「エリートオペレーターが……ううん、ロドスのオペレーターのみんながみんな、品行方正な善人じゃないってことは私もわかってる。私だって正義の味方なんかじゃない、これは理不尽な好き嫌いの話だからね」
そう前置きして、苦々しい顔でブレイズはドクターの質問に答えた。「私はが嫌い」だと。
「いくらケルシー先生の弟子でも、彼女だけは受け入れられないな。エリートオペレーターの選抜基準のひとつが『信頼』だって知っててもね」
「ブレイズ、君はに不信を抱いてる?」
「それは少し違うね。不信も信頼もないんだ、お互いに」
「それはつまり……」
「空っぽだってこと。オペレーターの中には、何にもないんだよ」
道理であの豪快なフェリーンは自分との作戦行動の後に『似てない姉弟で良かった』と零したわけだ、とエンカクはドクターの話を聞きながら腑に落ちるものがあった。同時に、ロドスのエリートオペレーターという存在の目が節穴でないことを改めて実感する。何しろエンカクの最もよく知っているエリートといえばなのだから、あの女をそんな位置に据えておく時点で組織としての能力を疑わざるを得なかったのだ。近付き難いサルカズの麗人というだけでとエンカクが似ているなどと抜かす連中も多いものだから、仮に「上」までこの調子なら先が思いやられると考えていたところだった。
「それにしてもブレイズは、どうしてが嫌いなんだろうな? 『にとって公平じゃないから』って、教えてもらえなかった」
「身内が死んだんだろうさ」
「うん?」
首を傾げるドクターに、あっさりと答えるエンカク。まるで見てきたように言う彼の指すところが理解できず、ドクターは反対側に首を捻った。
「おそらくは共通の知り合いだろう、それも仲間意識の強い先任だろうな。そうでなければ怒りなどすまい」
「……ごめん、どういうこと?」
「エリートオペレーターの誰かが、死んでいるはずだ」
おそらくはブレイズとも親しく、にも気さくに接していたはずの誰か。そう続けられたエンカクの言葉は、ドクターの耳に入らなかった。死んだエリートオペレーター。そう聞いて真っ先に思い浮かぶのは、AceやScoutの存在だ。記憶のない今の自分にも、強く印象づけられている彼ら。ドクターのために、死んだエリートオペレーター。ブレイズは彼らの命に能う何かをドクターの中に見出して、Wは狂気じみた笑い声の中に隠し切れない憤りを滲ませていた。どうしてか、エンカクが指しているのが彼らであろうことをドクターは感覚で理解してしまっていた。
「あの女は悲しんだだろうさ。涙のひとつも流したかもしれないな」
「は……そうだ、悲しんだはずだ。優しい人だから」
それなのにどうして「嫌い」に繋がるのかと、ドクターは訝しむ。けれどエンカクはそれに答えず、鼻で笑って足を組み変えただけたった。蔑んでいるようにも、憐れんでいるようにも見える笑み。「にとって不公平だ」と言っていたブレイズも、そういえば珍しく複雑な表情を浮かべていた気がする。
「そうか、優しいか。俺の『ねえさん』は」
「……違うのか?」
「それは俺に問うべきことではないだろう、『ドクター』?」
ブレイズは、を尊敬していたという。聡明で美しく、誰に対しても分け隔てなく接するサルカズの麗人。自身の種族に対する偏見を恐れ悲しみはしても他人と関わることを止めず、魔族と罵られても癒しの手を差し伸べた。それは高潔なシャイニングとも切実なナイチンゲールとも異なる姿ではあったが、確かな『希望』だったはずなのだと。
「昔のお前の方が、あるいはあれを気に入ったかもしれないな」
謎かけのように、エンカクは言葉を重ねる。その顔はとても退屈そうで、これ以上ドクターの『雑談』に付き合ってくれそうにはなかった。
「回りくどい言い方はやめてくれ」
「お前はもう少し賢かっただろう、これでも話しすぎたくらいだ」
いよいよ立ち上がってしまったエンカクは、ドクターの机からチョコレートバーを一本かっさらっていく。「さっきエンカクも食べてたのに」と抗議すれば、「あれへの詫びだ」とここにはいないにあげるのだと示唆された。
「あれが悪い。だが、あれのせいでもない」
だから、本当はこんなふうに本人のいないところで好き勝手語っていい話ではなかったのだろう。存外エンカクは、自身の姉に対して誠実である。面と向かって罵倒しても人間性をこき下ろしても、不義理を不義理のままにしておくことはしない。この姉弟の関係は、実に不自由で不可思議なものだった。
「俺に対して秘密はあるのか、」
またこの弟は突然何を言い出すのかと、の顔にはありありと書かれていた。突然チョコレートバーを渡されてそんなことを問われて、どう反応すべきかわからない。戸惑いのままに弟の顔を見上げても、そこにはいつものように嘲笑じみたうっすらとした笑みだけが浮かんでいた。
「ロドスの職務上の機密、とか……」
そんなことを聞かれているわけではないことはわかっていたが、正直その他に秘密と呼べる秘密もない。が弟から逃げたがっていることなど、この姉弟関係における前提とさえ言えるのだから口に出さないだけで隠し事の範疇にも入らないだろう。
「あなたの方が、知ってると思うけれど……」
「何をだ」
「その、私の秘密……?」
以上に、のことを知っているかのように振舞う弟。いつだってが考えたことすらないようなことを胸の奥から引きずり出して眼前に突きつけてくるのは、この弟だ。に秘密があるとするなら、それを真っ先に知るのはエンカクのはずだ。この考えはきっと、怠惰で投げやりなのだろうけれど。
「くっ、」
てっきりいつものように機嫌が悪くなるかと思えば、意外なことに弟は可笑しそうに口元を押さえていた。それも、蔑みや呆れの色を含んでいない純粋に好意的な笑みは珍しい。呆気に取られて弟を見上げていると、エンカクはやはり機嫌良さそうに笑い続けていた。
「……可笑しかった?」
「いや……愉快なだけだ」
それを可笑しいというのでは、と思いつつもあまり弟に余計なことを言いたくないは黙って口を閉じる。弟が寄越してきたチョコレートバーを見て、これはドクターのお気に入りのお菓子ではなかったかと思うものの。昔同じようにドクターから菓子をくすねて「あまり根を詰めるな」と気遣ってくれた故人のことを思い出さないから、はブレイズに嫌われているのだ。その場では優しくして、親しげに接して、好意には好意を返して。そんなふうに、例えば友人とさえ呼んでいいように他者の目には映るのに、関わらなくなった後には想い出話のひとつもしないから。彼女の中には故人の思いなど何一つ残っていないのだと、聡い者は思い知らされてしまう。あの笑い合った時間は、にとっては何でもなかったのだ。悪意をもって踏みつけているのならまだ罵ることだってできたのに、本当に何も無いから。
「お前はそういう生き物だったな」
秘密など、あるわけがない。胸の内に何も残らない生き物に、秘密など。ブレイズの言うとおり、は空っぽな女だ。どこまでも空虚な心なのに、周りが勝手に自分の見たいようにという存在を作り上げていく。だがエンカクには確信があるのだ、自分が見ているものは決して都合のいいように見ているだけの虚像ではないと。だから笑ったのだ、結局弟が最も自身を理解していると、よりにもよっての口からそうともとれる言葉が出てきたのだから。この女は許している。否、その自覚もないかもしれない。残酷で、卑小な女。求めれば求めるほど虚しくなって、怒りすら湧いてくる。それなのにあまりに無頓着が過ぎる女は綺麗すぎて、最終的に苛立つ自分自身が愚かしい生き物に思えてくるから嫌になる。
そんな女がいつものように気まぐれじみた「特別」をちらつかせて、こんなに愉快な気持ちになる自分は滑稽だろうか。姉に「弟」としての扱いを受けることは時に侮辱であり時に栄誉であり、苛立ちへと突き動かされる時もあれば他意のない笑みを浮かべさせられることもあって儘ならない。この不自由さが恋情だとわかっていてもやはり、自身の感情としては度し難いのだ。盲になって愛とやらを賛美するには、自分は些かひねくれすぎている。この姉については論外だ。子どもたちに読み聞かせる教えやおとぎ話としてしか、「そういうもの」を理解していないのだから。
「あ、」
「どうした?」
「秘密、あったけれど……」
もじもじと、言いにくそうにはエンカクを見上げる。またフリントがエンカクの花でも折ったのか、スズランたちがエンカクの鉢を奇天烈に飾り付けでもしたのか。秘密といってもその程度のことだろうと、姉の他愛もない秘密を聞いてやる気になっていたエンカクは続く言葉に瞠目することになった。
「その、しばらくは艦を離れることになったの」
「……何?」
「今回は護衛の随行もあるし、あまり詳しくは言えないから……」
つまりは期限が不明瞭な上に、エンカクの同行もやんわりと拒んでいる。本当は弟とはいえ任務があることを仄めかすのも不味いのだろう。職務上の機密にあたるから、エンカクに個人的な秘密を問われても本当は話すつもりもなかった。だから、これはが弟に示せる「誠意」の精一杯だ。そんなことはわかっている。それでも突然のことに面白くないと思うのは当然のことで、しかしそれをも見透かしたかのように「聞きたいことがあるなら予定は空けるって、ケルシー先生が」とこの場にいないはずの医師に先手を打たれていたことを告げられる。これはエリートオペレーターとしての職務なのだと、示唆されていた。目を細めて黙り込むエンカクと、怯えながら様子を窺う。暫くの沈黙に堪りかねたように、か細い声が絞り出される。
「逃げる、わけじゃないから、あの……」
「…………」
「殺さないでね、エンカク……」
「……は、」
これは、可愛げと呼んでもいいのだろうか。戻ってくるから、逃げないからとかつての裏切りを贖うように言う。そんな「約束」などにサルカズの傭兵が硬貨一枚ほども価値を見出さないと知っていて、だ。愛玩を強請る小動物のようないじらしさに免じて許してやってもよかったが、生憎自分たち姉弟に信頼関係というものはない。
「前払いだ、」
「……っ」
「お前の命の値段を教えてくれ、『姉さん』」
細い首に、手を添える。頚動脈を押さえて血流を止めてしまうことも、力任せに骨を砕くことも容易だ。それを嫌というほど思い知っているはずの姉が、どうやって媚びを売ってくれるのか興味もあった。ある程度は覚悟をしていたのかぎゅっと目を閉じたに、可笑しさと苛立ちが綯交ぜになった劣情が浮かぶ。掴んだ首、その皮膚の下に血が巡っている。ドクドクと脈打つ鼓動と、怯えに震える白い瞼。ここでエンカクの言い値に任せるのなら、殺してしまおうと思った。
「……エンカク」
相変わらず、こんな状況になってさえ、姉は自分の名を呼ばない。それでも開かれた瞼の奥、炎色の瞳がエンカクを見ていた。鏡の中にいる自身と目が合うのは、こんな気分だろうか。不気味で直視しがたく、それでもその口が開いて『何か』を語りかけてくるのを待っている。わずかな緊張と畏れ、そして。
白くたおやかな手が、エンカクの首へと伸ばされる。いつかのようにその手を撥ね退け、押さえつけてしまうことは容易い以前の問題だ。そのくらい、姉の動きは緩慢で拙い。けれどエンカクはただ、その手を見ていた。自分より少しだけ低い体温が、急所に触れるのを甘んじて受け入れる。憎らしいほど弱々しい指が、エンカクの命に触れていた。
220923