いつもいつも、視線の合わない姉だった。どこに危険が潜んでいるかわからない荒野で俯いている愚かしい姉を、それでもつまらない死に方はさせたくないと思っていたから手を引いてやった。姉がいつから弟の顔を見なくなったのか、もうはっきりとしたことは覚えていない。逃げ出した外の世界で、人身売買に関わる汚らしい大人たちとはまた異なる恐ろしさを持つ怪物が弟であると知ったのだろう。躊躇いもなく人の首に刃物を突き立てたからか。吐いている姉を一瞥して、死体から奪った粗末な食糧を分けてやったからか。姉の瞳には明確な怯えが色濃く宿っていたが、今にも萎れそうな花びらのごとき可憐で弱々しい唇から罵倒が吐き出されることは一度もなかった。姉は姉なりに、自分がお荷物であり弟の気まぐれによって生かされていることを自覚していたのだろう。それに、当時から既に姉は他者との衝突を恐れて言いたいことも言えないような、どうしようもない性格だった。あの饐えた臭いのする掃き溜めから逃げ出そうと手を差し伸べたのはだったが、姉弟の関係は決して対等ではなく。目の前で弟が他者を手にかけたとき、姉は少しも動けなかった。そしてそのことに、弟は失望などしなかった。弟は姉にひとつも期待を抱かず、姉は弟を恐れている。それでも二人が共にいたのは、鏡合わせのようによく似た唯一の肉親に寄る辺のようなものを見出していたからだろう。同じ髪と瞳を持ったきょうだい、たったひとつの
縁。荒れ果てた国は、果てのない檻のようで。魔族と呼ばれるサルカズであっても、彼らはまだ幼くちっぽけな命だった。信頼というにはか細く、仲間意識と呼んでは遠すぎる。手を繋いで身を委ねることに躊躇いを感じずにいられるのはこの世の中でお互いだけだと、頭でも心でもなく理解していた。何もかもが土埃にまみれて薄汚れ朽ちていく世界で、お互いの姿だけは呪いか祝福のように鮮やかに見えていたのだ。
――見捨ててもいいのではないか?
同族意識の強いカズデルのサルカズたちは、同胞だけの集団を作ることが多い。行き場のない者たちが身を寄せ合うキャンプで、同胞の幼子たちへの哀れみからか姉弟に食べ物やら情報やらを世話してくれていた老人は少年にそう言った。見捨てると言えば聞こえは悪いが、と伸び放題で絡まった髭を気まずそうに撫でて。姉は綺麗な顔をしているし大人しくて利口だから、良心のある金持ちの家に奉公にでも出た方が幸せに生きられるだろうと。弟は戦いに抵抗が無く戦士として大成する見込みもあるから、少年兵としてどこぞの傭兵団に入れば上手くやっていけるだろうと。今思えば、あの老人は姉弟の致命的なまでの食い違いを見通していたのだろう。あてもなく荒れた土地をただ一緒に放浪するより、それぞれに合った人生を送った方が双方のためになる。客観的に見てそう思ったから、戦いに意欲を示す弟の方にひっそりと提案したのだ。あの老人が誤ったとすれば、姉の方にそれを言うべきだったということだけだ。姉はいつも弟の後ろで俯いていたが、実際姉弟が離れることを提案されたら一も二もなく頷いたに違いない。弟が自分と共にいるべき生き物ではないと、知ってしまって。けれど自分が連れ出した上に今は守ってもらっているばかりの身で、自分勝手に離れることはできない。他者から見て離れた方がいいと背中を押されたなら、安心して弟を置いて行ったことだろう。
『おじいさんは……?』
『人買いだった。ここを出る』
実際は弟の方が姉と共にいることに執着していたのだと、老人は死の間際に悟ることになった。頬についた返り血を、捕まりそうになって抵抗したゆえのものだと姉は誤解してくれて。その誤解を正さず、姉の手を取ってキャンプを出た。それからは、ひと所に長く留まらないようにした。外に出てそれなりの時間を過ごし、この荒廃した祖国での生き方というものも大体は把握して。姉とふたりで生きるくらいなら、困ることはなかった。子ども二人で彷徨いていれば、たちの悪い連中が向こうから目をつけてくれる。それを斬っていれば戦いに対する欲もそれなりに満たせたし、日々の糧も手に入った。あの老人にも問われたことだが、なぜ一緒にいるのかと時折関わる他人に聞かれることがある。は戦えるわけでも、特異な能力を持っているわけでもない。弁が立つわけでもなければ、多くの知識を身につけているわけでもない。発現したばかりのアーツもありふれた炎であるのに弟のものとは違って火付けにすら使えず、普段は精々灯りくらいにしか使えないそれが気休め程度の治癒効果を持っているとわかってからも大して役に立つものではなかった。決して余裕などない放浪生活の中で、血縁だからとお荷物を連れ回していられるほどこの国が優しくも温かくもないことは誰に言われずともわかっている。自分自身、姉と離れない理由を考えたことは特にない。差し出された手を、掴んだままにしていただけだ。その手を離すことはありえないと、心より深い場所で感じていただけで。それが唯一の肉親への甘えだったのか、子どもらしからぬ死生観を当時から抱き始めていた彼の例外的な人間性だったのか、今でもよくわからない。少なくとも、は自分の姉だという認識はあった。人を殺めたことを忘れ、人を殺すことを受け入れられず、たった一人の弟から目を逸らし、やっと視線が合ったかと思えば怯えの色を浮かべている。そんな姉でも、手放すことはまるで考えられなかった。思えばその当時から、姉を自分の所有物のように無意識ながら扱っていたのかもしれない。子どもが子どものままではいられない環境にあって、命とはただ生きて死ぬだけのものだと彼は早くから理解していた。自分も姉も、他の命と変わりなく生きて死ぬ。いずれ訪れる終わりまで、あの頼りなく柔らかい手のひらが傍にあるならそれでいいと思っていた。
『××は、静か、だね……』
寡黙な弟、だとでも思っていたのだろう。ただ、特に会話というものを必要としていなかっただけだ。『商品』にされていた時は言わずもがな、戦いにおいては刃こそが言葉よりも雄弁だ。そしてこの姉に対しては、多く語る必要を感じていなかった。言葉が必要なのは、他人だからだ。血の繋がった姉が、それでも自分とは異なる他人であると認識していなかった。対のように生えているその角や、揃いの炎色の瞳。肩につかない程度の髪は、緩く癖がある。血縁というものを、特別視を通り越して同一視していた。性別も気性も能力もまるで違っているのに、それでも姉は自分の「もう半分」だと感じていた。何もかも違っていようが理解できなかろうが、半分だから共にあるものなのだと。だからこそ、言葉にして何かを伝える必要性を感じていなかった。それは間違いだったと、今では思っているが。
『なぜ泣くんだ』
問うても、はぐすぐすと泣くばかりで答えることはなかった。だから、そのうち泣くわけを問うのはやめた。姉はそういう生き物なのだと、思うようになっただけだ。あの日、が人を殺めたときの美しい貌を忘れられなかった。だからか、派手に返り血を浴びるような死合の後は姉の顔をじっと見下ろすのが習慣になっていて。せっかくの美しい顔を隠してしまうように手で目元を擦りながら泣くものだから、勿体ないとさえ思った。姉は、このカズデルで唯一美しい生き物だ。栄養不足で傷んだ髪や肌も、痩せすぎて棒切れのような体も、その美しさを損なうことはなく。肩につくかつかないか程度の長さの紺色の髪も、炎を閉じ込めたような瞳も、彼のそれと作りは変わらないはずなのにまるで違って見えたものだ。陽射しに弱く消耗するからと被らせているフードは、子どもらしい独占欲の発露だった。あまり物事に執着しない性質だと自分では思っていたが、きっと姉に全ての執着を注いでいたのだろう。カズデルは荒廃した国で、彼らの知る人間はみな諦観や欲に瞳を濁らせている。身なりや年代に関わらず、誰も彼もどこか薄汚れていて色褪せて見えた。それなのに、この傷つきやすい白い肌はたとえ泥や埃に汚れていても褪せて見えることはない。涙と怯えで曇ることはあっても、その瞳に宿る炎が澱むことなどない。ボロきれのような衣服を身に纏っていても、たった一人の姉は花より美しかった。目に痛いほど赤い鮮血も、酸化して黒ずんだ血も、ぞっとするほどよく似合う。幼い彼は、花の正しい愛で方を知らなかった。いとしいという感情の形を知らず、ただ胸にあるその熱の行き先を姉に求め続けて。水を与え、陽射しで慈しんでいたなら笑みを咲かせていたはずの花は、血と恐怖を糧に不信の実を結んでしまった。
『……ねえさん』
戦いの途中でいなくなった姉が、仮のねぐらにも近くの集落にもいないことに気付いて。姉の考えていることなどろくに理解できたためしがなかったのに、皮肉にもこの時ばかりは姉が自分から逃げたのだという確信が持てた。衝動的で、突発的な逃亡だったのだろう。計画的なものなら何かしら痕跡があっただろうに、姉の足取りは全く掴めなかった。呆然と、今まで一度も口にしたことがなかった呼称がこぼれる。互いにとって唯一繋いだ手の先だったからこそ呼ぶ必要がなかったのだと、姉が知ることはないのだろう。
「あなたのいない世界を知っているの」
ひどく抱かれて意識も曖昧な姉は、涙の代わりにぽつりと弱々しい言葉を漏らした。いつもエンカクから逃げたがる姉への不満を、姉弟喧嘩と嘯いて抱くことでぶつけた。その眦から頬へと幾度も伝い落ちた涙はもう枯れかけているらしく、散々喘がされて掠れた声もの弱りようをありありと示している。甘く掠れた声は、にはその気がないと知っていてもまるで誘われているようだった。
「まだ足りなかったか?」
エンカクの裡に凶暴で粘着質な衝動を抱かせた話を今更蒸し返したの腰を抱いたまま、揺するように突き上げる。「あ、」と漏れ出たと形容するのが正しいような虚ろな喘ぎ声を漏らしたの瞳に浮かんでいるのは昏い諦観で、その炎色の瞳を伏せると泣き腫らした目元の赤さがまるでエンカクを責めているかのようだった。
「……あなたにとって、生まれたときから……わたしは姉だった、かもしれない、けど……」
「…………」
「わたしは……あなたの姉じゃない、ときも……あったの……」
エンカクの言葉を無視してぽつぽつと呟くの表情は虚ろで、どこか白痴めいている。エンカクがそんなものはないと断じた場所を知っているのだと、目の前にいる弟に語るわけでもなくただ呟くその様子は子ども特有の要領を得ない言い訳のようだった。エンカクがどれだけ姉を自分の片割れだと思っていようが、姉ではなく一人の「」だったことがある彼女にしてみればそうではないのだと。ほとんど年子のような姉弟だから、実際の記憶にも弟のいなかった時などないだろう。それでも「弟」のいなかった空白の時間が、エンカクとの間に横たわる致命的な溝なのだと忌々しくも理解させられた。
「……それで?」
「え……?」
「それは何の言い訳になるんだ?」
「……いいわけ、」
ぼんやりとした顔で鸚鵡返しに呟いたは、もう碌に思考も保てていないのだろう。何か意図があって発した言葉ではないと、問うたエンカク自身がいちばんよくわかっていた。それでも苛立ちのままに、腰を掴んで奥を突き上げる。ぐちゅぐちゅとよく濡れた肉が絡みついてくるのとは裏腹に、は心ここにあらずといった様子でどこともつかない宙を見つめていた。本当に、どこまでも逃げていくばかりの女だ。最近の姉はエンカクが求めれば黙って組み敷かれるようになったものの、それも結局は逃避にすぎない。求めれば求めるほど心ばかりがすり抜けていくことに、虚しさよりも怒りが募った。生まれたときから弟には姉しかいないことを知っていながら、ひとりでどこかにふらふらと消えていこうとするのだ。糸の切れた凧のように、持ち手の無い風船のように。姉は花のように美しいが、花のように大地に根を張ってはいない。風に吹かれて散る間際の花弁か、或いは瞬きをすれば消えてしまう蜃気楼。そんな、脆く危うい存在だった。せめて手の内に捕らえていようと強引に繋がりを得ても、その心に触れることすらできない。ここまでのことをして許されているのは、弟だからだ。それを知っているからこれでもどうにか自制していた部分もあったが、こうも往生際が悪いと許し難いとさえ感じる。姉はエンカクを捨ててしまえるのだともう知っているから、ただ姉が傍にいるというだけでは満たされなくなってしまったのかもしれなかった。
「……っ、う、」
細い首を掴み、衝動的に力を込める。苦しそうに歪んだ顔と、強ばる体。それでも、片割れの炎色はエンカクを見ない。首を絞める手を苛立ちが急かすが、一歩間違えれば簡単に喉が潰れるか骨が折れるかしてしまうのはわかっていたから一片の理性は保っていた。いっそ殺してしまえと囁く頭の中のナニかを無視して、じわりじわりと指先を喉に食い込ませていく。苦しさからキツく収縮する膣を抉るように突き上げて、眉を寄せて固く目を瞑る姉に顔を近付ける。ありったけの愛おしさと憎らしさを滾らせて、エンカクはその虚ろなかんばせを見下ろした。
「俺を見ろ、『姉さん』」
窒息寸前で手を離し、自分を見ろと囁く。けれどはゲホッと咳き込んで返事すらしないから、また首を掴んで息を止めてやった。姉の首を掴む掌が、熱くなっているのがわかる。焼きごてを当てたように、掌の下の白い肌は赤くなり始めていた。炎熱を抑えきれていないのだと、呼吸を奪われただけではなく肌を焼かれる痛みにも苛まれるの体がびくびくと痙攣するのを見ながらどこか他人事のように思う。苦悶の声を上げようとしても、首を絞められているのだから弱々しい呻き声の他に出てくるものもない。ナカはエンカクのものを食いちぎりそうなほどにぎゅうぎゅうと締め付けてきて、姉の首を絞めながら達してしまいそうだった。
「……ぁ、う゛ッ……」
「姉さん、……ねえさん。目を開けろ」
ほんの僅かに掌を緩めてやり、空いている片手で青ざめた頬を軽く叩く。焦げ付きそうなほどにざらついた声が怒りなのか渇望なのか、最早自分でも判別がつかなかった。姉の心は、魂は、この美しい空っぽな体のどこに隠されているのか。肉を裂いて心臓を掴めば、その魂に触れられるのか。いっそ自分の炎で跡形もなく焼いて呑んでしまえば、元の形に溶け合えるのか。ふたつに分かれたひとつが、欲しい。閉ざされた瞼が開くのを待たず、エンカクは姉の唇に噛み付いた。頸動脈を親指の腹で押さえつけながら、熱い吐息を貪る。柔らかい舌を絡め取って擦り合わせるだけで、馬鹿みたいに腹の底が熱く疼く。女を知らないガキのように、浅ましい焦燥がじりじりと背筋から上って頭の中まで沸騰させていった。姉と体を重ねるときはいつもこうで、手練手管も何もなくただ奥を穿ちたいという欲求でどうにかなりそうなのだ。それほどまでに焦がれ、求めていることを知らない姉はその非力な手でエンカクの胸を押して少しでも離れようと無駄なあがきを見せる。小さな訴えを無視して舌を嬲っていると、突然ふっとなけなしの抵抗が消えて華奢な体が脱力した。
(……気絶したのか)
そっと首から手を離すと、重力に従って首がかくりと傾く。意識のない姉を相手に続けても良かったが、今日はもう気が乗らずにずるりとモノを引き抜いた。後始末もそこそこに、悲惨な有り様になった姉の体を抱き寄せる。笑ってしまうほどに華奢で、ゾッとするほど軽い体だった。
「お前は、どうすれば俺を見るんだろうな」
目元に伝う、涙。きっと今日は炎と戦の夢を見るのだろう。小さな顎に手を添えて、親指の腹で透明な雫を拭う。自分で苦しめたくせに、本当によく泣く女だとどこか他人事のように思う。いつも涙に覆われている、綺麗で弱々しい炎。その瞳に映りたいと、ずっと昔から思っている。この世界の何にも執着など抱かない薄情な女の一瞥が、欲しくて堪らないのだ。怯えて、泣いて、俯いて、逸らして。そんな姉の瞳に押し込められた感情を、真正面から向けられたい。無関心な瞼と臆病な涙に隔てられた炎が、恋しくて憎らしいのだ。精巧に作られた繊細な人形のように美しい姉の、本当の感情が見たい。それこそがきっと、世界でもっともうつくしいものに違いなかった。
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