「……というわけで、手違いだ」
「誰だこの女は」
 にこにこと、その美しい顔に浮かべられるにはどこか幼い笑み。ひらひらとした仙女のような装いより清楚ながら華やかな化粧より、その笑みが怖気がするほど受け付けられずエンカクは反射的に刀の柄に手を伸ばしていた。これは『違う』とわかっているのに、一方で『同じ』だとわかってしまう。その気持ち悪さに鳥肌が立ち、理性が押し留めていなければ目の前の『それ』を斬り捨ててしまいそうだった。
「君の姉の『あり得た可能性』だとでも言うべきか、しかし我々は君に齟齬なく説明するだけの材料を持ち得ていない」
「そんな大層なものじゃないわ。私が視て、描いてしまったものよ」
「…………」
「待ってエンカク、帰ろうとしないで」
「……エンカク?」
 気味の悪い存在を連れて来たケルシーと、画家の女。その説明にもならない説明に背を向けようとしたエンカクを、ドクターが必死に引き留めようとする。彼の口にした呼称に首を傾げた女の声は、ゾッとするほど「」だった。怖気のままに振り向いたエンカクの視界には、きょとんと目を瞬く女。怯えもなく、まっすぐに自分を見つめてくるその無邪気な瞳も、あどけない表情もあの臆病で卑屈な女ではない。それなのに、どうしてか目の前の存在にひどく不快感を覚えた。エンカクの背中にしがみついて引き留めるドクターが振り向いて、彼女の疑問に応えるように頷く。
「うん、エンカクだよ。君の弟の――」
「ちがうわ。その子は私の弟の、」
 ××、と女の口が動こうとする。その口が最初の一音を紡ぐ前に、エンカクは女の首を落とそうと刀を抜いていた。

 その後、ケルシーやシー、駆け付けたオペレーターたちによって取り押さえられたエンカクは、ドクターから事のあらましを説明された。いわく、シーの描いている絵にが誤って『入って』しまったのだと。咄嗟に追いかけたマトイマルが連れ戻してきたのが、今『こちら』にいる『』だ。けれど紛らわしいことにそれはシーがとある夢の光景を描き留めた虚像ので、本物のは未だ画の中で迷子になっているという。慣れていると言ったウユウとニェン、それから友人代表としてメテオリーテが捜索に行ったが、彼らはまだ戻ってきていない。それを聞いたエンカクも姉を追うつもりだったが、ドクターたちに引き留められ。紛い物の面倒を頼み込まれ、エンカクは完全に辟易としていた。
「放っておけばいいだろう」
「それはちょっと危なくて」
「なら殺せばいい」
「シーが言うには本人と薄い繋がりがあるから、捜索が行き詰ったら活用したいんだってさ」
「なら監禁でもしておけ」
「いや、可哀想だから……」
 お前も随分と丸くなったものだな、と憐れむような蔑むような視線を向けられてドクターは肩を落とす。の姿をしているだけあって、画のもひどく美しい。そして、白痴じみた無垢で無邪気な振る舞い。いくら人の姿をした何かだからといって放っておけば、口にするにもおぞましい目に遭うかもしれない。かといってこんなにか弱く可憐なを閉じ込めるなど、実行する方の精神が磨り減ってしまう。とはいえ本物のの安否が確認できない以上、簡単に消してしまえないのも事実で。画のは不思議なほどエンカクに懐いているから、エンカクに保護者役が回ってきたというわけだ。もっともエンカクの方は、自身でも訝しむほど画のを拒絶しているが。の捜索に必要な以上先ほどのように殺そうとはしないだろう、とある種冷酷な判断でドクターはエンカクに画のを押し付けた。
「なぜお前が面倒を見ない」
「うーん、危ないから……?」
「お前が相手で危険などあるのか?」
「いや、私が」
「何?」
「私が危ない。それに、他のオペレーターでも危ない」
 そういえば、画のを連れ帰ったはずのマトイマルは怪我をしたとかで医療部に行ったらしい。ケルシーもドクターもシーも、画のと接触していただろうか。ふと視線で追った先、の触れた実験用のオリジムシが一瞬で灰と化した。
「は、」
「危ないんだよねぇ」
 放っておけば、その美しさにつられた不埒な輩が口に出すのもおぞましい目に遭うかもしれない。例えば、生きながらに燃えて灰になったりとか。その腕を掴んだ掌が、痛みに気付くこともなく焼け爛れて皮膚が剥がれたりだとか。マトイマルは野生の勘か、怪我が酷くなる前に触れた手を離せたようだけれど。
「それ以前のことに気付くべきだろう」
「起きちゃったことは仕方ないよ」
「これを始末して俺が探しに行けばいい」
「画のなしに、見つかる確証がないんだよ」
「死人が出るぞ」
「出ないように、君が守ってあげて」
「何?」
「閉じ込めるのが可哀想だっていうのは本当だよ。万が一壁や床を溶解させられたら困るけど、見張り役をつけるにもその人が可哀想だ」
 ドクターが立ち上がり、エンカクはハッとしたように腰を浮かしかけて座り直す。あえて主語を省かれていたのだと、今更気付いた自身に募る苛立ちがあるのだろう。
「けど、閉じ込めろって君が言うから。頼んだよ、エンカク」
「……貴様、覚えていろ」
が帰ってきたら、一緒に休暇を取らせるよ」
 ひらひらと手を振って、ドクターは部屋を出て行く。かえって不便だと思ったのだろう、鍵をかけられる音はしなかった。
「お話は終わった?」
「他人事だな」
「機嫌が悪いの?」
「……話が通じないのは同じだな」
 口数が多い分こっちの方が面倒だと、裾の重そうな服をひらひらとはためかせて動き回るにエンカクは視線を向ける。殺風景で無機質な部屋の何が面白いのか、物珍しげにうろうろとするはまるで血の通った生き物のようにそこにいる。だいたいどうして墨と紙の化け物が炎を宿せているのだと、かの姉妹たちの人外ぶりに呆れるほどだ。とんでもない女の集まるこの艦は、ある意味に丁度いい場所なのかもしれない。そんな馬鹿げたことを真面目に考えてしまうあたり、少なからず神経がやられているのだろう。何しろ、であってではないこの女が近くにいるだけで、ぞわぞわと不快感が収まらないのだ。そこにあってはいけないものを、無理矢理直視しているような嫌悪感。エンカクは死闘にこそ臨む戦士ではあるが、恐れを忘れた蛮勇を振りかざしているわけではない。恐れを、危ういものを知っているからこそより深く殺し合いに没頭できるのだ。その鋭い感覚が、目の前の女に潜む何かに対して警鐘を鳴らす。作り物だからではない、そこに確かにある何かに感じる気持ち悪さ。刀から敢えて手を離し、エンカクは気味の悪い存在を直視する。執拗に付き纏う違和感を解消して、掴みどころのない不快感を軽減したかった。
「…………お前、」
 ふと、気付いてしまった。見た目からはわからない。ロドスにある先進機器を駆使したとて、データとして観測できはしないだろう。エンカクに『それ』がわかった理由は、ただひとつだ。
「俺を『食った』な」
 無機質な壁をじっと眺めていたが、ふわりと舞うように振り向く。エンカクをまっすぐに見据えたその双眸には、慈愛にも似た優しさが映っていた。にこりと、おぞましい言葉など聞いていなかったかのように純粋に笑う。
「その身体、灰だろう」
 紙と墨の化け物が、どうして炎を宿せているのか。その考えは逆で、炎が紙と墨を焼いて棲みついたのだ。描かれただけの虚像でも、模型でもない。あの画家が夢で捉えた炎、その深淵を覗いた瞳を通して、化け物が渡ってきてしまったのだ。この「」は、本当の怪物だ。あり得た可能性、などとお優しい言葉をケルシーは使ったが。実際、未来も過去も何もかも焼き尽くしてしまったこの怪物は可能性の成れの果てだ。最悪のひとつに行き着いた、焼き付いた最後の残滓。これはもう、創造主だったはずのシーの手すら離れている。姿を象った絵はとうに内から焼け落ちて、最悪の稀人が灰の中に巣食っていた。
「××」
 躊躇いなく、「姉」は「弟」の名を呼ぶ。その声は、腹立たしいほどよく耳に馴染んだ。
「また、私をころしたい?」
 白い腕が、するりと伸びてくる。すべてを白灰に還すはずの腕が不思議なほど恐ろしくなく、それどころかすべてをこの腕が赦すような、そんな気さえしたのだった。
 
220211
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