「あら? 懐かしい顔じゃない。あんた、まだここにいたのね」
毒々しくも華やかな声にが振り返ると、そこには鮮やかな爆弾魔の彼女がいて。あまりにも懐かしい顔に一瞬言葉を失ったを、赤い悪魔はにやにやと見つめている。「W、さん」とおそるおそる呼び名を口にすると、何が可笑しかったのか「何? その呼び方」とWはケラケラと笑った。
「あたしの部下だって、あたしのことを『Wさん』だなんて呼んだりしないわよ。 ……って、前にも確かこんな話をしたかしら?」
「……そう、だね。以前ここで会ったときに」
まだ、ロドスがロドスではなく。『彼女』がいた時の話だ。Wに今と同じ呼び方をして、同じように笑われた。Wが敬愛していたテレジアはにとっても尊敬の対象ではあったが、直視するには少し眩しすぎて。テレジアに敬意をもって接しはしても必要以上に親しくはしないをWは敵視せず、むしろ好意にも似た感情を示されることもあった。もっとも、テレジアの身の回りのことを多少世話していたに近付くことで少しでも彼女との関わりを増やそうとしていたのもあるだろうが。ともかく、バベルにいた頃のWとの関係は決して悪いものではなく。『あのこと』で彼女がロドスを去ったあと、はなりにWへの負い目や気まずさも抱えてはいた。けれど少なくとも今の態度を見る限り、例えWがに思うところがあったとしてもそれをすぐにぶつける気は無いのだろう。それにWは、チェルノボーグで会ったエンカクにの所在を漏らさなかった。Wがあらゆる虚偽を幾重にも連ねたドレスに本心を隠していようと、その事実だけは信頼している。
「まだ『』でいいの?」
「ええ、……ありがとう」
「礼を言われるようなことかしら」
「あなたは……何と呼んでほしいか、訊いてくれるから」
「別に、あんたに好かれたくてやってるわけじゃないわ。ああ、けど……そう言うってことは、やっぱりあいつに捕まったのね。ご愁傷さま」
言外に『』と呼ぶ方のサルカズを示したことを的確に読み取って、Wはにこりと笑う。エンカクがロドスに向かうことを知っていたWは、今のの反応から何が起こったのか大体を察したのだろう。「言っとくけど私は黙っていたわよ」と口元を歪めるWに、も「それは知ってる、ありがとう」と頷く。黙っていてくれたのは単に面白がっていたのが大半だろうが、多少はへの義理もあったのだろう。賢く計算高い彼女は、恩や義理にもきっちりと売価をつける。
「だから言ったじゃない。逃げるなら、逃げ続けていなきゃ」
「そう、ね……少し、長居しすぎたの」
「……ま、あんたも否応なく変わったってことね。あの時の生き残りの中で、一番と言っていいほど弱い生き物だとしても」
肩を竦めたWに、も眉を下げて苦笑を浮かべる。テレジアのいたあの場所で、悲観的なも確かな希望に似たものを見ていたのだ。過去から逃げ続けている弱いサルカズでも、安息を夢見ることが許された気がした。その希望は、自らの手で掴み取っていけるのだと。そう、信じて。自分でも普通の人並みの幸せを望むことは罪ではないと、そのために努力することは無駄ではないと、テレジアの光が潰えた後も未練がましくこの艦に残って。もう逃げなくてもいいのだと、「あなたは弱くない」と笑いかけてくれた光を、忘れられなくて。を拾ってくれたワルファリンも、弟子にしてくれたケルシーも、にとってはなくてはならない大切な人たちだ。けれど彼女たちを大切にしようと、一時の逃げ場所ではなく自分の帰りたい場所なのだと思えたのは、きっとあの光り輝く尊い人の影響でも変わったからなのだろう。Wの忠告は正しく、は居心地のいい場所に留まり続けてしまった代償を払うことにはなったけれど。それでも逃げてきた先であの尊い人に出会ったことを、夢見たことを、後悔などしていないのだ。Wはそれを見透かしているから、少しだけに優しさの量り売りをしてくれるのだろう。
「そういえばあんた、感染者になったんですって? 少しはカズデルのサルカズらしくなったじゃない」
「そんなふうに言ってくれるのは、あなたくらいかな……」
「あら、皮肉に聞こえたかしら? これでもあたしはあんたが五体満足だったことに驚いてるし、お祝いしてあげたいくらい。次に会うときには手足の一本や二本取られてるんじゃないかって、心配していたんですもの。その程度で済んで、幸運だったわね」
「……待って、それは……」
「あいつがやったんでしょ? 『事故』だなんて、あんたたち姉弟を知ってる人間が信じるわけないじゃない」
やはり旧い知り合いは誤魔化せないかと、は肩を落とす。クスクスと笑うWは、憐憫と愉悦の混ざった表情での顔を覗き込んだ。
「手足が残ってて良かったじゃない。次に逃げるときは、あたしに依頼してくれればいいわ。『弟を殺して』ってね」
「っ、」
「――生憎だが、次は無い」
悪辣な笑みを浮かべるWの言葉に息を呑んだは、背後から聞こえた低い声にゾッとして振り返る。いつの間に近付いていたのか、息がかかりそうなほど近い距離でを見下ろしていた弟の姿にビクッとは肩を跳ねさせた。エンカクの顔には影がかかっていて、その表情はよくわからない。の対面にいたWがエンカクの接近に気が付かなかったはずがないから、わかっていて『弟を殺すか』と問うたのだろう。本当に、タチが悪い。の知る同族の中でももっとも厄介な二人に挟まれて、冷や汗がつうっと背筋を伝った。
「あら、いくら姉弟でも勝手に気持ちを決めつけるのはよくないわ? あなたを殺してでも逃げたいって、は思ってるかもしれないじゃない」
「この女に俺を殺せと言えるような度胸があれば、俺はこうも苦労していない」
「苦労? 笑っちゃうわね。一方的に気持ちを押し付けておいて、『俺はお前のためにこんなに苦労している』とでも言うの?」
「お前がそんな善人のようなことを言うときは、怒らせて遊んでいるだけだとは知っているが……火遊びは爆弾だけに留めておけ」
「これくらいであんたは怒るってわけ? 心が狭すぎて嫌われるはずね」
を挟んだ辛辣な言葉の応酬に、弟の言う通り気の小さいは背中を丸めて縮こまる。正直なところ、弟を殺したいなどと考えたこともない――より正確に言うのなら、考えることすら恐ろしくて意図的に避けていた。けれど、それを除けばWの言葉は怖いほどに的確で。エンカクの神経を逆撫でて遊んでいるだけかもしれないが(にしてみればあまりにレベルの高すぎる遊びだが)、まるでの本心や姉弟関係を見透かしているのかと思うような言葉選びで。エンカクが一方的にに思慕を押し付けていることも、のことに関しては心が狭すぎることも、事実ではある。けれどその事実からのの感情の推測が、今の戸惑いや困惑の延長線上に存在するかもしれない「嫌悪」や「殺意」だから恐ろしいのだ。ほんの少しだけ意図的な間違いを織り交ぜて事実を口にするから、僅かにズレたそれを自分の本心だと認識しそうになる。傭兵団の首領だったほどだから、知っていること以上に知っているかのように振る舞うのもお手の物なのだろうけれど。まるで、気持ちを汲み取ってくれているかのように。だから、はWのことが怖いのだ。どこまでも曖昧な彼女の演技と本心の境界を、都合のいいように信じてしまいそうで。彼女を勝手に自分の味方と思ってしまいそうで、怖い。彼女の戯れに本気になって、『弟を殺したい』という恐ろしい願望が自分の本心であるかのように思ってしまう日が来たらと。もし弟を喪ったあとにが愚かにもそれを詰ったところで、「あんたが望んだことじゃない」と当然の反論で話が終わるに違いなかった。はWのことを、好きになってしまいたくはない。いつか自分があまりに卑小な存在であることを、否応なしに自覚するときが来てしまいそうで。Wのせいにして弟を殺そうと、そんなことを考える者はきっとそれこそ魔族だ。誰だって、自分を酷い人間だと思うのはつらい。少なくともはそれに陶酔できるほど愚かでもなければ、何も感じずにいられるほど達観してもいなかった。
「あまりこれを唆すな」
「そんなことを言うなんて、に殺されるのが怖いのかしら?」
「こいつが俺を殺そうとするのは構わん。だが、その殺意の純度は高いものであるべきだ」
「…………」
「余計なものを混ぜ込んでくれるな」
「……あんたって、本っ当に呆れるほど独占欲が強いのね。昔からそうだったけど、ずいぶん悪化したんじゃない? やっぱり、一度逃げられたのが堪えたのかしらね?」
チリチリと、空気の焼けるような錯覚には目眩を覚えて額を押さえた。二人にとってはこの程度の殺気を滲ませたやり取りなど、軽口の範疇なのかもしれないが。臆病なにとっては、この場から今すぐ逃げ出したいほどに空気が重苦しく感じる。Wがの味方であるかのような言動をするのは決して本心からに肩入れしているわけではなく、単にエンカクの感情を揺さぶるにはそれがもっとも効果的だからというだけの話だ。エンカクがその挑発に乗るのも、Wの魂胆を見透かしてはいても軽口だからと看過できないものがあるからなのだろう。どうにもエンカクは、ドクターに対するものとは別の意味で何かをに期待しているような節がある。何を望んでいるかはわからないけれど、それに他人が関わるのを厭うことだけは知っていた。けれど今はそれについて深く考える余裕などなく、恐怖と緊張で血の巡らない頭がズキズキと痛みを訴える。ふらついた足元に危機感を覚えた刹那、の腰を抱いて支えたのは弟の大きな手のひらだった。
「……相変わらず過保護なことね。目を離せば死ぬとでも思っているの?」
「あながち間違ってもいないだろう」
「はいったい何年、あんたのいないところで生きてきたのかしらね?」
Wとエンカクの応酬も、どこか遠くに聞こえる。軽い殺気にあてられただけでこの体たらくでは、確かに弟が「過保護」になるのも当然なのかもしれない。けれど、この掌がにとってはこの世でもっとも恐ろしいものなのだ。どうにか目眩と頭痛をやり過ごしたは、そっと弟から身を離す。面白がっている表情を隠しもしないWに向き直って、血の色の失せた唇を開いた。
「……エンカクを殺したいとは、思っていないの」
「あら、そう? そういえばあんたは『いい子』だったわね」
「……逃げたいとは、思ってるけど……」
「逃げられると思っているのか?」
「殺す覚悟も無いなら無理ね」
「物騒なところは、似てるんだね……」
「物騒? Wの言う、お前の手足をもぐような真似はしていないだろうに」
「あなたの物騒の基準は、私とだいぶ違うと思う……」
言外に、鉱石病に感染させたことや男女の関係を強いたことは物騒ではないのかと詰る。さすがに他人の前でそれらを口にするわけにはいかないから、五体満足ならいいわけではないという程度に留めるしかないが。それでもの言葉から何かを察してしまったのか、あるいは鉱石病のことは知っているからか、Wは「あんたが幸運だっていうのは訂正するわ、」とわざとらしく気の毒そうな声音で言った。
「こいつの姉に生まれついた時点で、あんたはこの上なく不運ね」
「…………」
「お前に言われることではないな」
が答えに窮していると、エンカクが鼻を鳴らしての肩を掴んだ。今度は振り払えそうにもない強さで、ぎしりと骨が軋みそうなほどに。「本当にご愁傷さま」と肩を竦めて、Wは踵を返す。機嫌良さそうに揺れるWの尻尾は、のそれよりずいぶん自由そうに思えた。
「狂人をあまり直視するな」
「そんなふうに言うのは、よくないよ……確かにいい人じゃ、ないかもしれないけど……」
「『いい人』じゃない、か。お前はいつも婉曲な表現をする」
「……怒ってる、の? 逃げたいって、言ったから……?」
足早にを連れて部屋に戻ったエンカクは、Wを直截に狂人と呼ばわって鼻を鳴らす。同郷の昔馴染み同士が自分を挟んで険悪な空気を醸すのは、の精神衛生上あまりよろしくない。Wの言動に便乗するような形で逃げたいと口にしたのが悪かったのか、殺すの殺さないのとこの弟を前にして好き勝手言っていたのが良くなかったのか。最近はようやく弟の苛立ちの原因を聞いてから謝るということを覚え始めたに、エンカクは少しだけ溜飲を下げたようだった。どうして怒らせたのかもわからないままに謝っていた頃よりは少しマシだと、そう自身に言い聞かせることで苛立ちを抑えてくれたようにも思える。「お前が逃げたがっていることなど今更だ」と、の腕を掴んで親指の先で服越しに肌を撫でた。そこには、エンカクに脅されて源石を刺した傷跡が残っている。実際この傷がなければ、ロドスを捨ててでもは弟から逃げていた。枷をつけた本人にその用途を説くなど、確かに今更で滑稽なことだろう。
「……お前にとってあの『友人』たちとやらは、どんな人間だ?」
「……いい人、だけれど……」
何か少し思案していたような様子のエンカクが、突拍子もない質問をする。弟がそんなことを話題にするのは珍しかったから、戸惑いながらも答えると弟はなぜか可笑しそうに笑った。
「あの医師たちはどうなんだ」
「いい人、だよ」
「同僚たちは」
「……いい人たち」
「庭園だの、生け花教室だのの連中は」
「……いい、人……」
「お前の言う『いい人』とやらは、『どうでもいい人』ばかりだな」
「っ、」
嘲笑うように口の端を吊り上げて言い放った弟の言葉は、到底看過できるようなものではなく。喉元がひりつくような熱さに、これが怒りなのかとどこか他人事のように思いもした。いくらがエンカクの地雷を気付かず踏み抜くような酷い姉だからといって、そんなふうに貶められる謂れはない。自分が弟の言葉に傷付いているのが、「どうでもいい人」だなどと思っていないということの証左だと信じたかった。けれどそれをも見透かしたように、エンカクはの顔を覗き込んで笑う。炎の色をした瞳がかち合って、火花でも弾けそうなほどだった。
「お前が今傷付いたように感じているのは、自分が人でなしだと認めたくないからだろう」
「……あなたには、そんなふうに見えてるの」
「事実だろう? もっとも、怒るとは意外だったが。また泣くとばかり思っていたぞ」
「酷いことを言われて……怒ったら、いけない?」
「いや、怒ればいい。お前は怒らなさすぎて気味が悪いくらいだ」
憤るをこの上なく愉しそうに見下ろして、エンカクはの頬を撫でる。その手を些か強く払い除けるも、猫を宥めるように首筋を擽られる。弟にとってはが怒ろうが泣こうが結局は愛玩の対象なのだと気付いて、途端に虚しくなって怒りも萎んだ。俯いたの顎に指を添えて、無理やり顔を上げさせられる。「本題はそこじゃない」と、 エンカクはどこか楽しげな様子さえ見せて言葉を続けた。
「だからこそ俺は、お前がWを『いい人』ではないと言うのが気に入らない」
「え……、」
「この艦の連中は、俺の知らないお前を知っている。だが、それは別に構わない。俺の知るお前を、お前の言う『いい人』たちは知らないわけだからな」
「……?」
「だが、Wは違うだろう。あれは唯一、どちらのお前も知っている。全てとは言わないが、俺の隣にいたお前もそうでないお前もだ。その上カズデルの同族で、お前にとっては『いい人』ではないときた」
熾火のような怒りの残滓すら、困惑に塗り潰されていく。何の話をしているのかと思ったが、ようやく弟の言葉がの中でぼんやりと繋がり始めて。弟が言いたいのは、つまり。
「Wさんと……話してたこと自体が、嫌だった……?」
「ああ、よくわかったじゃないか。上出来だ」
ずっと、弟はの疑問に答えていたつもりだったのだ。どうして怒っているのかと、その問いに。エンカクはただ、がWに関わることそのものが気に入らないのだ。自分よりに近しいかもしれない存在に、苛立って。つまるところは嫉妬である。嫉妬とは、こんなにも饒舌に上機嫌で語られるものだっただろうか。同性にも妬くのかと、戸惑うを見透かしたように「男も女も関係ない」とエンカクは口元を歪めた。
「お前の謝ることではないが、お前はどうせ言ってもわかるまい。お前には嫉妬という情も理解できないだろうからな」
「……嫉妬を、知らないわけじゃ……」
「なら、俺がお前の周囲に嫉妬するように、お前は俺の周囲に嫉妬したことがあるのか?」
「それは……」
「お前が嫉妬を抱くほど俺に関心がないことは今更だ。そのくらいで怒りはしない」
だから別段謝ってほしいわけでも改善を求めているわけでもないと、どこか突き放したような態度さえ見せてエンカクは嗤った。Wと関わるなと求めたところで、聞くような姉でもない。この姉弟関係は、それこそWが言うように一方的なのだ。エンカクにはを尊重し配慮する理由があるが、にはそれが無い。エンカクが姉を愛するようには、姉はエンカクを愛していない。だから弟に対する気遣いや配慮こそあれど、自分を想う男として扱われることなどないのだ。それに憤りを覚えるのは幼稚な我儘だとはわかっているから、嫉妬をさせるなとまでは言えないが。だから嫉妬を抱かずに済むように、Wから姉を引き離したり自分の方が近しい存在だと思えるように自分自身でこの気持ちを消化しようと努めてはいる。姉は最近ようやくエンカクの感情に関心を示すようにはなったものの、根本からエンカクを愛していない姉に嫉妬だの独占欲だのを理解しろというのは無理な話だ。姉にとって弟という存在は未だ「近しく特別であるもの」に過ぎず、エンカクを拒むことはできずとも受け入れる気もない。逃げることを諦めはしたものの、逃げられるのなら逃げてしまいたいのだろう。弟に逃げ道を塞がれているから、これ以上怖い思いをしないようにとエンカクを理解する努力を始めただけだ。元々薄情なところのある姉にしてみれば、これでもだいぶエンカクの望むように変わった方だが。いっそ殺意でも抱かれている方が、ずっと良いに違いなかった。愛の反対は無関心などとくだらない戯言を支持するわけではないが、姉はまさにその典型だった。
「……エンカクは、」
エンカクの言葉に何事か考え込んでいた様子のは、暫しの沈黙の後に顔を上げた。今度はいったいどんな頓珍漢なことを口にしてくれるのかと面白がって見返すエンカクに、若干怯んだ様子を見せながらも口を開く。
「あなたは……『いい人』じゃない、と思う」
は、と乾いた笑いが漏れた。この話の流れでエンカクのことを「いい人」などと呼ばわっていたら、ただでは済まさなかっただろうが。それにしたってこの返しは、あまりにも幼稚で愚かだ。薄情な人でなし呼ばわりしたことへの意趣返しのつもりなのかもしれないが、少し考えればその言葉がエンカクにとってどういう意味を持つのかわかるはずだというのに。つまりはエンカクが特別だと、そう言ってしまっていることに気付いていないのだろうか。エンカクが上機嫌なことに戸惑っている様子からして、本気で気付いていないのだろう。本当に、つくづくおめでたい女だった。
「そういえばお前は狂わせる側だったな」
また脈絡のないエンカクの言葉に、は困惑を隠さない。狂人を直視していると狂気が伝播してしまうから、あまりWに深入りするなと忠告するつもりだったが。この女は、狂うより狂わせる側だ。夜に揺らめく焔のように、人の目を惹いて。光のように正しく眩しい輝きではなく、惑わせて狂わせる炎だ。この女こそ、直視してはならない存在だと知っていたというのに。それを忘れた忠告など、あまりにも間抜けだろう。か弱いのは事実だが我が強く自分本位なこの女が、たかが狂気のひとつやふたつを直視したところで揺らぐはずもない。その程度で狂う女なら、そう、『こんなに苦労はしていなかった』。
「俺を殺したいか、『ねえさん』」
「……怖いことを訊かないで」
ああ、姉はこういう女だ。怖い思いをしたくない、自分が一番可愛い矮小な人間だ。面白いくらい、それは揺るがない。唆されたくらいでこの筋金入りの卑屈が直るわけもないと、いっそ愉快な気持ちにすらなる。自分ですら思うように動かせないこの姉が、他人などに動かされるはずもないのだ。そう思えば、多少は嫉妬も和らぐ。急に機嫌の良くなったエンカクの姿に、は怯えた様子を見せるけれど。エンカクから向けられる好意に無関心で、エンカクを愛していなくて、それでもエンカクが特別だと言う酷い女だ。まったくの徒労ではない分、まだ救いもあるというものだろう。薄情で不誠実な女だが、自覚もないくせに弟を特別扱いする愚かさは愛おしい。
「お前は時々可愛いところがあるじゃないか」
掴んでいた腕を持ち上げて指を触りながら言うと、慄いた様子を見せて後ずさる。全く失礼なことだとは思いながらも、愉快な気持ちは削がれなかった。人を殺すことを考えるのさえ恐ろしいと、この姉は言う。もうお前はとっくの昔に人殺しなのだと、その事実を突き付けてやるよりも思い出すのを待つ方がいい。これでも気は長い方なのだ。姉に言わせれば、執念深いと言うべきらしいが。人殺しだったことを思い出せば、この臆病な姉も本心から弟を殺したいと思えるようになるのだろうか。姉の指を弄びながら笑うエンカクは、それが楽しみで仕方なかった。
210109