誰も彼も、まるで幽霊でも見たかのような顔をする。ロドスに新しくやって来たサルカズの刀術師に対する彼らの視線は、人々が『魔族』に向けるそれとは違っていたが。親しみと、哀切。そんなものを向けられる謂れのないエンカクにしてみれば不可解で、ともすれば不愉快ですらある感情だ。どこに行っても纏わりついてくる意味ありげな視線の意味をエンカクに教えたのは、先程入職前のレユニオンとの戦闘について苦言を呈してきたドーベルマンというオペレーターだった。
「――という名に聞き覚えはないか?」
「……知らない名だ」
「ああ、そうか……彼女は本名を公開していなかったから……」
聞いたこともない名を告げられ訝しむエンカクの前で、ドーベルマンはひとり合点のいったように頷く。それはまるでエンカクがと名乗っていた人物を知っていることが当然のような反応で、心臓がどくりと不穏な脈を打った。まさか、ここにあの女がいるというのか。エンカクを裏切り、逃げた『姉』が。ずっと探し続けていた『もうひとつ』が、この艦にいるというのか。刹那のうちに、様々な感情が入り交じって胸を乱す。憎いのか、愛しいのか、自分自身でもよくわかっていない。そんな感情をエンカクに抱かせるのは、あの女だけだということは知っている。弱くて、脆くて、あまりにも自分とは違う生き物。それでも、あれより美しいと思うものをエンカクは未だ知らない。どろりと焦げ付くような衝動に突き動かされ、エンカクは自ら口を開いた。
「それは、俺に外見だけはよく似たひ弱な女か?」
「ひ弱……いや、それも間違いでもなかったのかもしれないが……」
苦い顔をしながらも、ドーベルマンはエンカクの問いを迂遠に肯定する。「その女の名はだ」とエンカクが告げると、ドーベルマンはゆっくりと瞬きをした。言葉の真偽を吟味しているようにも、瞼の裏に何かを思い描いているかのようにも見える。暫しの沈黙の後ドーベルマンは「ケルシー医師に取り次ごう」と呟き、くるりと踵を返した。
「ケルシー医師は彼女の師だった」
薄々と、察しのつくことではあった。『幽霊』でも見たかのような顔。過去形で語られる彼女のこと。エンカクを見る者が一様に瞳に浮かべる、かなしみの色。そも、可能性としてはその方がずっと高かったのだ。あの女は、あまりにも弱い。こんな世界で生きるには特に、脆すぎる存在だった。
「……つい先日の戦闘だ。逃げ遅れた者を庇って、命を落とした」
淡々と告げるのは、の師だったという医者だった。ロドスのトップの一人でもあり、ドクターと同じように部隊の指揮権を持つ人間。「私の責任だ」と述べたその口調は、あまりにも乾いていた。遺族に責められることに、慣れているのだろう。それでも、その声色や表情には見かけの冷酷さとは裏腹の情が滲んでいる。この医師がとどんな関係を築いていたか、聞かなくてもわかるようだった。ただ、それはエンカクには関係のない話だ。目の前にある棺を、エンカクはじっと見下ろしていた。
「……遺体を持ち帰れたのは、運が良かったようだな」
「君は……存外冷静だな」
「俺は傭兵だ」
「身内の死には慣れているということか」
「…………」
「慣れない方がいい」
葬儀は既に近しいものだけで行われた後で、火葬は今日の夕方。それだけ言い置いて、ケルシーは霊安室を出て行った。火葬の時間まで、姉弟の最後の時間を思うように過ごせということだ。本当は、あの医師たちがの傍でその時間を過ごすはずだったのだろう。ドーベルマンに案内されこの部屋に足を踏み入れたとき、の手を握り力無く俯いていた少女のような外見のブラッドブルード。今が横たわる棺に花を手向けていたのは、育ちの良さそうなヴァルポの女性と純朴な印象のペッローの少女だ。あの女のコードネームを口にしながら、淡い色の花を捧げていた。誰も彼も目元を赤くして、憔悴しきって。エンカクよりよほど、女の死を純粋に悼んでいた。この時間もきっと、彼女たちに与えられた方が良かったはずだろう。
「惜しまれるくらいには、心を傾けていたようだな?」
皮肉げな声色と、憎々しげな表情。自分たちは、良い姉弟ではなかった。最期に追いつかれたことは、にとっての不幸だろう。それでも、その死に顔はどこまでも穏やかで。そう、死に顔を見られたことも本当に『運が良かった』。詣でる墓さえあることの方が珍しい、こんな世界では。けれど本当に運が良かったなら、エンカクはこの女を捕まえられていたはずだ。たった数日。ほんの数日早ければ、に追いついていたのだ。この女は、エンカクの姉は、終に弟から逃げおおせた。エンカクの指先がその裾を掴む間際に、死という永遠に手を取られて旅立ったのだ。死に顔の、なんと安らかなことか。この女はもう二度と、弟に怯えて泣くことはない。
「つまらない死に方だ」
エンカクの知らないところで、誰かを庇って死んだ。もしかしたらそれは、この女らしいのかもしれない。長い間離れていたから、姉のことは自分よりもロドスの人間の方がよく知っているのだろう。親切で他人の面倒をよく見ている人間だったと、ドーベルマンは言った。優秀で、繊細な感性の弟子だったとケルシーは言う。いつも花や人に囲まれていて、それなのにどうしてか寂しげな空気を纏った人だったと『庭園』の彼女たちは目を伏せていた。どれもこれも、エンカクの知らない姿だ。良ければ紹介すると言われた「の友人」とやらも、エンカクの知る姉とはまるで違うの姿を語るのだろう。そう、姉に友人がいたというのもまるでではない他人の話を聞いているようで。異常に卑屈なあの姉が、友人などという対等な関係を築く相手がいたのかと感心さえしたものだ。誰も彼も、エンカクの知らない「」という人間のことを語る。それはまるで、姉の姿をした知らない人間が視界の隅にちらついているようで。触れることはできず、手を伸ばせば遠ざかる。そう、まさしく幽霊と呼ぶのが相応しい。死んだ姉の影だけが、ロドスの人間を通して見え隠れしていた。
――よろしければ、療養庭園にもお越しになってください。さんの育てていた花が、今日咲きましたから。
花なんか育てていたのかと、妙な感慨を覚えたものだ。確かに、いつも弟に怯えていたあの姉も花を渡してやればそれなりにまともな会話ができていた気がする。可憐な花を見れば、恐怖と緊張に強ばっている顔を和らげて淡い笑みを浮かべていたものだ。慰めなど何も無いあの荒れた土地で、花は唯一姉の心を癒していたのだろう。エンカクとは異なる理由ではあるが、もまた花を愛し慈しんでいたのだ。それでもどこか独りだったというは、きっと本当の意味では誰にも心を開けないまま死んだのだ。曖昧な笑顔を貼り付けて、誰にでも親切にして。自分は恐ろしい魔族などではないから、どうか迫害しないでくれと。本心では他人を恐れているから、信じ合い心を開くことなどできなかったのだ。誰にも踏み込まれることのない心の壁の中で、膝を抱えて世界の全てに怯え続けていた。臆病でちっぽけな姉は誰にも気付かれることはなく、永遠の旅立ちと時を同じくして消え去った。まるで善人のように語られる姉は、その自己犠牲そのものの最期も相俟って「善い人」としてロドスの人々の記憶に残る。たいへん結構なことだろう、あの臆病な姉にとっては。本当の名前さえ教えていないくせに、それでもなお慕われている。それがあの女の望んだ通りの人生なら、きっと満足なのだろう。
「…………」
青ざめて見える白い頬に、指先を添える。顎へと指を滑らせ、指の背で喉を撫で。頸動脈のあるべき場所に触れても、何の脈も感じ取れない。死んでいるのだから、当たり前だ。特に惜しむようなこともなく手を離したエンカクは、ふとその手を自分の胸に当ててみる。ドーベルマンとの会話での存在を感じたときのあの鼓動は、もうどこにもない。一瞬のうちに血管を駆け巡った、衝動と激情。この部屋に入っての姿を目にしたとき、それらが再び湧き上がることはなかった。ひと目見て、明確な死を感じ取ってしまったからなのか。傭兵として過ごした時間が長いエンカクは、あまりにも死を知りすぎている。目の前の人間が生きているのか死んでいるのか、確かめずとも判別できるほどには。こんなに綺麗な死体は血腥い戦場の中にはまず無いだろうと思うくらいには珍しかったが、だからこそ余計に疑う余地もなく「死んでいる」と判ってしまった。先ほど触れたの顔は、丁寧に死化粧が施されている。おそらくは、あの医師たちが。ロドスという企業に余裕があるのか、それほどの待遇を受ける立場にあったのか、個人が好かれていたのか。おそらくは最後だろうと予測をつけ、エンカクは二度と開くことのない瞼を見下ろす。その下の瞳は、自分と同じ炎の色をしていたはずだ。煮えたぎるような激情は、どうやらあの臆病な炎が持って行ってしまったらしい。だから、もう『ここ』には無い。そう思ったとき、何か胸の奥ですとんと落ちるような感覚があった。今この時になってようやく、エンカクと名乗る男は姉の死を実感したのだろう。
その夜、オペレーターエンカクはロドスから姿を消した。死んだ姉の、遺骨を持って。夜半から降り出した雨が、彼の痕跡を全て消し去っていた。エンカクが元から所持していたものを除けば、ロドスから持ち去られたのはの遺骨だけだ。入職した矢先に生き別れていた姉の死を知ったことのショックによる出奔だろうと、一応の結論は出たけれど。「追うな」と事実上の命令を下したケルシーは、愛弟子の遺骨を取り戻そうとは思わないようだった。エンカクと名乗った男が彼女の実弟であることは、各種検査でも裏付けられている。血縁者の手元にある方が良いと、思ったわけではないが。少なくともエンカクなりに思う理由があって訪れたはずのロドスをその日のうちに去るほど、の死は彼にとって何か大きなものだったのだろう。エンカクが持ち去ったのは、遺骨だけだ。彼女が遺した花も、身の回りの品も、彼に気を遣ったオペレーターたちが貸した写真の数々も、全てロドスに置いていった。エンカクに与えられた部屋にはそれらの品が綺麗に整頓された状態で置かれていて、自分の意思でそれらを置いて出て行ったということだけは判ったけれど。それを見たケルシーとワルファリンは、ただ淡々と遺品の整理を行った。一度もが語ることはなかった「弟」が遺骨を持って行ったことについて、それぞれ思うところはあったのだろうが。と家族のように過ごしはしても、本当の意味では家族になれなかったケルシーたちはエンカクとの関係を知らない。ただ、彼はきっと他人が『それ』に触れることを許さないだろう。ロドスは、『』の時間を多く貰い受けた。という女の死だけは、弟が受け取るべきものなのかもしれなかった。
「何となくだけど、」
「…………」
「本当ならオペレーターを殺していたのは、彼だったんじゃないかなって」
「君はもう少し、他人に理解させることを前提に言葉を発するべきだな」
「ねえ、ちょっと私に冷たくない? いつものことか……」
ケルシーの手から返された一枚の写真を眺めながら、ドクターはぼやく。作戦記録の一部から切り出して印刷したその写真に写っているのは、話題に挙げられていた故人だ。ロドスに新しくやってきたオペレーターが、数日前の作戦中に亡くなった「」の弟だと聞いたアーミヤからプリントアウトを依頼されたのだ。ドクターが持っていても仕方のないものだが、故人の写真を粗末に扱うほど人間性が欠落しているわけではない。ドクターが背負う重荷のひとつとして、返されたそれを受け取るべきなのだろう。
「彼女が死んだのは君のせいでもある」
「……そうだろうね」
エンカクと廊下で会ったときのことを思い出す。あの時彼は、奇妙な表情をしてドクターのことを見ていた。あれは、ドクターが姉を間接的に殺した人間だと知っていたからなのか。いや、それにしては時系列がおかしい。彼が姉の死を知ったのは、ドクターとの邂逅よりも後のことなのだから。憶測でものを語るにしても情報があまりに少なく、ドクターはため息を吐いて抽斗に写真を仕舞った。
「なんだか、あまり良くない形で彼に再会しそうな気がするよ」
「それは、君に対する周りの印象だと思うが」
なかなかに辛辣な言葉を残して、ケルシーは執務室を去る。ギッと背もたれを軋ませて椅子に座り直したドクターは、ケルシーが多忙な時間を割いて手ずから死化粧を施していたサルカズの女性オペレーターの顔をふと思い出した。写真で見る笑顔の彼女より、二度と目覚めない死体の彼女の方が――
(綺麗だったかもしれない)
到底口には出せない、馬鹿げた印象。それはきっとエンカクやドクターのような人間に共通の感性なのだと、本人たちが気付くことはない。そしてドクターには、今日も考えるべきことが山積みだった。一人のオペレーターが亡くなったことは、残念ながら彼にとっていつまでも思考を占拠するほどの問題ではない。と呼ばれていたオペレーターの存在は思考の隅に埋もれ、やがて記憶のひとつと化していく。それはきっと、遅かれ早かれ彼女に関わる全ての人間に共通することだ。あの『弟』も、いつかはきっと。
(本当にそうだろうか?)
頭の片隅を、一度だけそんな疑問が過ぎる。けれどドクターが、その囁きに意識を向けることはなかった。エンカクがロドスを去ったその瞬間に、彼はドクターの潜在的な敵ではなくなっている。あの敵意はのこととは無関係だったのかもしれないが、どのみち彼はドクターより姉のことを優先したのだ。敵でも味方でもなくなった者のことを、推し量ろうとするべきではない。写真はそのうち故人に失礼にならない形で処分しようと、ふと思う。ドクターがいつまでも適当な気持ちで彼女の写真を持っていることを、どうしてかエンカクは許さないような気がした。
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