恋しいくらいに綺麗な人で、空っぽなくらいに優しい人でした。
ゆらゆらと頼りなく風に揺れるたおやかな姿は、散る間際の花のようでも、吹き消される瞬間の炎のようでもあり。曖昧に笑うその表情が無関心だからこそ美しいのだと知っていて、愛しさを募らせずにはいられなかった。「この剣に誓って守ろう」などと、夢見がちに驕った庇護欲まで抱いてしまった。今思えば、シャイニングはの騎士になりたかったのかもしれない。もっともその稚い誓いは、自ら裏切ったのだけれど。
『いってきます、シャイニング』
振り返らずに、は行ってしまった。シャイニングの剣は、抜かれることさえなかった。を「迎えに」来たのはシャイニングが剣を向けることすら許される相手ではない。それでもシャイニングはあの時独り震えるの腕を掴もうともしなかったことを、永劫に後悔することになる。間違ってあげられたらよかった。たったひとり、恋しい人を行かせるくらいなら彼女のために間違えばよかった。きっとそれが愛なのだ。正しくあることを選んだ自分は、彼女を愛しているとのたまう資格さえない。からの愛を得られることなどないと、最初からわかっていたとしてもだ。
がどんなに惨い道を辿るのか、あの時シャイニングにはわかっていたはずだ。何に使われるのかは知らずとも、ろくでもないことくらいはあの場にいた誰にだって理解できた。同じくらい、抵抗など無意味であることもわかっていた。を迎えに彼らが現れた時点でもうそれは避けようのない次善の結末で、そこからどう足掻こうと最悪への塗り替えにしかならないと。が奪われるまでに死ぬ人数の違いでしかない。それでもシャイニングは足掻いたってよかった。背負うものが、自分一人の命だけだったなら。使徒の皆、治療を必要として集まった人々、弱き者たち。それらの命が自分のせいで失われるのが怖くて、誰も死なないうちには自ら最悪の中の最良を選んだ。シャイニングのことを、一瞥もしなかった。誰にも期待しない人だから、シャイニングに助けを求めることすら考えもつかなかったのだろう。
世界にたったふたり、彼女と私だけならよかった。そうしたら、あの薄情なまでに優しい人の手を掴んであげられた。我儘な子どものように、いかないでと泣き叫べた。忠義に酔う敗将のように、自己満足のためだけに命散らして戦うことを選べた。「世界に、私としかいなかったなら」。
後にシャイニングは、遠きロンディニウムの地で愛した人の残り火と再会する。無辜の女をばらばらに切り刻んでぐちゃぐちゃにすり潰して、吐き気のするような術や冷たい無機物を混ぜ込んで産み出された悲劇の怪物。あるいは都市ひとつを焼き呑んでなお満たされない、おぞましい化け物。王庭は真性の怪物の巣窟だ。科学と巫術によって生み出し損ねた失敗作の燃え滓ごときに脅かされはしない。それでも敵味方も思惑も企みも一緒くたに喰らってしまった悪食の炎に、端女程度の使い道は見出したらしい。その役割は、残飯を漁る野犬より浅ましいものだったけれど。
二度と見えぬと――もしくは、二度と見えぬ方が幸せかもしれないと――思っていた彼女は、卑しい掃除婦として都市の残骸に置き去りにされていた。廃棄物として打ち捨てられたとは思えないほど儚く、淡く、清らかで。ゆらゆらと陽炎のように掴みどころがなく、木漏れ日のように穏やかに、そして悲しみのように激しく、燃え盛っていた。
一夜にしてロンディニウムを灰燼に沈めた炎。かつての大都市へと足を踏み入れたシャイニングが見たのは、灰とも黒ともつかない色が混ざり合って溶け合って、冷え切って固まった不毛の廃墟だった。栄誉も汚辱も富貴も貧賤も、すべて炎が喰らってしまった。化け物の腹へと焼け落ちるそのとき、ここは確かに地獄だったのだろう。シャイニングは今まで、地獄と形容するに相応しい光景を幾度となく目にしてきた。これからも、数え切れないほどの地獄を見るのだろう。けれどだったかいぶつが泣いた後の地獄は――こんな寂しい地獄は、後にも先にもここだけだろうと、思ったのだ。
「シャイニング」「おかえりなさい」
せせらぎのような優しい声を耳にしたその瞬間、シャイニングはその場に崩れ落ちて嘔吐した。がおぞましかったからではない。を綺麗だと思ったからだ。罪のある者より遥かに多くの罪なき者を喰らって、醜く肥え太っていたならここまでおぞましくはなかっただろう。
あの日別れたその瞬間から一秒も時を経ていないような、手を伸ばすことさえしなかったあの瞬間の続きをさせられているような。あまりに恥ずかしくて、惨めで、悔しくて、悲しくて――そして、まったく変わらず恋しかった。今すぐ駆け寄って抱きしめて、頬に触れて、(そうしたならば彼女はシャイニングを抱きしめてくれるだろう。今度こそふたりきり、混ざり合って溶け合って、シャイニングはの腕の中、沈むように眠れるのだろう)そんなふうにしたかった。してしまいたかった。恥知らずにも彼女に救われる夢想を抱いた自身があまりにも醜悪に思えて、吐き出してしまったのだ。はただシャイニングを見下ろしていた。蔑むことも憐れむこともなく、常のやさしい微笑みをたたえて静かに、シャイニングを見ていた。
「――ううん、食べないわ」「だって今は、お腹いっぱいだもの」「嬉しいの? そう」
気付けば、の傍には大きな「かげ」がいた。獣のように、猛禽の鳥のように、しなやかな動きで彼女に寄り添う影。従者のようでも愛玩動物のようでもある「それ」は、が撫でるように触れると低い声で唸った。轟々と炎の燃えるような恐ろしい音で鳴くのに、不思議と怖くはなく。猫が喉を鳴らすような声にさえ、シャイニングには感じられたのだった。
「それは……」
「××……ううん、××だった子。××は、私が食べてしまったもの」
××、という名に聞き覚えはなかったが、威嚇をするように大きく口を開けた影の、牙(のようなもの)は見覚えのある刀に似ていた。かつてシャイニングを好敵手と目していた、サルカズの刀術師の愛刀だった。使徒をロドスに組み込んだ後に、シャイニングに失望した彼に出会ったことを思い出す。シャイニングが自らの剣を信じられなくなったこと、望んだものを抵抗もせず手放したこと。ロドスで出会った彼はシャイニングに欠片の興味も抱かず、今頃まともな人の姿で生きているかも疑わしい姉を探し続けていた。無様な姿で生かされているのなら殺してやるのが情だと、そんなふうに言っていたかもしれない。
ああ、とシャイニングは気付く。が連れて行くのは、自らを殺しに来た弟なのだ。シャイニングはもう、彼女の腹を満たす餌にすらなれない。いつだって、シャイニングは躊躇うから間に合わないのだ。を守ることも殺すことも、のために死ぬこともできずに置いていかれる。それがきっとを愛し、そして愛のために間違うことのできなかった報いなのだろう。
「シャイニング」「泣いているの?」「私はもう泣けないから」「私の分まで泣いてあげてね」
涙で炎が消せたらいいのに。愛されないことはわかっていて愛した人だから、愛されないことはつらくない。憎まれないこと、恨まれないこと、裁かれないことの方がずっとずっとつらかった。
我が身が可愛い人だから、人並みに怯えて人より怖がりで、でもこっそり泣く人だった。泣けないあの生き物は、もうではないのだ。怯えも恐れも涙も、彼女を切り刻んで混ぜて固めた者は入れてあげなかったのだから。によく似た、だった熾火。姉弟だったものたちは、連れ立ってこの寂しい地獄を後にしようとしていた。
「…………」
ふと、くるりとが振り返る。その眼差しはガラス玉のようにつるりと無色透明で、シャイニングはどうしてか初めて彼女に恐怖を抱いた。
「……こんにちは?」
「、……っ」
反射的に飛び退る。白い手が、シャイニングの頬に触れ損ねたように空を切った。ただそれだけなのに、ばくばくと心臓が嫌な音を立てる。呆れたように唸った影が大きく伸び上がって、を隔てるように覆った。さっさと去れと、目もない彼の視線が言っている気がする。もう目の前の「これ」はシャイニングのことを餌としか見なしていないのだと、理解した。餌になってもいいとさえ思ったはずなのに、シャイニングをシャイニングと知らない彼女に焼かれるのは怖いのだ。結局愛の形と思える何かの証明が、欲しかっただけだ。
即座にその場から離脱したことを、シャイニングは後悔していない。後悔すべきことは、他に数えきれないほどあったからだ。はいずれ大きな災いとなる。「正しさ」の、敵になる。あるいは彼女の寂しさは、王庭にすら手をかけるかもしれない。たったひとりの弟を腹に収めて、永遠に寂しいままの彼女はどこへ行くのだろう。二度と会わないようにと、祈ってしまう。きっと自分には彼女を殺してあげられない。彼女ではなくなった彼女さえ、こんなにもまだ恋しいのだ。どうか泣けないあのひとが柔らかな灰へ還れるようにと、願うばかりだった。
「何度も言わせるな」
エンカクの呆れは両者に向けられていた。懲りもせず白い手を伸ばした「姉」と、ぼうっとそれを眺めるばかりだったシャイニング。斬り落とされた腕を適当に元に戻して、「」は「弟」に言い訳をする。
「食べてほしそうだったの」
「もう少しマシな嘘を考えるんだな」
「ほんとうだもの」
同意を求めるように視線を向けられ、シャイニングはようやく我に返る。はっとして姿勢を正すと、「のようでではない何か」の言葉を否定しようとして、しきれなかった。
「その、食べてほしいというのはわかりませんが……」
わかってたまるかとばかりにエンカクが鼻を鳴らし、シャイニングは苦笑する。正直なところ、食べられてもいいとさえ揺らぎかけたのだ。この流れでは到底、口に出せないけれど。
「寂しいのならお話をしませんか」
「お話? ずっと昔も、たくさんお話してくれたわ」
「昔、ですか?」
「『使徒』……」
遠くを見るように呟いた「」の言葉に、シャイニングは背筋を震わせる。その震えは歓喜にも似ていた気がするが、理由はわからない。ただこの「」は過去に使徒に属していたらしく、懐かしそうな顔をしている、気がした。
「うれしい、最後はみんな泣いていたから」
「……さいご?」
「お別れしたの。私はいたらだめだから、さようなら。泣いていないシャイニングに会えて、うれしいわ」
ぞくぞくと、背筋が震える。使徒との再会を喜ぶこのは、いったいどんな地獄を歩いてここまで来たのだろう。考えるほどに吐き気がこみ上げて、シャイニングは軽く頭を振る。楽しくて、優しい話をしよう。きっとそれが目の前の彼女の「空腹」という名の寂しさを、宥めてくれるような気がした。
230223