ぼとり、とそれは呆気ないほど簡単に床に落ちた。灰となりさらさらと散っていく白い腕を見て、エンカクは眉を顰める。大体察せてはいたが、やはりこの姉はもう人間としての形を成していない。伸ばされた姉の細い腕を斬り落として思うのは、そんなことだ。肉も臓物もない、灰が集まって形成された体。血の代わりに器を巡っているのは、おぞましいまでに美しい炎だ。痛覚もないのだろう、腕を落とされたというのには珍しいものを見るように床の上の灰を眺めていた。ひゅっと灰から燃え上がった炎が、白い断面を通じて体内に還る。まるで骨のように芯を象った炎は、すぐに膨れ上がった灰を纏って元の腕の形に戻った。
「はしたないわ、××」
子供を窘めるように、は柔らかい笑みを見せる。大人ぶった口調とは裏腹に、おもちゃに手を伸ばす幼子のように刃を掴む。鋼を溶かされるかと身構えたが、はその手から血の代わりに灰をこぼしながらぺたぺたと刀に触れるばかりだった。きっとドクターは、気付いていたはずだ。には鉄でできた壁や床などどうにもできないと。炎である彼女が喰らえるのは、基本的に生き物だけだ。を追える手がかりであるはずのこのが温存されているのは、画の世界の中の生き物を無闇に食わせないためだろう。シーの「自在」が生き物か、ここにいる研究者たちはまず定義から論じるのであろうが。が食ったのだから、それは生き物だ。エンカクには、それさえ認識できれば十分だった。
(鉄を焼き切ることを、本気で危惧したわけではあるまい)
たとえば。にほんの少しの幸運があって、扉の前を誰かが通りがかったならば。「閉じ込められてしまったの。たすけて」とあの哀憐を誘う声で扉の向こうの誰かに囁くのだろう。そして囁かれた誰かは、抗えまい。弱くて可哀想な生き物を、助けてやりたくなるだろう。これはそういう魔物なのだ。偽りなく弱く、企みなどなく純粋で、だからこそ読むべき裏もなくただ哀れな姿を晒す。そうしてその誰かは扉を開けて、最悪の生き物は世に解き放たれてしまう。たとえ誰も訪れないような場所に隔離したとて、何ヶ月、何年、何十年閉じ込められたとては待てるのだ。伸ばした手を憐れんでくれる誰かが、扉の前を通るその日まで。老いも飢えもしないこの怪物は、待つことができてしまう。そうしていつかは、世に戻ってくる。絵の世界に渡り、ある意味では檻のような世界で時を過ごし、それでも必然の手を借りてこの女は扉を超えた。そういう意味では、ドクターの判断は正しい。外から鍵を開けさせてしまう魔物を、鍵で閉じ込めたところで無意味だ。生半可な者を見張りに立てても、この女の餌を増やすだけ。弱く美しい彼女を哀れまないエンカクだけが、人の心を煮溶かす怪物を一所に留めておけるのだろう。本当に、あのドクターは人をいいように使ってくれる。
「誰がお前をそうした」
「?」
「誰が、お前をそんな生き物にした」
容姿ばかりは今迷子になっている間抜けと寸分違わない、化け物。不快感は少しも収まっていなかったが、それでも問わずにはいられなかった。それは憐憫でも、悲しみでもない。エンカクの知る姉は、呆れるほど臆病だ。自覚もなしに化け物に片足を突っ込んでいる節はあるが、それでも本人は人間でいたがる。卑屈で怖がりな姉には、決して越えられないはずの一線。ならばその線を越えさせたのもまた、「誰か」なのだろう。唐突なエンカクの問いかけにゆっくりと瞬きしたが、その珊瑚のような色をした唇を開く。
「たくさん」
「何?」
「たくさんの、サルカズと……たくさんの、サルカズじゃない人と……数え切れないくらい、いっぱいの手が伸びてきて……だから、たくさん」
「…………」
このの言葉は、異様に拙い。けれど、どうしてかこの女の見た地獄が、瞼の裏にチラついた気がした。人々の手に捕えられ、貪られ、自我を壊され、彼らの望む力だけを引きずり出されて。なけなしの人間性も削ぎ落とされ、残ったのは炎だけ。けれど摂理のままに消えていくことすら叶わず、道具であるための器に縛り付けられて。悲しくて辛くて苦しくて、気付いたら全てを喰らっていた。そうしてこの女は、怪物に成ったのだ。その身は、のアーツとサルカズの巫術の混ざり物のように感じる。その肌には源石結晶のひとつも見受けられないが、確実に源石も焼き呑まれて灰の一部と化しているだろう。精神感応系のアーツなど有していないはずのがこうして記憶や感覚を断片的であれエンカクに共有できたのは、こちらのより遥かに多くの源石に侵された体だからに違いない。アーツが具象化した炎がこのの本体だとすれば、むしろ灰のほとんどは源石であると考える方が自然だ。この怪物が「作られた」用途を思えば、尚更。なるほど真っ先に、オリジムシを食らったわけだ。は今、さぞかし「空腹」だろう。
「また俺を『食おう』としたな、『姉さん』」
「だって、食べていいって言ったもの……」
「それは『俺』じゃない」
「あなたも××でしょう?」
「俺はエンカクだ。俺はお前の『弟』ではない」
先ほど伸ばされた手は、慈しみでもなく親しみでもなく捕食に過ぎなかった。まったく、とんでもない『弱者』である。弟のことなど、源石を多く含む餌にしか見えていないのだ。もっともエンカクがこの化け物の『弟』ではないと主張するように、この化け物にとっての『弟』はその腹の中の源石の燃えカスだけだろうが。
「私が勝ったら、食べていいって……」
「命を賭けて戦ったのか? お前が?」
「賭けてないわ、賭けられないから」
「なるほどな。『俺』は成立しない賭けを持ちかけたというわけか」
「首が欲しいって。でも私が勝ったから、あげられなかったの」
「…………」
「怒ってる?」
「呆れているだけだ」
命など、賭けられるわけがない。何しろこの女はただ『』の残り火に過ぎない。いくらエンカクが優れた戦士であっても、灰と炎の怪物の首など狙った時点で敗北は決まっていた。きっと知らなかったのだろう。だが、それが何だというのか。この『姉』の『弟』はただ刃で灰を撫で、首を落とされてなお微笑む女に抱き締められて『喰われた』。映像を巻き戻すように再生した頭部、陶器のように滑らかな肌、辰砂を筆ではいたような赤い唇。口付けを受けたと知覚した刹那、骨の髄から溶けるように全身が内側から燃えた。それで、最期だ。
「そちらの俺は随分愚かだったらしい」
「でも、優しかった」
「優しい?」
「殺しに来てくれたの。可哀想だから」
あちらのも、幼少期に弟から逃げ出した。もっとも、ブラッドブルードの医者やロドスに出会うことはなく怪物に成り果てたようだが。姉の姿をした、姉であり姉ではない何か。長年の別離を経て再会した『それ』に、弟は躊躇いなく鋒を向けたのだ。憐れだと。そのまま存在し続けることが忍びないと。あちらの『弟』が間違えたのは、殺し方だけだ。この女がどういう化け物か知っていれば、死に膝をつくことなく姉を弔ってやれていたのだろう。だが、悔しさや怒りなど感じない。ましてや、この化け物に敗北した自分がいるという事実に復讐心など湧いてこない。向こうの自分は、勝てなかったから死んだ。ただ、それだけだった。
「やさしい子。わらってた」
「死んだ時の話か?」
「うん。『ここ』を刺して、私を燃やそうとしたの」
全身を焼かれながら、それでももう一方の刀を姉の胸に突き立てた。無論、二度も無駄な攻撃をしたわけではない。刀を起点に、最期のアーツを燃やして。姉の炎を、既に灰の体を、自らの炎で制そうとしたのだ。炎と炎が喰らい合う、姉弟の最初で最後の闘争。けれど、人の身でしかなかった男の炎は体が燃え尽きると同時に呑まれた。そうして女は源石に侵されていた弟を喰らって満腹になり、独りぼっちの廃墟に残された。
「俺はお前の『弟』ではない」
「そう、あなたは『エンカク』だものね」
「お前と『弟』の賭けは俺に関係のないことだ」
そう言うと、あっさりとはにこやかなまま頷いた。もう、『食べていい』わけではないことを理解したらしい。こういう妙な従順さが、別人とはわかっていても姉に重なって嫌気がさした。鉱石病を治すための道具としてから削ぎ出された炎は、のような姿での人格を残してここで笑っている。気持ち悪いのだ、この女は。ある意味では、エンカクの望んだものに最も近しい形であるのに。黴臭く汚らしい巫術が混ざっているせいか、ひとつに還った後も燃え尽きることなく存在し続けているからか。理由はわからないが、その正体を知ってなお忌まわしい。この女は、道具として失敗作だ。源石だけを喰らうことができず、源石を宿す生き物をまるごと喰らってしまうのだから。鉱石病を癒す道具として自分を作った者たちも皆燃やし尽くしてしまい、もはや存在意義すら焼き消えて残ってはいない。果てには自分を唯一殺せたであろう弟も腹に収めて、この女は終わったあとの世界にどうやって存在し続けていくのか。その答えが出なかったから、これはここにいるのだろう。
「お前は水に放り込んだら死ぬのか?」
「試したことがないから、わからないわ」
きっと向こうの自分は、この女を抱えて水底に沈んでやるべきだった。誰の手も届かない深みへ二人きり、静謐に沈んで消えるべきだった。けれどそれは『エンカク』の成すべきことではない。エンカクが殺してやるべき女は、間抜けにも絵の世界に迷い込んだあのだけだ。本来の対が殺し損ねた以上、この怪物を殺してやれる者はもうどこにもいない。或いはどこかに、姉を喪ってなおひとつに還れなかった自分もいるのかもしれないが。少なくとも、それはここにいるエンカクではない。この美しい魔物を殺してやれるのは、自分ではないのだ。
「言っておくが、オリジムシと『俺』を混ぜるな」
「石以外、呑み込んでないわ?」
「…………」
「でも、あなたは残ってる……あなただけ、呑んでしまったの」
「……そうか」
「なぜなのかしら……?」
「知らんな」
単純に、血縁者の体を自分の一部として認識したのだろうとは思うが。それでもそんなふうに首を傾げられると、特別な理由を求めたくなる。馬鹿げた考えだとわかっていても、まるでそれは『弟』だから目にも映らない塵として捨てることなく腹の中に抱え込んだように思えてしまう。もはや臓器もない姉の体の中で揺蕩う、命の残滓。命を宿すことはないその胎内で赤子のように揺られる想像が過ぎり、酷い吐き気を覚えたのだった。
220321