物憂げな雰囲気を纏う、脆く美しい妖魔。夜を溶かしたような紺の髪と宵闇に映える篝火のごとき炎色の瞳は、危うげな儚さをもって人の目を惹き付ける。美人は目を伏せて悩んでいる姿ですら一枚の絵画のように様になるのだなと、ある種の感心を抱きながらドクターと呼ばれる彼はサルカズの麗人に声をかけた。
「大丈夫? 。悩んでいるようだけど……」
「……あ、ドクター……すみません、お恥ずかしいところを」
パッと柔らかな微笑みを浮かべて顔を上げたは、少し恥ずかしそうに頬を染める。医療オペレーターのは、ケルシーの弟子ということもあり普段はドクターよりも彼女の指揮系統で動いている。けれどエンカクが入職してからはそのフォローに呼ばれることも多く、ドクターと話す機会も増えていた。ドクターの中では弟や上司に振り回される苦労人という印象だが、の話を振った時のエンカクの反応を見るに、ただの気弱で良識的なサルカズというわけでもないらしい。とはいえ前線で彼女を指揮した上でも、良心と常識のある世間的に珍しいタイプのサルカズだという印象は変わらないが。基本的に他人に関心を示さないあの刀術師が、ドクターに対するものとは別の意味でただならぬ感情を姉に抱いているということだけは知っていた。穏やかで人当たりのいい、弟とはまるで反対のはどうにも姉弟関係に苦労しているらしい。ここ最近の彼女の悩みといえばもっぱら弟のことだったから、きっと今回もそうなのだろうと予測はついた。掃討の命令を守らず弱すぎる敵を見逃しただとか、逆に撤退の命令が出ているにも関わらず強敵との死闘に興じていただとか、正直の手には余るであろう「素行不良」で悩んでいたときより幾分か表情は明るい。何か力になれるだろうかと水を向けたドクターに、は少し恥ずかしそうに口を開いた。
「その、実は……弟の誕生日がもうすぐで……」
「誕生日」
思わずオウム返しに答えてしまったドクターに、は眉を下げて笑った。拍子抜けと言っては悪いが、恋煩いの乙女もかくやといった憂い顔に反した可愛らしい悩みだったのだ。けれどドクターや他のオペレーターたちがエンカクへの対応に悩むのと同じように、も姉だからといって彼を理解しているわけではないから誕生日というイベントひとつでさえ深刻に思い煩うのだろう。聞けば、の誕生日にはカズデルでは見たことのない花を贈られたらしい。特に誕生日祝いだとも何とも言わず無造作に渡されたらしいが、きっと祝いのつもりだったのだろうと。姉弟だろうと誕生日だの何だのに興味が無さそうなエンカクが祝ってくれたのだから、も相応の気持ちを返すべきだろうと悩んでいるようだった。
「あの子が何をもらったら嬉しいのか、わからなくて……」
「ああ……」
「花を贈るにしても、好みに合うか不安で……弟は私の好みを知ってくれているのに、私は全然弟の好みを知らないんです」
そういえば、エンカクは長い間離れていたにも関わらずのことをよく知っている。周りは姉弟故に理解が深いのだろうと思っているが、の方は弟のことをよく知らないという。彼の個人資料の専門の項目に「捜査」の文字があったことを、どうしてか今思い出した。もしかしたら考えすぎかもしれないと、思い浮かんだ可能性を頭から振り払おうとする。弟を恐れている様子すらあるに対して、エンカクがその得意分野を間違った方向に発揮しているかもしれないとは到底言えなかった。
「何か、候補はあったりするの?」
深く考えるのはやめておこうと、ドクターは少しだけ話題の方向を変える。その問いかけに、はきゅっと唇を噛み締めて難しい顔をした。
「……首……」
「えっ?」
「強い人の……でも、首より生きてて殺し合える人の方が……できれば剣が得意で……そんな人、見つかるかな……」
「、落ち着いて」
どうやら弟の誕生日について思い詰めすぎたあまりに、思考回路が少しバグってしまっているらしい。いつもの柔和な顔つきのまま物騒な案を口にするものだから、かえって恐ろしかった。ドキドキと嫌な脈を打つ心臓を宥めながら、ハッと我に返った様子のもやはりあの弟の姉なのだと実感する。死闘にのみ生きる意味を見出す弟の好みがわからないとはいえ、ならば弟の満足のいく殺し合いを贈るしかないのではと思い悩んでしまうあたりもやはりサルカズなのだろうか。種族だとかどうこう以前に、個人の問題のような気もするのだが。フードの下で冷や汗を浮かべたドクターに、はわたわたと慌てながら弁解した。
「そ、その、ちょっと気が動転してたみたいで」
「自覚があるのはいいことだね」
「落ち着いて考えてみたら、おかしいですよね……危険な任務に入れてもらえるようにお願いする方が現実的ですし……」
「待って、君の善意が怖い」
誕生日当日に危険な任務に弟を入れようとするのが、純度100パーセントの善意なのだから本当に恐ろしいことこの上ない。日頃困らされている仕返しだとか皮肉だとかでは一切なく、心底から純粋に弟の喜ぶことを考えた結果がそれなのだ。ある意味弟のことを理解しているのか、理解を放棄した結果がこれなのか。サルカズの姉弟関係は複雑怪奇だと、他の一般的なサルカズに聞かれたら遺憾の意を表明されそうな考えが脳裏をよぎった。
「こう、無難にネクタイとか、ジャケットとか……」
「成人男性に姉センスの服を贈るのって、ハードルが高いような……」
「エンカクは喜ぶと思うけど……」
「喜び、ますか……?」
「……ごめん、無責任だったね……」
ふたりとも、あの何とも言えない冷笑を浮かべたエンカクの表情が容易に想像できて沈痛な面持ちで俯いた。からの贈り物であれば好みでなくとも受け取るだろうが、「お前はこういうのが好みなのか」と折に触れてつついてきそうである。エンカクは自身の見た目に無頓着というわけでもなく、明確な好みやこだわりがあるように思えるから尚更だった。
「そういえば、エンカクの誕生日って……」
「はい、クリスマスですね」
ロドス内の有志により少しずつ飾り付けられている艦内を見て、ふと思い出す。頷いたは聖夜を血で染めかねない提案をしていたのかと、ドクターは再び慄いた。傷付けないよう迂遠にそれを指摘すれば、はしばし気まずそうに目を逸らしたあと「……やっぱり『普通』って難しいですね」と苦笑を浮かべる。
「あの子と『姉弟』をしていた頃は、誕生日もクリスマスも縁が無くて……お祝いなんて、したことがないんです」
カズデルで彷徨っていた頃は、生きるのに精一杯で祝い事など子ども二人ではしたこともなかった。ロドスに来て、初めて互いの誕生日やら季節の行事やらを迎えて。普通なら子どもの頃から積み重ねていくことを、この姉弟は長い空白の後から突然始めることになった。それでも弟はちゃんと誕生日を祝ってくれたのにと、自分の不甲斐なさには落ち込んでいる。価値基準が常人と大いに異なる弟を喜ばせようとするのが既に無理難題であるからそう落ち込まずとも、と思うがわかっていても投げ出せないことだから悩むのだろう。
「クリスマスはお休みをもらって、みんなと一緒にご馳走を食べて……そういう『普通』の一日を贈っても、満たされるのは私の方だなって……」
エンカクはが『普通』でいたがることにそれなりに付き合ってくれるし、そもそも誕生日だのクリスマスだのに拘りも無い。が楽しいならそれでいいと、文句も言わず一緒に過ごしてくれるだろうけれど。同じ自己満足ならせめて、普通でなくてもいいから弟の喜ぶことをしてあげたかった。はエンカクから花をもらったとき、怖かったけれど嬉しかったのだ。気まぐれでも、に『普通』の誕生日を与えてくれたことが。カズデルでは咲かない花を贈ってくれたのも、が子どもの頃に「カズデルの外には、お花がいっぱい咲いてる場所があるんだって」と呑気な憧れを口にしたことを、もしかしたら覚えてくれていたのかもしれなかった。はにかみながら話すの言葉を聞いて、ドクターはいじらしさに胸を打たれて心臓の辺りを思わず押さえる。子どもの頃エンカクが欲しがったものでもあれば良かったけれど、と俯くに、ドクターはある問いかけをしたのだった。
「……エンカク、起きてる?」
クリスマス当日、まだ日も昇っていない時間には弟の寝顔を覗き込んだ。眠っているふりなのか本当に眠っているのかはわからないが、返事は無い。起きていると言わないのなら眠っているということでいいだろうと、は少しほっとしてその耳元に顔を寄せた。面と向かって言うのは、何となく気恥しさがあって。ぴくりとも動かない瞼を見下ろして、そっと息を吸い込んだ。
「その……今日だけでいいから、死なないで帰ってきてほしくて……お願い、」
今日、弟は任務に行く。「危険な任務に出したら喜ぶのではないか」という馬鹿げた提案が通った結果ではなく、ただの偶然だが。もっとも、本気でそれを誕生日祝いにするつもりはない。そんな非道な提案までしておいて、死なずに帰ってこいと一方的に告げるのはの我儘だ。弟の誕生日を祝いたいのはただの独り善がりだと割り切ってしまえば、どうしてか少し楽しいとさえ思えた。
「……生きて帰ってきてね」
いつもエンカクがにするように、その頭に手を伸ばす。案外柔らかくて指通りのいい髪を一度だけ撫でて、気恥しさを振り払うように立ち上がった。そのまま、早番の当直へと向かうために部屋を出る。エンカクが作戦から帰ってくる予定の時間には、も仕事を終えられるはずだった。
「…………」
ぱちりと、薄明かりの中でエンカクは目を開ける。耳にほんのりと残った温もりと、仄かに漂う花の匂い。すぐに霧散して消えるであろう姉の気配の残滓は、けれど確かに今の出来事が夢現の幻ではなく現実だったのだと示していた。
(今日は槍でも降るのか)
あの女が「生きて帰ってきて」などと、そんなことを口にする日が来るとは。ここしばらく、姉が似合わない顰め面をして思い悩んでいることは知っていた。それが、自分の誕生日のためであるということも。そも、の誕生日に花を渡したときに打算がまったく無かったわけではない。あの姉のことだから、エンカクが何もしなければ弟は誕生日やらに興味が無いのだと安心して祝いの言葉や食べ物など形に残らないもので済ませていただろう。物が欲しいわけではないが、他人と同じ距離感で接せられるのが気に食わない。精々思い悩めばいいと、小心者で律儀な姉が気に病むことをわかっていて形に残る鉢植えを渡した。怖がっている弟からの贈り物とはいえ、昔日に夢見た「カズデルの外にあるお花畑」を思い起こさせる花を見て姉はずいぶんと可愛らしい喜び方をしていたものだ。机の上に並べられた鉢植えの仲間入りをしたその花は、他の花と遜色なく大切に扱われている。律儀で愚かで言動が頓珍漢な姉が、エンカクの誕生日に際していったいどんな結論を出したのか楽しみではあったが。
――今日だけでいいから、
あの女が、エンカクの生き方に口を出したことは一度もない。どうせ生き急ぐからと弟の治療に手を抜いたことなどないが、戦いの果ての死を望むことそのものに異を唱えたことはただの一度もなかった。エンカクが死ねば解放されると思っているわけではなく、根本的に弟は自分と違う生き物だと思っているからこその不干渉だ。だから、たった一日だけでも戦いで死なずに戻ってこいと願うのはあの女の最初で最後の我儘だった。きっとこの先も、あれがそんな『願い』を口にすることなどないだろう。エンカクが生きようと死のうと本人の望んだことならそれでいいと受け入れる、ある種薄情な姉なのだから。弟の生き方を尊重すると言えば聞こえはいいが、その実生き死にに干渉するほど思い入れも執着心も無いだけだ。元々他人の内側に踏み込むことを極度に恐れているとはいえ、大切なものを硝子越しに眺めるだけのような姉の愛し方が面白くなかったのは確かだった。手に入らなくとも想うだけで満足するような、そんなお綺麗な愛しか持たない生き物。あの女に求めれば求めるほど飢えるだけだと知っていても、それで諦められるならばこの執着は愛ではない。だから、少しでもエンカクの飢えに見合った苦悩を抱けばいいと思っただけだった。それが、ほんの一日であっても姉が束縛を口にするという思わぬ結果に繋がって。正直なところ、虚を突かれたような心地だった。してやられたと言うべきか、本人にそのつもりもないのに見事に反撃を食らったと言うべきか。いつもは散々泣いて別の生き物だとか生きる世界が違うだとかエンカクを拒むくせに、こういうときだけ欲しいものをあっさりと寄越すから憎らしいのだ。その『我儘』こそがエンカクの欲しかったものだと、そう言ったところでどうせあの女は信じないのだろう。だから期待もしていなかった。唯一の片割れに拒まれ続ける虚しさと焦燥の分だけ苦しめばいいと、自覚した上での八つ当たりのようなものだったはずなのに。
「……おめでたい女だ」
生に執着すれば、刃が鈍る。姉への執着は、さて。砥石にもならない弱い存在を、血肉のように当たり前に自分の一部だと認識している。満たされるという毒が、エンカクを殺すのだろうか。虫も殺せないほど弱い姉が、殺意もなく安息で弟の存在を侵してゆっくりと息の根を止める。それはあまりにも、つまらなくて馬鹿馬鹿しい死に方だった。姉は、弟と離れてロドスで過ごしている間によくわからない生き物になっていた。これからも変わっていくであろうあの女は、いつかエンカクとは決定的に違う生き物になる。善性の怪物、サルカズで最も弱く美しい魔物に。呑み下せるうちに、殺してしまうべきか。あれを斬ったところで、刃の糧とはならない。あんな生き物を殺したという事実が、鉄に浮く錆のようにエンカクを腐らせるだけだろう。だからこそ、あれを殺すのは自分が死ぬときだと決めているのだ。今はまだ綺麗なだけの姉を、自らを腐らせてまで斬る必要はない。薄暗がりの中で無機質な天井を眺め、姉の言葉を反芻する。誕生日祝いとやらを、もう一生分寄越された気分だった。
「それで? 『姉さん』は何をくれるんだ?」
「……あなたのそういうところ、あんまり好きじゃない……」
「それは悪かったな」
まったく悪いと思っていなさそうな顔で口の端を持ち上げて笑う弟に、は渋々と包みを差し出す。笑われたら嫌だと思いながらも反応が気になっておずおずと見上げれば、エンカクは中身を見て意外そうに目を瞬かせていた。
「……砥石か?」
「だめ……?」
「少し意外だっただけだ」
お前のことだから花で返してくるかと思ったが、と言うエンカクは、からの贈り物を笑ったりはしなかった。ただ、面白いものを眺めるようにの贈った剣の手入れ道具を見下ろす。購買部でエンカクがいつも購入しているのと同じものを買ってきたのだが、迷惑だっただろうか。おろおろと慌て出したに、「まさかとは思うが」とエンカクは幼い日のとある出来事を思い出した。
「お前が手入れをするとでも言う気か?」
「その、迷惑じゃなかったら……」
「そもそもお前は血脂にも触れないだろう」
「……うぅ、」
「また倒れられでもしたら、今は周りが煩い」
むしろそんなことを未だ覚えていたのかと、ある種の感心すら抱く。そういうことは覚えているのに、肝心なことは忘れてしまっている姉に呆れる気持ちもあった。「ドクターがね、」と言い訳がましく切り出したに、ぴくりと眉が動く。エンカクの表情が変わったことに気付かないまま、は話し出した。
「昔あなたが欲しがってたものはわからなくても、私がしてあげたかったことでもいいんじゃないかって……昔、できなかったこと……」
それで、エンカクの武器の手入れという考えに至ったらしい。確かに昔、何かしら手伝いたいと言い出した姉に刀を拭かせることくらいはさせてもいいかと預けたことがあった。血も脂も駄目な姉は、刀に付着している液体の正体を知った途端刀を持ったまま気絶したが。今は職業柄多少克服しているとはいえ全く平気というわけでもないだろうと、少し青くなっている顔色を指摘すれば「でも……」と珍しく食い下がった。姉の方からエンカクに関心を示すのはまあ多少空回りでもいじらしいから構わないが、その発端が
他の男の提案であるということは気に食わない。姉に刀を預けない理由なら幾らでも後付けできるが、つまるところは他人が関わっていることが面白くないという嫉妬だった。
「……ごめんなさい、選び直してくる」
エンカクの機嫌が急降下したことには気付くのに、根本的なところには気付かない。それがこの姉のどうしようもない欠点だとわかってはいたが、深々としたため息を吐かずにはいられなかった。踵を返そうとしたの腕を掴み、「別にいい」と告げる。「けど……」と俯いたの頬に手を当て、強制的に上を向かせる。揃いの炎色の瞳が、ぱちりと瞬いた。
「来年は、『行かないで』くらい強請ってみせろ」
「……え、」
「それで満足してやるさ」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、がぽかんと固まる。何を言われたのか時間差で理解したのか、じわじわと白い肌が赤く染まって。聞いていたのか、とでも言いたげなその表情を見て「お前もわかっていて言ったんだろう」と返せば、綺麗な顔がきゅっと泣きそうに歪んだ。
「意地悪……」
「お前ほどのタチの悪さじゃない」
「そういうのって、聞かなかったことにしてくれてもいいと思うけど……」
「生憎、俺はお前の言う通り意地が悪くてな」
掴まれた腕をぱたぱたと振りほどこうとするを離してやるわけもなく、真っ赤になった姉を揶揄って溜飲を下げる。どこにも行くなと言うくらいの可愛げを見られれば、多少の嫉妬は呑み込める。けれどそんな思惑すら場外ホームランで打ち返してくるのが、このどうしようもない姉で。
「……来年まで、生きててくれるの?」
ふと思い付いたように口にしたに、意趣返しのつもりなど無いのだろう。また来年もこの日を迎えられるのかと、聖夜の贈り物を待つ無邪気な子どものような顔をする。
「死んでなければ、生きてるだろうな」
「そう、よかった……」
ひねくれた答えにさえ、安堵したように笑う。エンカクのことを怖がっているくせに、傍にいられないと泣くくせに、生きていれば嬉しいと笑う。そんな姉のことがずっと理解できなくて、憎らしかった。
201217