思えば、は弟に少し慣れすぎてしまっていたのだろう。有り体に言えば、油断していた。弟は自分とは決定的に違う、戦士という生き物だというのに、否応なしにその温もりを知る関係になってしまって危機感が薄らいでいた。がいくら弟を恐れ続け警戒していたとしても、肌を合わせ共に朝を迎える関係が続いていれば決して遠くはない存在になる。例え、それが非合意で強いられたものであったとしてもだ。腕の中に収められ、熱を分けられ、誰よりも深いところで繋がる。そんな夜を繰り返して、少しも慣れた気にならない方がおかしいだろう。だから、きっとは悪くない。誰が悪くなくとも訪れるのが、不条理というものなのだ。
「……何をしている?」
 寝起きの声は、少し掠れている。それでも、の後ろ手をがっちりと固めて組み敷いている腕は少しも緩んでいなかった。喉元に、ナイフを突きつけているもう片方の腕も。ベッドの上、今にも喉を捌いてしまえる状態でエンカクはの背に乗り上げていた。
「くび、怪我……してた、から、」
「……あぁ」
 あっさりと、喉にあてがっていたナイフを下ろす。腕を捻りあげていたのも放して、けれど背中の上からは退かなかった。つつ、と背筋をなぞって、神妙な顔をする。
「心にもない親切は命を縮めるぞ」
「あの、エンカク、起きれない……」
 任務先のホテルで、部屋が一緒になったのは今更だ。ロドス本艦ならまだしも、襲撃も考えられる外なら戦闘員であるエンカクの傍を選ばざるをえない。今日は激しい戦闘があったから、血の匂いを濃く纏う弟が怖くて全力でシャワーを先に譲った。案外早く出てきた弟のあとに入浴を終えたは、バスタブの底に残っていたうっすらと赤く濁る湯のことを頭から振り払って。上半身は何も纏わず、髪も濡れたままシーツに身を投げ出して目を閉じていた弟が少し哀れな生き物に見えてしまったのだ。今思えば、それがいちばんの過ちなのだろう。あの弟が、可哀想などと。今日の戦闘でエンカクが何人殺したのか、数えてなどいられない。ただ、既に眠りについたその様子からしてさすがの弟もそれなりに疲れているのだろうと思ったのだ。風邪をひかないように水分くらいは飛ばしてあげようと近付き(そのくらいのアーツの小回りは利く )、その首に傷があるのを見つけてしまって。この弟の急所近くに傷を負わせられるのだから相当な手練だったのだろうと思いつつも、相手はもうこの世にいまい。小さく息を吐いて治癒しようと伸ばした手が掴まれ、気付けば命の危機を迎えていたというわけだった。
「お前は時々、度し難いほど愚かだな」
 命を狙う刺客ではないと気付いたのだから、背中の上から退いてほしいのだが。冷笑を浮かべた弟は、の背中をゆっくりと撫でながら唇を歪める。その様は鼠をいたぶる猫などよりもよほど酷薄で、はふるりと肩を震わせた。弟の腕は寝起きでも鈍ることなく、ナイフを突き付けられていた喉には傷のひとつもないけれど。まだ、ちりちりと肌が痛むような気がする。あれが殺気かと、今更気付いた。今しがた、は弟に殺されかけたのだ。不用意に、その喉に手を伸ばしたから。自業自得だと、ようやく理解する。弟のような生き物に対して、浅い考えで間合いに入ってはならなかった。
「エンカク、」
「なんだ」
「もう、わかったから……」
「どうだかな」
 縋るような姉の視線に、呆れたように鼻を鳴らす。けれどそれ以上は何も言わず背中から退いてくれるのだから、「優しい」弟だろう。
「……ごめんなさい」
「お前の謝罪は聞き飽きた」
 どうにか身を起こしたは、顎を掴まれてぐいっと顔を上げさせられる。ぽたりと顔にかかった雫が気になってその髪の水分を飛ばすと、姉のしたことを理解したエンカクは心底呆れたように眉を顰めた。
「お前が馬鹿なのか、俺を馬鹿にしているのか、どちらなんだ」
「気に障ったの……?」
「そういうことを言っているんじゃない」
 でも不機嫌そうに見える、とはエンカクの首の傷に視線を向けつつもおどおどと反論する。の視線の先に気付いたエンカクは、その手をとって首に導いてやった。驚いて怯え、ただ様子を窺っているを見て口の端を吊り上げる。
「治してくれないのか? 『ねえさん』」
「えっ……と、」
「それとも、俺の首が欲しいのか」
 エンカクがその言葉を口にするや否や、青ざめたは弟の首から手を離そうとする。逃げようとしたその指先を掴み、冷えた掌に唇を押し当てた。
「エンカク、何を……」
 慌ててが制止しようとするも、エンカクはそれを無視して何度も姉の肌に口付ける。掌に、指先に、手の甲に、手首に。居心地の悪さと恐ろしさで固まっているを更に追い詰めるように、華奢な背中に腕が回された。
「お前は俺が恐ろしいんだろう」
「…………」
「『らしく』していろ」
 怖がっているくせに、受け入れないくせに、優しさじみた何かを見境なくばら撒く。それが気持ち悪くて、腹立たしい。いっそ敵意だの憎しみだのを向けられる方が、まだやりようがあるというものだ。腕の中の細い体は震えているものの、怯えよりも戸惑いの方が大きい。姉は結局、自覚はなくともエンカクのことを舐めているのだろう。愛しているから、執着しているから、心を傾けているから、エンカクはに弱い立場を甘受せざるをえない。が、エンカクの弱みなのではない。姉の命を盾に取られても、エンカクが自らの意思を曲げることなどない。ただ、エンカクが姉に懸想しているが故の弱み。愛など知らぬような顔をして空虚な優しさを振り撒き生きている姉が憎くとも、この胸の中に巣食う感情が差し引きされるわけではない。恋しい存在に素直に好意を示していた幼さが、とうに踏みにじられているとしてもだ。愛しさと憎らしさが入り混じる、儘ならないものに未だ胸を占められている。怯えの他にさして表情の変わらない姉を見ていると腹立たしく、時折酷く傷付けてその顔を歪ませてやりたい衝動にさえ駆られて。それでも結局こうして脅かす程度で済ませてやるのは、まったく甘いことだと自らに呆れるほどだった。恋も愛も、病だろう。一振りの刀のように生きている自分が、未だにその首を胴体の上に残してやっているのだから。恋は感覚を鈍らせ、愛は行動を狂わせる。そんなものに侵されている自らが滑稽で、そんな感情を芽生えさせた姉が恨めしい。それでいて、姉を愛おしく思い心を寄せている。散々「さっさと死んだ方がいい」とに対して口にしているものの、「さっさと殺した方がいい」とわかっていてそうせずにいるエンカクは大概愛とかいう病が重症なのだろう。執着とは、つまらない感情だ。そのはずなのに、たった一輪の花に奪われた心は帰らない。この女の空虚に呑まれたそれは、きっとずっと戻らないまま。それでも構わないという結論はとっくに出ているのだ、自分たちはふたつに分かたれたひとつなのだから。ただ心をひとつ差し出したのだから、それに値するものを貰い受けたいものだ。惚れた弱みで自分が差し出す側だとわかっていても、報いを求める愚かさはどこまでも恋のそれだ。元よりこの女の胸の中は空っぽなのだから、返される心などあるはずもない。だから代わりに心臓を握っている。それでやっと、自分たちは対等のはずだった。この腕の中に収まる華奢な背中から、規則正しく伝わるやや速い鼓動。この心音が自らの掌中にあると思えばこそ、許容できる虚しさがあった。
「あなたは私に謝るなと言うけれど、」
「ああ」
「あなたはいつも怒ってる……」
「……呆れたな」
 この女、仮にも医者を本業としているからには頭の出来は悪くないはずなのだが。ケルシー医師に「この女はお前の与える任務に耐えうるほどの能力がない」と具申してやろうかと思うほどの鈍さだった。こんなに他人の感情に無頓着で、本当に患者とコミュニケーションが取れているのだろうか。それでも姉はどうしてか、やたらと同僚や子どもたちに受けがいいのだから不思議なものだ。きっと、『ロドスの』として振る舞う分には不都合がないのだろう。はただ、「頼みを聞いてくれる同僚」だの「優しい医者のお姉さん」だののロールを果たしているだけだ。役割ありきなら、他人とどう接するべきか理解してその通りに振る舞える。手本をなぞるように、人間受けのいい応対ができる。弟に対してあまりにお粗末な受け答えしかできないのは、エンカクが自身の答えを求めているからなのだろう。が自らのことを半分も理解しておらず、また理解しようともしていないから目も当てられない惨状になる。姉は自身のことがわからないから、弟のこともわからないのだ。は、感性だけは普通の人間だ。痛いだとか怖いだとか、そういった感覚は真っ当にある。けれど徹頭徹尾、一切合切、この世のあらゆるものに無関心で無頓着で。芯となる理念も志もなく、ただなんとなく存在し続けている。痛いのは嫌だから、怖いのは嫌だから、不安なのは嫌だから。そんな一時の感情に流されながら、ふらふらとこの世を漂っている。向き合うもの全て、自分自身からすらも逃げ続けた無様な女。ただ嫌な思いをしないことだけ考えてその場しのぎで生きている、卑小な魔物。おぞましくも美しく、この世離れした存在のくせに、その人間性は笑ってしまうほどお粗末なものだ。ある意味、それも怪物らしいのかもしれないが。エンカクの求める本当のところを、この女は一生理解すまい。恋も愛もどこまでも他人事としてしか認識しないの方が、容赦なく刀を振るうエンカクよりよほど残酷な存在に違いなかった。
「お前のように酷い人間は見たことがない」
「また、ひどいこと……」
「酷なのはお前だ、お前は武器もなく人を殺す。いや、殺すという能動的な行為ですらないな。お前のような人でなしが、周囲に死をばら撒くんだ」
「いつもそう、私の嫌いなところばかり言うのに……普通の愛情は、あなたのそれより痛くはないでしょう……?」
「愛する者の全てを肯定したがるのは、人間の数ある欠点のひとつだな」
「盲目になるのではないの……?」
「お前に対しては、盲た方が幸せだったろうさ」

今日は案外よく喋るな、と思いつつも姉の体を抱いたままベッドに転がる。珍しく会話らしい会話が成立して驚いたものだが(何しろは弟の前ではだいたい泣くか黙り込んで俯いている)、きっと不安と緊張で気が昂っているのだろう。抱いて宥めてやってもよかったが、おそらく自分の方が危うい。先ほどその白い首に刃をあてがった興奮が、未だ冷めていなかった。
「そのままだと冷えるぞ」
「なら、離して……」
「お前の炎があるだろう」
「…………」
 その顔には、ありありと「釈然としない」と書かれていたが。エンカクはそれを無視して濡れたままの姉の髪を撫でる。偽善にも満たない気味の悪い優しさで、自分の世話より他人の世話を優先するからこうなるのだ。エンカクは、姉のような生温い炎の扱い方は知らない。それでも、がそうしたように宵闇色の髪に手を伸ばした。
「よく手入れされているな」
「……あなたが言うと、武器の話みたい」
「武器のようなものだろう、お前の外見は」
 手入れを疎かにするな、と言外に含める。儚さと美しさを体現しているかのようなこの女を、躊躇いなく害するのは大抵の人間にとって困難なことだ。例え、化外のそれだと頭ではわかっていても。見てしまえば、魅入られてしまう。他者から勝手に寄せられる好意だの親切だのに囲われて安全に息をしているのだから、自分の強みくらいは自覚して磨いておいた方が良いとは思うが。死にたくないと嘯きながらも、この女は存外自分の生死にすら無頓着だ。他者の目を惹き付けてしまう容貌も、心のどこかで忌避して価値を解ろうともしないのだろう。自身と色も髪質も変わらないはずなのに妙に艶めいて見えるその髪を、くるくると指に巻き付けては離してと戯れる。小さく溜め息を吐いたは、大した動作もなくアーツを振るって自身の髪を乾かした。子どもに言うことを聞かせるように、やんわりとエンカクの手を抑える。
「もう、寝ないと」
「目を閉じればいいだろう」
「あなたの傍は怖いの」
「そんなことを言える余裕はあるんだな」
 軽口を叩き合いながらも、の鼓動は早い。事後はいつも深くゆっくりとした脈で眠っているから、弟と言葉を交わしている状況に緊張しているのだろう。やはり意識のない時の方が、可愛げのある女だった。怯えながらも口を閉ざさないその様は、噛み付かれることを恐れながらも獣に餌を差し出す人間のようで面白いが。何をこんなに怯えているのかと思うものの、今日は泣き出さなかっただけ上出来だろう。かたかたと震えながらも目を閉じずに悪鬼のごとき弟の戦いぶりを直視していた、その成長は評価に値すると思っている。頭から血を浴びて戻ってきたエンカクの伸ばした手にびくりと震え、白い頬にゆっくりと紅い線を描きながら這っていく親指の腹の感触に泣き出しそうな顔をして。本当に、綺麗だった。目尻に溜まる涙が、揺れる炎色の瞳の輪郭が、青ざめて赤色を映えさせる白い肌が、強く心を揺さぶる。戦闘の高揚が強く心臓を脈打たせる興奮ならば、姉を見て抱くそれは体の奥底からぞくりと湧き上がって背筋を震わせる類のものだった。きっと、そこには畏れにも似た何かがあるのだろう。自分と血肉を分けた「もうひとつ」である何かが、理解の及ばない存在であることへの恐れ。エンカクが姉の持たない強靭な身体と意思を有しているように、姉には弱さという魔物が棲んでいる。同じ血の容れ物の薄皮一枚を隔ててそれを確認するたびに、美しく恐ろしい稀少なものに触れている優越感を得る。理解のできない生き物であるというのはお互い様であるのに、姉はいつまでも自分は平凡な人間だと信じているらしかった。
(愚かな女だ)
 幾度となく抱いたその想いを、なぞるように目の前の血縁者に重ねてみる。それでも、エンカクは未だにを殺す気になれずにいる。いったい何をこの女に待っているのか、自身でも掴み切れずにいた。ただ、今はまだその時ではないと思う。それだけだ。このくだらない姉弟ごっこを、いつまで続けるのか。いつまで、続けていられるのか。まるで自分がこの生温い関係が続くことを望んでいるようで、吐き捨てるような笑みが漏れた。
「……、」
 ぴくりと、閉ざされた瞼が動く。エンカクが笑った気配を感じて、不安を覚えたのだろう。けれど健気にも、胸元で手を握り締めて目を閉じたままでいる。安らかな眠りに落ちて、良い夢でも見るといい。生憎それは本心で、の思うような皮肉や企みなどではないのだが。自分が姉を信じないように、も弟を信じない。自分たち姉弟は、きっとずっとそうなのだ。儘ならない愛憎に振り回されながら、いつか訪う死という決着に向かって歩き続けている。あまりに馬鹿げていて、笑い飛ばす気にすらなれなかった。
(……温い)
 腕の中の体は、人体特有の温もりを有している。そんな当たり前のことが、だというだけで不思議なことに思える。温もりがあることも、刃を当てれば血が流れることも。人として当然のことにいちいち驚けるのは、のことを人外のように認識しているからだろう。まったく酷い弟だと、心にもない自嘲を浮かべる。明日目が覚めたときにこの女が無数の花弁となって朽ちていても、きっと自分は少しも驚かないに違いなかった。
 
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