ロドスいう製薬会社に、敵対勢力として以上の興味などなかった。どんな敵がいるのか、好敵手になりうる戦士はいるのか、どのような戦術を使ってくるのか。それさえ知れれば十分で、彼らの信条だのオペレーター個人の人間性だのには関心はなかったのだ。けれどある日、とあるサルカズを見かけたことで状況は変わった。ヴェンデッタと呼ばれる剣士の部隊に配属されていたエンカクは、屠るべき敵対勢力の中に長年探し続けていた姉の姿を見つけたのだ。
「――遅滞戦闘に入る。600秒後に離脱する」
 ロドスの敢闘に、劣勢を強いられていたレユニオン。 隊長級は既に撃破され、如何に損害を減らしつつ撤退するかという状況だった。エンカクに求められるのは殿としての立場で、暫定的に指揮を引き継いだ通信相手はその思惑も知らずあっさりと報告に了解の意を示す。彼はきっと、間に合わせで配属されたヴェンデッタ一人では足止めが精々だと思ってくれているのだろう。最初からエンカクが全開で戦っていたなら、足止めどころか勝敗が変わっていたことも思いもよるまい。エンカクはレユニオンに忠誠心などなかったし、今の状況も彼が全力を出すに値する戦いを用意できなかったレユニオンの責であると思っている。丁度いい機会だと、エンカクは深く被ったフードの下で口角を吊り上げた。見たところ、ロドス側の戦闘員に名だたる戦士らしき者はいない。よく訓練されてはいるが、所詮「数にものを言わせた暴徒の集まり」にぶつけるに相応しい程度の戦力だ。ロドスの指揮官はとても優秀なのだろう。エンカクとて、目的がなければわざわざお遊戯のような戦いに付き合うつもりなどなく撤退していた。本来なら、問題なくロドスの勝利で終わっていたはずだった。
「何人斬れば、ロドスは後詰めの医療オペレーターを出撃させるだろうな?」
 殺すつもりはない。せいぜいが「急いで治療しないと命が危ぶまれる」程度の傷に抑えてやるつもりだ。そんな手加減ができる程度には、彼我の実力差は厳然としている。ロドスは軍隊ではなく製薬会社で、トップのコータスの意向もあり人死をいたく嫌っているようだ。そしてあの女が、今この近くに配備されている中で最も腕の良い医療オペレーターだ。事前に情報を集めていたとはいえ、こうもおあつらえ向きの機会がこんなに早くに巡ってくるとは。早く出てこないと、あれの嫌う血の海は拡大していく一方だ。すらりと刀を抜いたエンカクの顔には、既に笑みはなく。至って真剣な、剣士としての表情が浮かんでいた。

「……うそ」
 目の前の惨状に、待機地点から全力で駆けてきたは愕然と目を見開いた。けれどすぐにそんな場合ではないと自身を叱咤し、「患者」の優先度を素早く判別していく。つい五分前まで、この戦場はロドスが掌握していたのだ。相手はレユニオンとはいえ幹部の指揮下にある部隊でもサルカズの傭兵団でもなく、武器を持っただけの感染者と変わりない。ケルシーたちの分析は決して侮りではなく的確な状況判断で、が予備の戦力として詰めていたのも本当にただの保険だったはずだった。幹部たちとの戦闘に主力部隊を割いているから、ここで戦っていたのはいわば予備隊で。けれど彼らの練度を鑑みれば、それでも充分なはずだった。実際彼らに油断などなく、堅実な戦術の元に勝利を収めた報告を聞いた。けれどそれから二分もしないうちに、救援を求める通信が入って。一人残ったレユニオンの剣士の戦闘力が凄まじく、オペレーターたちが次々に制圧されているのだと。そのただならぬ様子に、救援部隊の編成が即時決定されて。はその先駆けとして、戦線維持及び負傷者の救護のために単独で現場に駆け付けたのだ。そしてやって来たが目にしたのは、信じ難い光景で。
(誰も立っていないなんて、)
 維持する戦線など、どこにもなかった。誰も彼も、大きな刀傷や火傷を負って地面に倒れ伏している。レユニオンに勝利したなど、嘘のような光景だった。目の前に広がる血の海と、助けを求めて呻く声。ここはもはや戦場などではない、ただ一方的に蹂躙された跡地だった。
(どうして……?)
 ひとりひとり応急処置をしていては到底間に合わないと判断し、ヒーリングアーツを展開する。十数人のオペレーターたちを同時に治療しながら、腑に落ちないとは眉を顰めた。これだけの実力差があって、なぜレユニオンは敗北したのか。なぜ、彼らをこんなにも一方的に制圧した剣士とやらは最初からそうしなかったのか。どうして、「誰も死んでいないのか」。
「……ッ、」
 ゾッと、背筋を駆け上がった悪寒。杖に意識を残してアーツを維持したまま、はその場にしゃがみ込む。白衣が血溜まりに浸ったが、気にしている余裕などなかった。仰向けに倒れたオペレーターの、袈裟懸けに斬られた傷に手を伸ばす。この傷を、「はとてもよく知っていた」。
「遅かったじゃないか」
 心臓を貫かれたような、心地がした。背後からアーツユニットである杖を掴まれ、は脳内に鳴り響く警鐘を無視して振り向こうとする。けれどドスッと肩を強く蹴り飛ばされて、上半身から無様に血溜まりに突っ込んだ。それでもアーツユニットを手放さず治療を続ける様子を見て、を踏みつける足の主は愉快そうに笑う。髪も肌も血に濡れて、怯えに震えながらもなお自分を見上げようとしてくる女。杖を取り上げてしまうのはあまりに簡単だったが、興が乗って拮抗を保ってやった。
「ああ、いや……お前は速かったんだろうな。救援部隊は後から来るのか? 単騎で乗り込んでくるとは予想外だった」
「っ、何を……」
「お前は悪くないさ。悪いのはお前だがな」
 謎かけめいた言葉を落として、男は強くの肩を踏みつける。骨が軋んで痛むが、額に流れる冷や汗は痛みのせいではない。はこの男を知っていた。だとするなら、悪いのは本当にだ。がいたから、この惨状は引き起こされてしまったのだ。恐怖と緊張で震える手で、半ば縋るように杖を強く握る。のせいだ、のせいだから、必ず彼らを治さなければ。――弟が、負わせた傷を。
「……?」
「に、げてください、さん……」
 自分でもでもない手が杖を掴んだことに首を傾げたエンカクだったが、我が身を呈してを逃がそうとする第三者の姿を見て面白そうに目を細めた。のアーツで傷が塞がったばかりのそのオペレーターは、必死に杖を掴んでからエンカクを引き剥がそうとしていた。愉快そうな色を浮かべる瞳に嫌なものを感じ「離れて」と叫ぼうとしただったが、それより早くエンカクが足を上げる。肩にかかっていた圧力が消え、は咄嗟にその脚を追いかけるようにしがみついていた。成人女性ひとり分の重石をつけた足は、標的に蹴りを届かせることはなく鈍く宙を切る。代わりにズサッと引き摺られて地面に倒れ込んだは、アーツユニットを取り落としてもなお必死にアーツを保ちながらエンカクの脚にしがみついていた。
「……守るものが多いと苦労するようだな」
 二度も地面に伏して綺麗な顔に擦り傷を負ったに、エンカクはどこか感心するような目を向ける。表情とは裏腹に容赦なくオペレーターの手から杖を奪うと、その杖で首筋を強く打ち据えて気絶させた。元々戦闘用ではなくアーツの媒介のために作られた杖が、バキッと嫌な音を立てて罅割れる。「脆いな」と呟いたエンカクの言葉は、杖のことだけを指しているようではなかった。折れた杖先をの喉元に突きつけて、嗤うように口の端を持ち上げる。
「それで、『姉さん』。感想は?」
「感、想……?」
「何も無いのか? 久しぶりに会えた『弟』にも、お前のせいで死にかけた十二人にも。懐かしいこの光景にも、何も思わないのか?」
 何も、思わないわけがない。ズキズキと痛む肩や頬よりも痛む胸を庇うようにぎゅっと握った手を当てて、は唇を噛み締めた。仲間の部隊が壊滅して、それを為したのは何年も前に自分が捨てて逃げたはずの弟で。昔日に戻ったかのような血溜まりの光景と、弟が自分とはあまりにも違う道を選んだということがわかるレユニオンのマーク。傭兵の装備。Wはサルカズの傭兵とタルラ率いるレユニオンを完璧なまでに引き離していたはずなのに、どうしてカズデルの傭兵と思しき弟がこの部隊に紛れていたのか。けれどそんなことは今は二の次で、数十分前に出撃の挨拶を交わしたはずの仲間たちが倒れていて、(怖くて、)弟の手には刀があって、刃は赤く濡れていて、(怖くて、)きっとこの惨劇は自分が今日この場にいたせいだということが否が応にも理解できてしまって、(怖くて、)自分を庇おうとしてくれた仲間もきっとのせいだと知ればあんなふうには守ってくれないだろうとむしろお前のせいだと怒るに違いないだろうと、
 ――こわくて。
 どくん、と大きく心臓が脈を打った。呆然としていた間に塞き止められていた恐怖が、一気に押し寄せたような。泣き出して、許しを乞うてしまいたい。弟が、目の前にいる。あの怖い弟が。無口で、何を考えているのかわからなくて、いつもを戦地で連れ回して、嫌がっても泣いてもやめてくれなくて怖い思いをさせて、血を浴びせて、ああ視界が真っ赤だ。髪にも頬にも、手にも脚にも腹にもべったりと血がついている。この血は仲間の血で、こんなに真っ赤なのはなどが彼らの仲間だったせいで。が弟から逃げたせいで、今日ここはこんなに赤い血の海で。青い海など見たこともなかったのに、赤いそれを海と喩えることを先に知った。ごめんなさい、ごめんなさい、私のせいでごめんなさい。治すから許して、必ず救うから許して、どうか私を。
「……ぁ、」
 ガタガタと震え出したの口から漏れたのは、たった一音にも満たない小さな掠れ声だった。けれど炎の色をした瞳には狂乱が渦巻き、弟を見上げる姉の目には既にレユニオンの傭兵は映っていない。小さな子どもが叱られるのを恐れるように、は両手でがばりと頭を抱えた。明瞭ではない呟きが漏れ聞こえるが、エンカクはその内容に興味を示さない。正気を失ったように見えるその女が、それでも治癒の術を解かないでいることに愉快そうな、それでいて面白くなさそうな表情を浮かべていた。あるいは、アーツを保つことがに残された唯一の正気の縁だったのだろう。そういえば幼い頃もこうして泣きじゃくる姉をあやしたものだったと、エンカクは姉の前に膝をついてその擦り傷と血で汚れた綺麗な頬に手を伸ばした。この惨状を作り出した張本人とは思えないほどの優しい手付きで、そっとその頬に手を添えて顔を上げさせる。はらはらと花弁の散るように泣いている女の顔をまじまじと眺めて満足気に目を細め――頬に添えた手から、アーツの炎を生み出した。
「いッ、あ゛……!?」
 儚げな美貌が、熱に侵される。の炎と違って本物の熱を持つその炎は、瞬く間に白く柔い頬を焼いた。タンパク質の焦げる嫌な臭いは他の人間と変わりないというのに、エンカクは嫌な顔ひとつ見せず。炎を手に纏わせたまま、つうっと愛撫するように首筋へと指を這わせる。細い首を、大きな男の掌がぐるりと覆った。肌の焼ける音に紛れて、悲鳴にもなれない呻き声がかすかに聞こえる。焼け爛れた頬が引き攣って、痛みに顔を歪めることにさえ新たな痛みが生まれるようで。美しい顔は苦悶に歪み、首を絞められながら焼かれる苦痛でほっそりとした肢体がびくびくと飛び跳ねるように痙攣している。必死の抵抗も痛みの反射で動く体もすべて捩じ伏せて、エンカクは姉の首を絞め続けた。
「 、」
 音にもならない、ただの空気。狭められた気道から絞り出された音が何なのか、誰にもわからなかった。けれどそれを合図にしたように、エンカクはパッとから手を離す。どさっと地面に倒れ込んだ姉を、じっと見分するように見下ろした。緩く癖のついた紺色の髪は首に近い部分が無残に焼け縮れてところどころがちぎれ、焦げた臭いを辺りに充満させている。頬より酷い火傷を負った喉に手をやったが、はくはくと空気を求める魚のように口を動かしていた。驚いたことに(あるいは『当然』のことか)、この状況にあってもなおはアーツを維持していた。エンカクが真っ先に斬った、この隊の医療オペレーターもそろそろ傷が癒えて意識が戻るだろう。の後から来ているであろう救援部隊とやらも、もう到着しておかしくないはずだっだ。
「…………」
 無様に転がる、血まみれで大火傷を負った女。美しく成長していた顔は醜く焼け爛れ、日頃きちんと手入れしていたであろう髪も首の近くを境に焼き切れて。ほっそりとした喉も焼け潰れ、圧されたような呻き声を上げている。それでもエンカクは、思うのだ。姉は美しいと。この世の何よりも、その美しい外見を焼き剥がそうと、やはり自分にとって姉こそが変わりなく一等綺麗に思えるものなのだと。
「『姉さん』、楽しみだな。俺とお前はまたすぐに会うことになる」
 ぜひゅ、と一際大きな喘鳴が漏れる。何か反論でも紡ごうとしたのだろうか、その目に少し戻った正気の部分には反抗的な色が見て取れた。その瞳にはそそられるものがあったが、これ以上ここに留まっていてはさすがに面倒なことになる。本来出撃するはずのなかったつまらない戦いに出たのも、顔を隠していたのも、殿を務めたのも、自分の得物とは異なる刀を持ったのも、今日ここでレユニオンを去るためだ。『エンカク』が今この場にいたことを理解しているのは、だけで。そしては、誰にも語れないだろう。弟が、自分の顔と喉を焼いたということを。はそういう女だ。ここまでされたとしても、それが弟のしたことである限り誰にも話せない。愛でも打算でもなく、自分たち姉弟はそういうものなのだ。
「ロドスでまた会おうじゃないか」
 の目が、大きく見開かれる。姉の前でエンカクと名乗る日は、そう遠くはないだろう。愚かだが馬鹿ではない姉は、エンカクの言葉の意味を正しく読み取って青ざめる。その顔をもう少し眺めていたい気持ちはあったが、慌ただしい足音を聞いてエンカクは踵を返した。あの傷では、エンカクが来る前にロドスを去ろうとしても本艦から出ることは許されまい。ロドスはオペレーターの傷を許さない場所だと、少なくともエンカクはそう判断している。が弟のことについて語れない限り、周りの善意によって逃げ場は塞がれる。精々見舞いの花でも用意しておこうかと、深く被ったフードの下で笑みが浮かんだ。
(きっと『楽しい』再会になるだろう)
 だけが、知っている。自分のせいで斬られた仲間の傷を、独りで抱え込む。部隊を壊滅させた剣士にたった独りで相対するはめになった、不幸な医療オペレーター。そんなふうに憐れみと優しさをもって接せられて、はたして姉は平気でいられるだろうか。誰よりも気の小さい姉が、周りに本当のことを言って責められる覚悟など持てるだろうか? ましてや、弟と対峙してその罪を暴くことなど。姉は、自分を受け入れざるを得ないはずだ。重傷を負った姉のところに、久方ぶりの再会となる弟が訪れる。ロドスの善人たちは、間違いなくエンカクを姉のところへ案内してくれるだろう。他人の目を病的に気にする姉が、善意の道をやって来た弟を拒めるはずがないのだ。その時姉がどんな顔をするのか、エンカクには手に取るようにわかる。せいぜい優しく慰めてやろう、何なら責任を取ってやってもいい。今度はきっと、真っ白な病室で会うことになる。そこには、姉を粧した血のように赤い花が相応しいに違いなかった。
 
210625
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