この女の佇む姿は、あまりに現実味がなさすぎて絵画か何かのように思えることがある。俗世に根を持たないという女は、目を離した瞬間に消える蜃気楼なのではないかという馬鹿げた考えを見る者に抱かせるのだ。素肌に白いシーツだけ纏って佇んでいる今のような時は、特に。サルカズのくせに、まるで天使のような清らかさでぼうっと宙を眺めている。白痴の聖人のごとき姿は、明日には磔になっていそうな危うさを孕んでいた。エンカクが残した噛み跡や痣も、まるで迫害の爪痕のようで。長い睫毛が、目を伏せたの瞳に影を作っている。見入っているのか、魅入られているのか。麗しの化け物は、今日も恐ろしいまでに美しかった。
「何を考えている?」
 問えば、焦れったいまでにゆっくりとした動きで女が首を傾げる。静かなその表情は、「あなたこそ」とでも言いたげではあった。正気が薄い様子でいる姉の首には、痛々しい痣がぐるりと広がっている。皮膚が薄く柔らかいから、傷付きやすいし痕が目立つのだろう。砂塵や陽射しに晒され硬くなった自分の肌とは、まるで違っていた。本当に、余人は自分たち姉弟のどこを見て「似ている」などとのたまうのか。エンカクも自分が怪物だの何だのと呼ばれる域に片足を突っ込んでいる自覚はあったが、これとは種類が違う。この、浮世全てを忘れたような幽霊じみた姿こそが姉の本質であることを、認めざるを得なかった。あれだけ他人の目を気にしておいて、優しさだの親切だの笑顔だのを振りまいておいて、何もかもどうでもいいのだ。自分本位な魔族、サルカズ。実にこの女は魔族らしい生き物だ。周りの人間は、一体この女の何を見ているのだろう。はまるで、石灰を自ら浴びた鴉のようだ。愛らしい仕草で、まるで白鳩のような顔をして鳩の群れに加わろうとする。雨に打たれれば、すぐにその黒い翼を晒してしまうのに。この女のどこが普通で、どこが人間のようだというのか。「例えサルカズが魔族と誹られようとは違う」など、実に的外れで滑稽な見解だった。
「……戦争が、始まるのかしら」
 ふい、とエンカクから目を逸らしたは、ぽつりと呟く。そういえばどうにもきな臭い空気が漂っていると、ここ最近の緊迫した情勢を思い返してエンカクは片眉を上げた。
「怖いのか?」
「あなたは、嬉しい?」
「質問を質問で返すなと教わらなかったのか、『姉さん』?」
 軽い皮肉を投げかけてやると、ふ、とが唇を歪めた。この女にしては珍しい、自暴自棄にも見える笑みだ。「聞かなくても知ってるでしょう」と眉を下げたはやはり世を憂う聖者のようでもあり、そして同時に男を堕落させる淫婦のようでもあった。その憂いを除くためなら何でもすると、目の前の者に言わせる力を持つ危うい美しさ。
「怖い。戦争なんて嫌……」
「引っ込んでいればいいだろう」
「私だけ……逃げるわけにもいかないでしょう、」
「お前のそれはほとんど病気だな」
「あなたには言われたくない……」
 どこか拗ねたように、は膝に顔を埋める。翼を失くした天使のようなその弱りようは実に憐れで、愛らしかった。
「……人が死ぬのはいや」
「『目の前で』死ぬのが、だろう」
 無意識に省いたであろう言葉を付け足してやると、天使のような悪魔は恨みがましげに目を細めた。これから自分が巻き込まれていくであろう戦いに対する不安を、弟にぶつけているのだろう。珍しく饒舌な姉がこんなふうに自分の利己的な面を見せるのは、きっと自分だけだ。それだけで、今は良いのかもしれない。だがやはり、足りないのだ。
「あなたが来たときから、戦争が起こる気はしてた」
「お前は予言者だったのか?」
「だって、戦いのない場所には来ないでしょう?」
 茶化す言葉は取り合わず、は真っ直ぐにエンカクを見上げる。たとえ一見して戦いを控えていようとも、庭園でのんびりと花を愛でているように見えようとも。その本質は血で血を洗う戦いを求めている魔物であることを、姉はとてもよく理解している。エンカクが、の本質を理解しているように。「もう片方」のことなど、互いにお見通しのようだった。そして実際、エンカクは戦いの匂いを嗅ぎ付けていなければここには来ていない。姉がロドスにいたことは思わぬ僥倖だったが、そもそもエンカクの目的は姉以外のところにあったのだ。だが、とエンカクは目を眇めた。
「お前自身、争いを呼び込むモノだろうに」
「……?」
「自覚がないのか。タチが悪いな」
 致命的な女だ。この女を見ているだけで、誰もが落ち着かなくなる。恐ろしいまでの美しさと、ゆらゆらと危うく揺れる炎。魅入らせ、不安を掻き立て、この世から隔絶されたそれを手の内に収めたくさせる。姉がロドスを離れられなかったのは、希望などという優しいもののためではないだろう。ただ、本能的にわかっているのだ。正しい光が、導きが、自分の怪物性を隠してくれると。大きな光に照らされている間は、誰かを惑わせてしまうことに怯える必要など無いのだと。光の中に隠れようとする炎など、よほど滑稽だ。ケルシーやドクターのような怪物、そしてテレジアやアーミヤのような光の傍に潜むことを選んだこの女は賢しくもあり、そしていじらしくて健気だった。そこまでして、人の中に混じって生きたいのか。たかがその程度で、普通の人間とやらになったつもりなのか。こんなに美しくおぞましい怪物が、人になったつもりで生きているのだから本当に可笑しくてたまらなかった。
「怪物を殺す方法を知っているか?」
 エンカクの問いかけの意味がわからないようで、はおずおずと首を横に振る。ハッと嘲るように笑って、エンカクは姉を見下ろした。
「愛とやらで、怪物は死ぬらしい」
「……ふ、」
 きっと弟が冗談を言ったのだと思ったのだろう。の顔が、笑い損ねたように奇妙に歪んだ。結局人の愛など他人事のように思っている、薄情で利己的な女だ。そんな女を、心底愛おしいと思っている。だからエンカクは、ただ黙って肩を竦めたのだった。

「お前は綺麗だな」
「…………」
 返事はなく、ただ眉を顰める。こんな時に何を言っているのかと、声には出さずともありありと伝わっていた。今はアーミヤの演説の真っ最中だ。多くの人命が懸かっていて、更には国家間の戦争にも繋がりかねない危険な状況。そんな緊迫した空気の中、欠伸でもしかねないような退屈そうな顔をしてエンカクは呟いた。隠す気もなく、アーミヤの話を少しも聞いていない。小さく溜め息を吐いたは、戯れのように髪に触れる弟の手をぱしりと払いのけて咎めるような目を向けた。
「あなたの大好きな戦争でしょう」
「お前の大嫌いな戦争だな」
 せっかく愛しの戦争がやって来るのだから大人しくしていてほしいという皮肉は、上機嫌な声色で返される。まるで死神のようだと、この姉弟は互いに相手のことをそう思っていた。の華奢な肩が、小さく震える。怖くてたまらないのだろう、それなのに泣き出すこともせず、愚直に命令を待っている。実に馬鹿げていていじらしくて、憐憫を誘う姿だ。アーミヤの話が終わり人がはけていく中で、壁際に寄った姉弟は静かに互いの出方を窺っていた。
「……私を殺さないでね」
「それはお前の努力次第だな。つまらん死に方をするようなら、その前に俺が殺してやる」
「……守ってはくれないの?」
「守ってほしいのか?」
 期待するような言葉とは裏腹に、何もかも諦めたような微笑みがエンカクの目の前で綺麗な偶像を形作っていた。どうせ弟が自分を「守る」ことなどないのだろうと、悟ったつもりになっている笑み。面白くはないが、反骨心ゆえに守ってやる気にはならない。ただ、エンカクは何よりも美しいものを見ていたいだけだ。この女が愚かにもその命をつまらぬ下郎に明け渡すのならば、自らの手で奪い取るまで。いい加減にそれを理解してほしいものだが、こうして刻限のひとつは訪れてしまった。意外なことにこの臆病な花は、前線を志願したらしい。「先生とドクターの指揮直下が、ある意味いちばん安全だから」という、いかにも姉らしいどこか壊れた理論だった。
「お前はサルカズのくせに、サルカズとつるもうとしない」
「…………」
「憎らしいな。同族ならまだしも、そうではない者がお前の関心を奪っていく」
「……みんな同じ、人でしょう?」
「お前にとってはそうだろうな。お前には等しく、何の価値もない存在だ」
 何かを特別に思えないことは、何一つ大切ではないことの証左だと弟は嘲笑う。よほど悪魔のようで、けれどいっそ清々しい笑みだった。はいつも、弟に人でなしのように言われるたびに傷付くような、それでいて救われたような気になる。卑小なの姿を知っていて、美しいと口にできる弟に安堵を齎されているのかもしれなかった。エンカクの言葉はきっと、大半を認めてしまった方がいいのだろう。は誰にでも良い顔をしたい見栄っ張りで、そのくせ自分を受け入れる同族に馴染もうとせず、漠然と「誰か」を探して手当り次第優しさやら親切やらを振り撒いている。その姿はまるで見境なく愛を求める化け物のようでおぞましく、そのくせは愛とやらが自らに向けられると嫌悪すら感じて逃げてしまうのだ。こんな生き物、どうしたら良いものか自分でもわからない。結局は、独りだというだけではないのか。そんな自分の手を取ってくれる弟を、優しいと思うべきなのではないのだろうか。そんなことを考えそうになって、背筋にゾッと寒気が走る。何を、絆されているのか。隣に弟がいることが当たり前のようになってしまって、勘違いしているのではないか。確かにエンカクは、にとって特別だろう。誰よりもに近い場所にいて、には怖く思えるほどの深い繋がりを持っていて。けれど再会の夜に、決定的な何かを違えてしまったことを忘れてはならない。はただ、弟に心臓を掴まれているだけだ。彼がいつでもそれを引き摺り出して握り潰してしまえることを知っているから、平穏な姉弟ごっこでその情に縋っているだけだ。いっそ滑稽なまでの『姉弟』関係と、誰にも言えない男女としての繋がり。それをに強いたのは、他でもない弟だろう。は逃げられないだけだ。ただ、弟の傍から二度と離れられないだけだ。命を含めた何もかもを捨ててまで再び逃げる勇気がないから、ここにいる。はそれを、忘れるべきではないはずだった。
「なんだ、まだ絆されないのか」
「……あなたには、一生勝てない気がする」
「お前がそれを言うのか?」
 何もかも見透かしているような弟にため息を吐くと、少し驚いたようにエンカクが片眉を上げた。どういう意味だと問いかけるように視線を向けるが、弟の表情は常の皮肉げなそれに戻っている。惚れた側の負けであるととうの昔に認めているエンカクにすれば、の敗北感など可愛らしく滑稽なものだ。捕らえて、傷付けて、囲い込んで。それでも未だに手に入らない女が、何を言っているのやら。いっそ心折れて転がり落ちてくれるなら良いものを、結局はふわふわと浮世を揺蕩う存在のままだ。この戦争で何か決定的なものを得るか失うかすれば変わるのだろうかと思うも、必要以上に花に手を加えるのは好みではない。「私を殺さないでね」と再びが呟くように言う。自分の命が弟に握られていることを自覚している殊勝なところは、少しだけエンカクの気分を良くさせた。けれどそれ以上に、まだ姉が自分を理解できていないことが機嫌を降下させる。
「お前はまだ手折るには早い」
 姉が化粧で隠した首の痣は、もうだいぶ薄れてきている。アーツで何もかも魔法のように治せるわけでないとはいえ、姉は優秀な術者であるし何より首を絞めたのはもう数日も前のことだ。細い首にそっと手を添えると、びくりと慄いて離れようとする。まだ殺さないと言っているのに、微塵も信用されていないようだ。もっとも、自分と姉の間に信頼だの絆だのといった言葉はあまりに似合わない。こうして共通の戦いを前にしても心が通わないのなら、やはり自分たちは致命的にすれ違っているのだろう。まだ視線は、合わない。
「精々生き延びるといい、『姉さん』」
「……うん」
 気の利いた皮肉のひとつも言えない、つまらない女だ。悄然とした様子で、やってくる戦いに怯えている。これが戦場では煌々と炎を灯すらしいのだから、実際の姿を目にしてみたいものだが。白い頬に、さらりと髪が流れ落ちる。その髪を掬い上げて耳にかけてやると、指先が触れたことでびくりと華奢な肩が跳ねた。ああ、きっと美しいものが見られる。血塗れた姉のおもてか、裡に潜む炎か。胸が高鳴るという感覚は、実に久々のことだった。
 
211006
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