弟が、ドクターに話しかけられているのを見た。「エンカクの爪は、綺麗に手入れされてるんだね」と。ああ、といつものように無関心な相槌を打ったエンカクは、珍しく会話を繋げていて。
「繊細なものを扱っているからな」
ドクターは、感心していたように見えた。刀を振るう戦士として、細かいところにも気を配っているのだなと。それを聞いて、なるほどとも納得したのだ。ちらりとに向けられた視線の意味は、わからないままだった。
「ごめんなさい、あの……除光液、貸してもらってもいい……?」
そんなやり取りを思い出したのは、除光液を切らしてしまっていたことをすっかり忘れていて弟に頼ったときだった。ネイルが欠けてしまったから塗り直そうとしたのだが、購買部はもう閉まっている。一日くらい、とは思ったがふと弟の綺麗に整えられた爪が目に入って。普段の簡易救急箱から勝手に消毒液やら包帯やらを持って行くから、その代わりと言っては何だが貸してくれるだろうと見込んで声をかける。どこか物珍しそうにを見た弟は、あっさりと頷いて「来い」との手を引いた。
「……その、やっぱり自分で……」
「動くな」
それがどうしてこんなことになっているのだろうと、は居心地悪そうに身動ぎする。除光液を貸してもらって終わりだと思ったのだが、何を思ったのかエンカクはをベッドの縁に座らせると跪いて手を取って。心臓に悪いほど優しい手付きでネイルを落とされ、ついでだとやすりで爪の形を整えられる。甲斐甲斐しいだとか献身的だとか、弟に対して使うにはあまりに背筋が冷えるような恐ろしい形容詞だ。弟に傅かれているのが怖くて手を引こうとしても、短い言葉で制されて思わず背筋を正す。エンカクは自分の爪も黒く塗って綺麗に整えているし、もしかしたらの爪の手入れの仕方が見ていられないほど気に障っていたのだろうか。そんなにおかしいことはしていないはずだけれど、とまたどこかズレた方向におろおろとし始めたの考えをだいたい見透かしていてもエンカクは何も言わない。姉の思考回路が明後日なのは今に始まったことではなく、大人しくしているならそれでいいと勘違いは流していた。
「……エンカクの爪は綺麗ね」
ついには爪のケアまで始められて、半ば現実逃避のように弟の指先に視線を向ける。普段は刀を握り敵を屠る無骨な指が、壊れ物を扱うように丁寧にの手指に触れていて。武器を扱うからか短く整えられた爪は、いつ見てもムラなく綺麗な黒一色に塗られている。また突飛なことを言い出したという顔をしながらも、気を紛らわすためだとわかっているエンカクはドクターに答えたように無感動に頷いた。けれど、その先の答えは彼に言ったものとは違っていて。
「あまり長く伸ばすと、お前が困るだろう」
「……?」
「ナカが傷付く」
何もわかっていない顔をして首を傾げたに今更呆れることもなく、エンカクは直截に告げる。それでもまだピンと来ていなさそうな顔をするの下腹部に手を添え、ついっと指先で臍の辺りを撫でた。
「……え、」
ぼふっと、綺麗な顔が真っ赤に染まる。ショートした機械のように動かなくなったの腹から手を離して、エンカクはさっさと爪の手入れに戻った。
(『繊細な』、『もの』)
あの時の弟の言葉が何を指していたのか、理解してしまってはその顔も指先も直視できない。男にしてはまめに爪の長さに気を使っているのも、綺麗にやすりで丸く整えているのも、に対しての配慮だったらしい。もちろん、刀を使う都合というのもあるのだろうけれど。泣いても嫌がっても行為を強いるくせに、そういうところだけ妙に優しいのは本当に何なのか。泣きそうになりながら縮こまっているの爪を見ながら、さらりとエンカクは追い討ちをかけた。
「お前はもう少し長くてもいい」
「なんで……?」
「爪痕のひとつでも残せ」
「え、あ……」
そういえばやたらと背中に腕を回させたがっていた、ような。が縋り付くと気分が良さそうにする弟は、の爪痕が背中に欲しいらしい。そんなことをしたら、まるで本当に睦み合う仲のようだ。真っ赤な顔で狼狽えながら、爪を立てないように気を付けようと既に行為が前提になっていることには気付かないままは必死の決意を固める。そんなの愚かさなどとうに見透かしているエンカクは、次は前後不覚になって縋り付いてくるまで責め立ててやろうと爪を撫でながら決めたのだった。
201214