魔族と言うには善良で、妖精と言うには繊細すぎる。人と呼ぶには儚く、化け物と呼ぶにはあまりに弱い。ドクターがオペレーターを評する時、いつもそこには彼女を何と定義すべきかという小さな思索があった。元々、彼女はケルシーの弟子ということもあってドクターとの関わりは少なかったようだ。ロドスでは古参と言えるだが、記憶の有無が支障を来すほどの彼女との関係や信頼はなく。チェルノボーグ事変以後に知り合ったオペレーター同様、もただのいちオペレーターとしてドクターに接していた。その経歴を閲覧する権限がなければ、古参などとわからなかっただろう。はブレイズたちとは違い、エリートオペレーターという身分を公にしていない。それもあってドクターは一度のことをS.W.E.E.Pの構成員だと勘違いしたことがあるのだが、それはエンカクの失笑を買う事態となった。
『記憶を失うと、目も曇るものなのか?』
あまりに的外れなことばかり言っていると、不要だと判断された目や口ごと命を絶たれかねない。そう思わせるには十分な冷たい鋭さが、全く笑っていない瞳の隅に潜んでいた。
『あの暗殺者もどきの連中に、世話されているのは確かなようだが』
は職務の都合上、敵地とも言える交渉や折衝の場に赴くことが増えている。そういった場で大っぴらに護衛をぞろぞろと引き連れて歩くわけにもいかないから、掃除屋の名を冠する部隊に本人も気付かぬうちに守られているようで。プラチナはプロらしく、表向きほとんど関わりのないについて何か口にすることはない。けれど、精神的に幼いところのあるレッドやマンティコアは、ドクターが尋ねれば当たり障りのない印象程度は語ってくれた。彼女たちの拙い言葉を纏めると、彼女たちは本能的にを恐れている。その恐れは、レッドたちのように感覚の鋭敏なものであれば共通して感じ取れるものであろうとも。同族たちに本能的な恐怖を抱かせるレッドが、奇しくもその感覚を抱く側として拙くも精一杯ドクターに説明しようと言葉を尽くしてくれた。は穏やかで親切で、護衛の成り行きで『始末』の現場を目にしてしまってもレッドを蔑むことのない優しい人だ。その優しさに裏はなく、サルカズという魔族に生まれついていることも特殊な生い立ちのレッドにしてみれば忌避の対象ではない。好きになりたいと、好きになれるはずだと思うのに、近づいてはいけないと本能が警鐘を鳴らす。故に、レッドは護衛対象として以上の接触を持たないことにしたらしかった。
『、優しい。でも、仲良し、できない』
の人格や性情に問題があるわけではないのだと、しゅんと肩を落とすレッドを見ていればわかる。たおやかな笑みに毒が隠されているわけでもなく、二重人格者というわけでもない。恐ろしい体質や 、攻撃的な能力を有しているわけでもないのだ。ただ優しくてあまり自分を表に出さない、子どもたちにも慕われている医療オペレーターのひとり。それなのに、どうしてか忌避感を拭えないのだと。宵闇の中の篝火のように、の綺麗な容貌は目を惹く。美しい温もりを追ってその姿を捉えてしまった眼球を思わず抉ってしまいたくなるような畏れなのだと、彼女たちの『言いようのない恐怖』を敢えて言葉に落とし込んだドクターはそう結論づけた。
「簡単なことだ」
嗤うように、エンカクはドクターの前で足を組んだ。尊大な態度は、控えめな姉とは似ても似つかない。あの移動都市で邂逅した、悪辣でありながら哀しい白い少年の最期。彼に安らかな眠りを与えた炎に初めて彼女たちの言うような恐怖に似たものを感じたドクターは、書類を届けに来たエンカクの前でつい思索の一部を漏らしたのだ。
「自覚もなく全身が焼け落ちる前に、目を抉ってしまえば痛手はそれだけで済むからな」
魅入られた瞳から、炎が全身を駆け巡っていく。美しさに目を奪われているうちに、痛みもなく気付けば全身が灰と化して崩れていく。見惚れてしまえば、目を逸らせない。害意や殺意さえなく、ただ存在するだけで周りを「そう」してしまう生き物なのだ。そんな怪物がいかに善良だとて、そんな魔物が優しい笑みを浮かべて親切を尽くしてくれたとて、誰がその手をとってやれるだろうか? なまじ見目麗しく清楚可憐であるがゆえに、醜悪で忌まわしい。いっそおぞましいほどに、美しい魔物。ひとりは寂しくて、ひとに擦り寄って、腕の中に抱いたものが灰になって焼け落ちて首を傾げる。風に吹かれ塵と消えることを良しとする者しか、わかっていて傍にいることはできまい。或いは、焼け落ちながらもその首を刎ねてやる者しか。なるほどエンカクしか、本当の意味で隣にいられないわけである。一人で得心がいったように頷くドクターは、あの石棺の前での戦闘を思い返す。白い鳥のような『ナニか』になってしまった彼に口付けるように、額をこつんと合わせてやっていた。殺意もなくその首に添えられた優しい掌を、誰かは憐れみと名付けるのだろう。白い花のように、あるいは雪のように、巨体がほどけるようにはらはらと散っていく様はどこまでも美しく、物悲しかった。歌う怪物の最期に寄り添い、安らかな終わりを与えた炎。彼が今まで積み重ねてきた業を思えば、どの道死にゆく彼に断罪ではなく安らぎを与えたは甘いと批難されるべきなのかもしれない。けれどロドスの誰も、彼に残虐な罰を正当な裁きとして言い渡せはしないだろう。きっと誰も、この世の誰も、そんな権利など持っていない。はただ、医者の本分に従っただけだ。救えないのなら、せめて苦しみのないように。泣いているのなら、穏やかに眠れるように。そう、彼女は、治すために戦場にいるのだ。毒や病を、焼き払う炎。彼女はただ、病を燃やしただけなのだ。のアーツの本質を、誰も知らない。師であるケルシーも、当事者であるさえも。
「お前はあれをどうする?」
試すように、サルカズの刀術師はドクターの顔を覗き込む。覆面越しに、意図を推し量ろうとするように。未知の力だ。使いようによっては、恐ろしい兵器にもなる。あるいは、鉱石病に蝕まれるこの世全ての救世主にも。そんなカードを手にして、ドクターはどうしたいのかと問われていた。
「……が望む限り、彼女は『医療オペレーター』だ」
「なるほどな」
唾を呑み込んで、絞り出したような声。その答えをどう受け取ったのか、エンカクは目を細めて頷いた。果たして解が合っているのか、そもそも解が用意されているのか、問われたドクターには知る由もないことだ。
「お優しいことだ」
口の端を持ち上げるように笑って、エンカクは腰を上げる。答え合わせをすることもなく、そのまま部屋を出て行くエンカクを彼は止めなかった。音もなく執務室のドアが閉まったのを見て、手元の端末にの個人資料を呼び出す。『ドクター』としての権限で、彼はその一部を消去したのだった。
聖女であれば、皆に愛されるだろう。魔女であれば、皆に憎まれるだろう。どちらも、この女は望んでいないことだ。という女は、救世主にも終末の獣にもならない。そんな大それたことを成すほどの執着も信念も、持ち合わせていないのだ。自分に大層な力があると知れば、面倒だという色を瞳に滲ませて知らなかったことにする。姉が欲しいのは周りにいる人間に嫌われない程度に役に立つ力であって、世の中の様々な人間に愛され憎まれるほどの何かを成す力ではないのだ。誰かを助けられるかもしれなくても、誰かに恨まれるかもしれないのなら手を伸ばさない。呆れるまでの自己保身だが、そもそもは弱い。過ぎた力は身を滅ぼすことを考えれば、それはそれで正しい選択なのだろう。自らの可能性を閉ざし、人目につかないよう隠れて生きる。こうも突き抜けていると、ある意味潔いとすら思えた。
「…………」
「……眠っているのか」
しぃ、と幼子にするように唇に指を当てた、かつての好敵手。黒き悪魔と呼ばれたサルカズの医師の膝で、姉は穏やかに寝息を立てていた。その安寧そのものの寝顔に、思わず眉を顰める。弟の傍でなければろくに眠れないはずの姉がこうしてシャイニングの膝で安らぎを得ているのは、形容しがたい苛立ちをエンカクの胸に齎した。それが所謂嫉妬だとかいう感情なのは理解していたが、そういった心情の揺らぎには未だに慣れない。ともすれば不快で、胸がざわつくだけの衝動。こんなものを自分だけが抱えているのは随分不公平な関係であると思えたが、そもそも恋だのというものは不平等なものだ。惚れた側の負けだと、もう何度も思い知らされている。
「つい先ほど、ようやく眠ってくれたんです」
声を潜めて説明するシャイニングの目は、どこか非難がましい。そういえばこの悪魔は姉とエンカクの関係を唯一知っているのだったと、エンカクは肩を竦めた。同性愛の気があるのか、単に気を許せる同胞に依存したのか。は時折、シャイニングと褥を共にしている。エンカクがそれを許しているのは、そこに性的な接触がないと知っているからだ。いつまで経っても帰ってこないを『迎え』にシャイニングの部屋に入ったとき、目にした光景。女同士で肌を合わせて、けれど色めいたものが一切削ぎ落とされた宗教画のような。敬虔さというものに縁のない無頼漢であるエンカクをして、そう思わせられた欲のない愛の姿。白く柔らかく、ところどころにある傷痕さえも美しいと思える肌を晒して、二人の女は性を知らない無垢なもののように抱き合っていたのだ。もっとも、の方にはエンカクが残した欲の痕が痛々しいまでに赤色を主張していたが。を守るように身を起こしたシャイニングは、母のようでも姉のようでもあり。ただ素肌を合わせて眠るだけの関係なのだと、エンカクにしてみれば滑稽なことを言い放って部屋から締め出した。一糸まとわぬ姿で堂々と、アーツロッドに模した剣を握ってまで。シャイニングは、血腥い弟が可哀想な姉にどのような苦難を強いたのか全て知っている。皆同じ悪魔だというのに、まるで心無い人間に翼をもがれた天使のようにを庇うのだから滑稽だった。それでもシャイニングが沈黙を選びをただ人肌の温もりで癒しているのは、彼女が姉弟関係に首を突っ込むことは共寝の相手にすら心を見せないの望むことではないと知っているからだろう。柔らかさと温もりを重ね合うだけの、汚い欲の無い関係。お綺麗すぎて嘘くさいその関係が、けれど姉の支えになっているのは確かだった。
「お前も大概だな」
「何とでも、おっしゃってください」
「剣を捨てたお前が、これを守れる気でいるのか」
声量を抑えているシャイニングと、少しも気遣う様子を見せないエンカク。それでもに必要とされるのは自分だと知っていたから、エンカクはシャイニングの眼差しをものともせずその膝から姉の体を抱き上げた。ぐにゃりとした肢体は、相変わらず呆れるほど柔らかい。ここ数日医療部やアーツ研究者たちと籠って検査だの測定だのをして、疲弊したようだった。それでも人前ではあの嘘くさい笑みを引っ込めることができず、ようやく解放されてすり減った意識でふらふらとしていたところに出会ったシャイニングに身を任せたのだろう。
「これがお前に気を許しているのは、お前に俺を重ねているからだ」
「…………」
嘲笑交じりのエンカクの言葉に、シャイニングはただ沈黙を返した。サルカズで、剣士で、それでいて優しいを通り越して甘い。弟と共通する部分があり、それでいてを脅かさない都合のいい存在。もどれだけ自覚して、こんな身勝手な関係を続けているのやら。優しいシャイニングにつけ込んで、寂しい時だけ都合よくその肌に擦り寄って。シャイニングは聡いから、その淡く優しい情動をに告げることはないだろう。告げてしまえば、この臆病な女が自分の前から消えるとわかっているからだ。嫌われたくないくせに、愛されることも拒む。自分勝手で、知らぬ存ぜぬと責任から逃げて。そんな女だと知っていてこうして触れずにはいられないのだから、本当にどうしようもない。
「殺せもしない、死ねもしない。それなら共寝がせいぜいだろうさ」
シャイニングは正しく、他人のために生きる人間だ。弱く美しい魔物を殺してやることも、他の全てを投げ打って一緒に死んでやることもできない。だからこそただ優しいだけの関係を築けて、それ以上はどこにも行けない。肌を合わせて添い寝するだけの関係など、躍起になって壊す必要も無い。優しいシャイニングは、決しての内側を踏み荒らそうとはしないのだから。本当に、つまらない存在だ。踏み躙ってでも手に入れたいと思えないのなら、エンカクにとっては敵ですらなかった。まだWの方が、ずけずけのの内面に踏み入るだけ警戒すべき相手と言えるだろう。
「ん、」
身を預けていた場所が変わったことに気付いたのか、腕の中のが小さな声を漏らして身じろぎする。幼子を抱えるように抱き直すと、その雑に見える手付きにも関わらずはまた寝息を立て始めた。どこかハラハラとした様子でを見守っていたシャイニングは、安堵したように息を吐く。部屋に戻るなら戻るで早く落ち着かせてやれと、その目は雄弁に語っていた。傲慢で、身勝手な男。を一方的な欲で汚し、苦痛を強いて追い詰めて。それなのに、理由がどうであれは弟を突き放せない。それが不可解で怒りさえ覚えるのに、それを口にしてエンカクと争うほどとは深い関係にはなれない。シャイニングというサルカズは、正しすぎるのだ。この女のために、間違ってやれない。それはきっと、悪いことではないのだろう。ただ、という名の怪物は正しさでは動かせない。それだけのことだった。
「おやすみなさい、」
無為にエンカクたちを引き留めるようなことはせず、シャイニングは囁くように祝福めいた言葉をにかける。眠っているは何も反応を返さないというのに、ずいぶんと幸せそうな顔だ。それ以上の感慨を特に抱くこともなく、エンカクはシャイニングの前から立ち去る。腕の中の女が当たり前のように息をしていることが、ひどく奇妙なことに思えたのだった。
211122