オペレーター。医療オペレーターの一人にして、「医務室の天使」と名高いサルカズ。サンクタではないどころかサルカズなのに天使とあだ名されるのも皮肉であるが、そのくらい彼女は分け隔てなく慈愛をもって職務を果たしていた。シャイニングといいナイチンゲールといい、サルカズの医師は皆そういうところがあるが。『彼』か心酔しているは彼女たちとも異なる儚さと美しさを持つ唯一の存在だと、少なくとも彼はそう信じていた。彼女の炎は、誰も傷付けない。優しく傷を癒し、病や毒を祓い、暖かく心の奥まで照らしてくれる。何も事情を聞かず、患者のありのままを受け入れて微笑み治癒してくれるを、彼は心底崇拝していた。彼は戦闘員のいちオペレーターだ。目立った戦果もなく訓練でずば抜けた戦績を残すこともなく、戦場では後方支援といえば聞こえはいいがほとんど荷物持ちのようなことばかりしている。そんな彼が、たかが荷物の持ち運びによってできた肉刺を他人に尊んでもらえるなど、誰が予想できただろうか。戦いの傷ですらない小さな水膨れのできた手を、あの優しい人はこの世で一等大切なものを手に取るように包み込んで。あの美しく暖かい炎で、瞬く間に癒してくれた。汗と泥で汚れた彼の手を、厭うこともなく。そうして彼が礼をいう間もなく、彼女は去っていった。きっと優しい彼女にとっては、何でもないようなことだったのだろう。取るに足らない、当たり前の行動。けれどあの日灯った小さな火が、彼の心に信仰の火を宿らせた。魔族の血が流れる麗人を、彼は尊崇してしまったのだ。
「……大丈夫ですか?」
「はっ、いえ、大丈夫です!」
 その日も彼は、医務室に訪れていた。死に物狂いで訓練に励むようになった彼は、前線で戦うこともできるようになって。そして成長に比例するように、傷を負う機会も増えていった。そのたび、彼はの元を訪れている。今日も天使は麗しく、その炎のような瞳は慈愛に満ちていて、わずかに寄せられた柳眉からは患者への心配が見て取れた。春風のように心地よい声が彼を案じ、飛び上がるように居住まいを正す。医務室を訪れても当然彼女が毎回いるわけではなかったが、それでも回数が増えた分会う機会も多くなる。優しく美しい彼女は、いつも静かに彼を待っていてくれた。白衣の上にさらりと夜のような黒髪が流れて、頬に熱が集まる。ぼうっとしていた様子を怪我のせいだと思ったのだろう、いつにも増してその声は気遣わしげだった。
「傷が深いのですか? 疲労が溜まっているようにも見えます」
「あ……」
 具合を確かめるように、白く細い指がそっと包帯に触れる。慈しみに溢れた指先が、少しも患部を痛めないようにゆっくりと包帯を解いた。いつも不格好に包帯を巻き付けるのは、に巻き直してもらうことを期待してのことだと言えるはずがない。剣先に抉られた傷を見て、の眉が顰められる。それでも正しく処置をされた傷を見ると、少し安堵したような様子を見せて丁寧に包帯を巻き直してくれた。
「深くはないようですね、薬も塗られています。替えの包帯と薬を出しますから、清潔にして、安静にしていてください」
「はい、ありがとうございます」
 天使様、と口を滑らせてかけて慌てて彼は口を噤んだ。これで診察が終わりなのは名残惜しいが、無為に彼女の時間を奪うわけにはいかない。彼は敬虔な信徒だった。ただ少し、許された時間の中で彼女の視界に映り声をかけられることが彼のささやかな幸福だ。欲深くなってはいけない。彼女は穢れのない天使なのだから。そう、思っていた。

 ギリ、と彼は唇を噛み締める。目の前には、サルカズの傭兵だとかいう大男。聞くところによるとの実弟らしいが、天使と血を分けた者がこのように悪魔然とした悪辣な男であるはずがない。髪や瞳の色はよく似ていたが、華奢で線の細いとは男女の差を差し引いても何もかもが違っていた。何よりその瞳は、色を除けば何一つと重ならない。慈しみも優しさも無縁の、ただ己ばかりを信じて何もかもを喰らい尽くす悪鬼のごとき眼差し。こんなものが、あの天使と同じ血肉でできているとは考えたくもなかった。そも、に血縁などいるわけがない。天使が、人の胎などから羊水まみれで産まれてくるものか。その考えに至って、彼は少しだけ安心した。きっとこの『弟』とやらは、彼女の不要なパーツで神様が作った付属品に過ぎないのだろう。そうに違いない。取るに足らない、彼女のおまけだ。それでも、このエンカクとかいう傭兵の存在は彼にとって許し難いものだった。『弟』が現れてから、は時折血や硝煙の匂いを漂わせるようになった。『弟』と同じ、戦場の匂い。それに、まるで人間のように困ったり狼狽えたりするようになって。穴ひとつない綺麗な耳朶だったのに、気付いた時には『弟』と揃いのピアスを嵌められていた。全部、この『弟』のせいだ。この悪魔が、彼の崇拝する天使を穢したのだ。の首筋に見えた、赤い痕。あれを目にした時の彼の怒りは、感情だけで人が殺せるならこの『弟』を百度八つ裂きにしても足りないほどだった。誓って、彼はに劣情を抱いたことなどない。そんな気持ちの悪い卑俗な感情を、彼女に対して抱いたことなどない。は天使だ。彼の救い主だ。性器など存在しないし、食事や排泄だってするわけがない。この世に間違って降りてきた、慈愛の具現化のような存在なのだから。それなのに、それなのに、全てを『弟』が台無しにしたのだ。あの清らかな天使を、人に貶めた。『弟』がを食堂に担ぎ込んで食事を取らせた時など、まさに悪魔の所業に思えた。人間の食事など、口にできない人なのに。聖者を貶める異端審問官のようにすら、彼の目には映った。あまつさえ、彼女に『女』を見出して性行為を強要するなど。は彼の天使だ。そのような、気持ちの悪い存在ではないのに。彼女は悪魔から解放されるべきだ。皆の天使に、戻るべきだ。こんな『弟』の、『姉』などではなく。
「――言いたいことはそれで全部か?」
 退屈しきった顔で、エンカクは男にただ一言返した。は元より人間だとかサルカズだとか、くだらない反論すらしない。ピアスを開けさせたのも性行為を強要したのも事実だが、この三下のような男に糾弾される謂れもない。ましてや、あの女が天使などと。あまりに馬鹿げていて、笑うことすらできなかった。
「大したものだな、あの女は。ここまで思い込ませられるのも一つの才能かもしれん」
 名も知らぬオペレーターの独白は、エンカクの興味を微塵も惹かなかった。前線に出る戦闘員だというが、少しも強者の匂いはしない。好き勝手言われても、手を上げる気にもならない。取るに足らない、凡俗以下の端役だった。
「ひとつだけ忠告してやろう。あれが『天使』だとしても、貴様の信じているような有難い代物ではない」
 それだけ言い捨てて、エンカクは男に背を向ける。怒りに震える彼は、その背を追うことはしなかった。彼女を解き放つには自分が強者になるしかないのだと、そう彼は信じてしまっていた。

「死を振り撒くのは、一体どういう気分なんだ?」
「……?」
 喪服に着替える姉を眺めながら、エンカクはふと思い出したことがあって口を開いた。振り向いたは、訝しむ様子を隠すこともなく眉を顰める。死を振り撒くという言葉は、死闘を望んで刀を振るうエンカクにこそ相応しいものだろうという疑問がありありとその顔に浮かんでいた。
「今日の葬式は、お前の患者なんだろう?」
「医務室によく来ていた人だから……」
 暗に自分だけが特別に診ていた患者というわけではないと言うの表情は、いつもと変わらない。いつも通り、「人が死んで悲しい」という表情だ。そこに、文字通り死ぬほど彼女を崇拝していた彼への特別な感情などひと匙ほども見受けられない。まったくもって、哀れな殉教者だった。
「……あなたはいつも楽しそう」
 人が死んだというのに、とでも言いたげなの目は咎めるような色を浮かべていた。心外ではあったがそれこそ愉快で、エンカクは思わず笑い声を上げてしまう。呆れたような姉の目も、ただ可笑しいだけだった。自分があの男を死に誘ったことも知らず、エンカクを責めるような言葉さえ口にして。
「あの男は、最期にお前を呼んだんだろうさ」
「知り合いなの?」
「……ふ、」
 どこまでも他人事な物言いに、笑いが収まらない。エンカクに『抗議』を行ったあの日から、輪をかけて無茶な戦闘を行うようになったことをこの女は知っているのだろうか。きっと、興味すらないのだろう。あの男は命まで賭けて信仰を証明しようとしていたのに、本当に憐れなことだった。
「あの人、医務室に来る回数が増えていたの。まるで、望んで傷を負うみたいに」
「そうか」
「亡くなった時も、自分から受け入れたみたいに……笑ってたって、」
 きっと男は、最期に天使の微笑みを見たのだろう。いくら足掻こうが最初から誰のことも見ていない、残酷な御使いの微笑みを。天使の一瞥が欲しくて、自ら傷を欲しがるように戦っていた愚かな人間。彼がそうまでしても、この女は名前すら覚えていないだろう。
「お前は本当にサルカズだ」
 天使などであるはずがない。ただ美しく優しい、勝手に愛されるだけの悪魔だ。目を眩ませ、道を踏み外させ、滑落した姿を見て哀れみの一瞥を向ける。天使などよりも、よほど死神という呼び名の方が相応しい。
「……あなたのきょうだいだもの」
 自分がサルカズであることなど当たり前だと、自嘲するようには俯く。おぞましいほどに、喪服の似合う女だ。白い翼など似合わないのに何をもって天使と呼んだのか、エンカクには理解できない。きっとあの男は天使しか美しいものを知らなかったのだろうと、直視してはならない魔物がいることを知らなかった彼を憐れんだのだった。
 
220419
スペシャルサンクス五反田さん
BACK