は」
ポケットに乱雑にねじ込んだの端末に触れて、エンカクは振り返らないままに言う。今にもその小さな機械を握り潰したそうにしながら、それでも口角を吊り上げていた。
「有象無象にお前の命を預けることを、許した覚えはないが?」
「エンカク……」
なんと答えたものかわからず、はただ弟を呼んで手を握り返す。いつの間にか、小走りにならなくてもいい程度には弟は歩調を緩めていてくれた。
「お前の命は俺のものだ。他人を雇うくらいなら、俺を雇え。わかったか、『姉さん』?」
「……う、うん……わかった、ごめんなさい……」
やっと振り向いてくれた弟の目は、けれどどこか冷たい鉄の輝きを宿していた。反射的にまた謝罪が口を突いてしまって、けれど弟は呆れたように鼻で笑う。弟のことは怖いのに、許されると安心するのはどうしてかわからない。まだ、抑えていてくれるだけで怒りそのものが鎮まったわけではないとわかっているけれど。そういえばどうして幾つもあるルートの中でエンカクは的確にを待ち伏せできていたのだろうと、は弟に尋ねてみる。一応はレユニオンとの交戦も想定されている任務だ、の選んだルートが他人に推測されやすいものなら修正も視野に入れなければならないだろう。けれど、その必要はないとエンカクは言う。
「お前の考えていることは欠片も理解できんが、どう行動するかくらいはわかる」
つまるところ、姉弟だからわかるものらしかった。「お前も俺が来る可能性は考えていたんだろう」と視線を向けられ、複雑な気持ちになっては唇を噛んだ。自分が現れたとき、大してが驚いていなかったと。確かに弟の言う通りで、心のどこかで予定調和のようにさえ感じていたけれど。結局自分たちは、姉弟なのだろうか。エンカクの方が正しくて、の方が間違っているのだろうか。時には乱暴な手段さえ厭わずにに執着する『弟』と家族でいることは難しいと、そう思って逃げたのに。けれど今は、考え事をしている場合ではないのだろう。先程エンカクが交戦したのはレユニオンの巡回チームだった。彼らが戻らないことを本隊が不審に思う前に、レユニオンの武装地帯を抜ける必要がある。ロドスから与えられた任務を遂行するために、自分自身のことで考え込んでいる暇など無い。そっと弟の腕を振りほどこうとしたけれど、幾許かの躊躇の末には結局エンカクの腕を掴んだままでいたのだった。
やっぱり帰ってもらうべきだったと、みっともなく泣きじゃくりながらは自分の選択を深く後悔した。頭を抱えて、部屋の隅に蹲って。幼子のように怯えて自分の身を守るに、時折ぴしゃりと生暖かいものが降りかかる。それが何なのか考えないようにしても、その鉄の臭いをはあまりに知りすぎていて。
――誰が それに 手を出していいと
――お前の相手は 俺だろう
愉しそうな弟の声が、耳をすり抜けていく。剣戟の音も発砲音も、どこか遠くに聞こえた。泣いて蹲っているを誰か――おそらく敵の誰かが嘲っている気もしたけれど、その声も、すぐ後に聞こえた断末魔もの意識には残らない。源石に侵された、とある工業地帯の資料庫。の任務は、この建物に残されているかもしれない文献の回収だったのだけれど。建物に入ろうとするの肩を、エンカクが掴んで。とす、と軽い音を立てて目の前を横切り突き立ったのは弟の愛刀だった。迂闊にもは、その刃の先に視線を向けてしまって。引き抜かれた刃から、ピッと赤い飛沫が飛んだ。ドアの向こうに隠れていた誰かを弟が刺したのだと、理解するよりも早く顔についたその赤色が意識を覆い尽くして。の頭を押さえてしゃがみこませた弟は、「目を閉じて耳を塞いでいろ」とだけ告げて両の刀を振るい始めた。放棄された倉庫に物資を探しに来ていたレユニオンと交戦しているのだと、エンカクは正確に理解していたけれど。は真っ赤に染まった視界に恐怖して泣くばかりで、援護どころか完全なお荷物である。血が苦手とはいえ、普段はしっかりと後衛で医療オペレーターとしての責務を果たすがこんな幼子のような姿を晒している。今のの姿をロドスのオペレーターたちが見れば、自らの目を疑うことだろう。ただエンカクだけが、それを当たり前のように受け止めている。敵のように彼女を嘲ることも、お荷物として厭うことも立って戦えと叱咤することもなく。ただ己の身ひとつで、何人もいる敵を圧倒して。泣きじゃくって動けないを庇っていることなど、ハンデにすらなっていない。不利を悟った敵が先にを抑えようとしても、伸ばしたその手をすっぱりと斬り落とされる。腕の断面を押さえて床をのたうち回る男の野太い悲鳴に、エンカクは不快そうに片眉を上げた。
「喚くな、俺の姉でもないだろうに」
「あっ、が、……何を、」
「お前たちは戦士だろう? この女とは違う、痛みを覚悟してこの場所へ来たはずだ。武器を手に取って俺に向けた、その意味がわからないのか?」
逃げていく敵を黙って目で追いながら、エンカクは床に転がる男を見下ろす。部屋の隅でひっくひっくと子どものようにしゃくりあげている姉は、もう戦闘が終わったことに気付いていないのだろう。気付けるはずがない、姉の頭を埋め尽くしているのは今目の前にある惨劇ではなく過去の血の海だ。「エンカクが」刺した敵の返り血を浴びたことで、トラウマがフラッシュバックしているのだろう。過去から逃げたつもりになっていて、その実ただ正面から相対する機会がなかっただけの哀れな女だ。エンカクにしてみれば別に今更驚くようなことでも、呆れることでもない。が自分と共には戦えないどころか
保護対象であることなど、最初から想定していたことだ。むしろがエンカクと肩を並べて戦っていたら、彼は大いに驚かされていただろう。
「お前はつまらないな」
何事か呻くだけの男を、せめてもの情けから一撃で絶命させる。医療従事者としてのは本来ならエンカクの行為を咎めたかもしれないが、今のはただ過去に怯えて泣くばかりだ。袈裟懸けに斬った男の血が、またを赤く汚した。そんなふうに萎れた花のように泣いて、まるであの日の続きのようだ。そういえばが逃げたのは「これ」が原因だったかと思いながらも、血に濡れた顔のままを見下ろした。
「」
ひっく、と嗚咽するはエンカクの声に気付いていない。仕方がないから、子どもを抱き上げるようにして腕に抱えて。こんなときに「たすけて」とすら言えず泣くことしかできない姉は、本当に心の底から誰も頼りにしていないのだろう。故郷で自分たち姉弟を助けてくれる者など、誰もいなかったのだから。エンカクには自分自身を助けるだけの力があったが、にはそれもなかった。哀れな姉だ、と傲慢にもエンカクは思う。そもそも姉を追い詰めていたのも今こうして泣かせたのも、エンカク自身であるのに。
「姉さん」
「……?」
あやすように涙を拭ってやると、ぼうっと霞んだ瞳ではあるががエンカクに視線を向ける。その顔はびしゃりと返り血を浴びたままで、白い肌が赤く濡れているのがやはり美しい。エンカクの知る、この世で最も美しい生き物のままだった。同じ鼓動を刻む存在に安心したのか、血の海と化した床から抱き上げられたことで少しだけ恐怖が薄らいだのか、僅かに正気の戻った目が戸惑いながらエンカクを見上げていた。「眠っていろ」と目を掌で覆ってやると、逡巡の後に大人しく瞼を下ろした感触が伝わる。本当に、こういうときばかり素直な姉だ。
「……、どこ……?」
「猫ならいないぞ」
「ど、して……?」
「どうしてだろうな」
どこ、という問いにあの猫のことを答えたのは何となくだった。この頃の姉が探すものなど、それしか思い付かなかったのもあるが。少なくともがエンカクを探すことなど無いだろう。けれどそれは弟の所在に関心がないからではなく、弟はいつだって傍にいることを姉自身わかっているからだ。だからは、弟から離れて何年経っても血の海を忘れられなかった。むしろ、傍にあるべき存在から離れてしまったから何度も凄惨な光景を思い出し続けてしまったのだろう。エンカクが傍にいたままなら、きっとあんな光景など恐怖の象徴にはならなかった。自分自身に暗示をかけてしまったようなものだ。弟を思い出すときに付随していた戦場と血の海ばかり、肥大化して恐怖として焼き付いてしまった。逃げたのはのくせに、逃げたあのときに心を置き忘れてきてしまったのだ。「どこ」と問われるべきは自分自身だと、未だにわかっていないのだろう。憐れで、脆くて、綺麗な姉。こんなに美しくて、こんなに弱い。
「……ああ、そうだ」
今のうちにロックを解いておこうと、意識の曖昧なの指を掴んで取り上げていた端末の指紋認証を解除する。さすがに、馬鹿正直に傭兵の連絡先などとは書かれていないから多少姉自身に口を割ってもらうことになるだろう。言ってしまえば、嫉妬に過ぎないのだろうが。自分のものであるが他人に命を任せているなど、心臓を他者に握られているようで気持ちが悪い。の生殺与奪を握っているのは自分で、ロドスの内規だの何だのの優先順位はそれに勝るものではない。そんなエンカクの内心を理解しようとしない姉が「よくわからないけれど怒っているからごめんなさい」などとふざけたことを言うから、エンカクもつい仕事中だというのに私情を挟んでしまったが。起きる前に、せめて顔や髪についた血を拭っておいてやろうと思うくらいには怒りも収まっていた。ある程度戦いに満足したこともあるし、何より血に濡れた美しい姉を久方ぶりに目にすることができたのが大きかった。任務先で気絶していただけという事実が残れば気の小さい姉は引きずるだろうから、資料探しは姉が起きるのを待ってからにするつもりだ。の炎で汚染から守られているということもあるから、何もしていないわけではないのだが。姉はどうにも、面倒でどうでもいいことばかり気にする。その半分でも、エンカクが気にしていることを気にしてほしいものだった。
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