「…………」
寝ている、のだろうか。傭兵生活の長かった弟は基本的に熟睡というものをしないらしく、眠っているように見えても実は起きているというパターンに何度も恥ずかしい目に遭わされてきた。今もなぜかのベッドで横になっている弟が眠っているのか目を閉じているだけなのか、素人であるにはまるで判別がつかない。そもそもどうしてのベッドを占領しているのかと思ったが、の読みさしの本が弟の手元にあって。昨日が寝る前に読んで枕元に置いていた本を手に取って読んでいるうちに、眠って(いるのかは知らないが横になって)いたのだろう。弟が自分のスペースに入るのは怖いが、本やちょっとした私物を共有されるくらいは別に構わないと思っている。時々どうしてそんなことまで知っているのかと怖くなることもあるが、良くも悪くも諦めの早いはそれで弟が満足するならと半ば放置している面もあった。
「エンカク……?」
本当に寝ていたら起こすのも悪いと思い、小声で呼びかけてみる。自分に対して横暴に振る舞う相手にもこうして気を遣うところが愚かしいと弟は言うが、気の小さいに染み付いた性のようなものだった。反応のないエンカクは、やはり本当に眠っているのだろうか。寝息もほとんど立てることなく、はたして呼吸をしているのかと馬鹿げた心配を抱くほどに弟の眠る姿は静かだ。注意深く観察していれば、僅かに胸が上下するのがわかる程度で。思わず、弟の口元に手をかざす。僅かに手のひらに息が当たってほっと安心したのも束の間のことで、ぱちりと開いた炎色の瞳とがっつり視線が合ってしまって「ひっ」とは短い悲鳴を上げた。
「……寝起きにずいぶんなご挨拶だな」
「ね、寝てたの……? 本当に……?」
「お前が近付くから目が覚めた」
「それは……ごめんなさい……」
それで謝ってしまうのだから本当に愚かで自罰的が過ぎるとは、思っても言わないが。誰かが近付けば目が覚めるのは元からの癖だし、そもそも転寝を妨げられた程度のことで怒っているわけではない。ましてや自分のベッドを占領している弟を怪訝に思って近付くなど、当たり前のことだろうに。だが、その罪悪感につけ込むつもりでいるエンカクはわざわざそれを告げてやる気などない。必要以上に自分のせいだと思い込むが悪いのだ。そうやって自分を責めたつもりになるのは、気持ちが楽になって生きやすいのかもしれないが。
「寝足りないから枕になってくれ、『姉さん』」
「え、えぇ……?」
「俺を起こしたのはお前だろう?」
わざと罪悪感を煽る言い方をすれば、困惑に拒否を滲ませていたはわかりやすく動揺する。「枕って、どうやって……?」と不安いっぱいの顔でエンカクを窺うは、また物騒な想像に怯えているのだろう。別にエンカクに猟奇的な趣味はなく、の心配しているように手足を詰めて『枕』にするなどといったことは考えたことすらないのだが。いったい姉の中で自分はどういう生き物なのかと訝しく思うものの、今はそれを問い詰めるべき時ではない。「そこに座れ」とベッドの縁を指さして、おそるおそる腰掛けたの太腿に頭を乗せた。
「……ひざ枕……?」
「この状況で他に『枕』の意味を考える方がおかしい」
「そ、そっか……」
あからさまに安堵した様子を見せるに呆れるが、柔らかい太腿の感触は悪くない。顔を少しずらせば胸の膨らみをまじまじと眺めることのできる位置だが、それを知ればうるさいだろうから絶景のことは黙ってやることにした。顔にかかった前髪を手で払い除けようとするが、意外なことに自分のものではない指がそっと髪に触れて。
「あっ、ごめんね……」
照れたようにはにかんで、指先で髪を梳く。臆病で逃げたがりのくせにこの妙な図太さと隙の多さは何なのかと、内心でため息を吐いた。細い指が慈しむように触れる感触は決して悪いものではないから、黙って好きなようにさせてやったが。の物騒な想像よりはよほど平和な要求だったせいか、少しは緊張が緩んだらしかった。
「私の髪が短かったら、こんな感じなのかなって……思うときもあって」
「……髪を短くしたいのか?」
「たまに……暑い時は」
「長い方がいい」
「そう……?」
緩く毛先のうねる髪質は、姉弟で同じものだ。毛先だけ巻いたようにふわりと広がる姉の長い髪を、エンカクは気に入っている。本人はさして長さにこだわりが無いようで、周りに似合うと言われた長さを保っているらしかった。どこか硬い声だが、色気のない触れ合いならば存外姉はぎこちないながら会話もできるらしい。逃げられないと理解してからは、心を閉ざすでもなく一切拒絶するでもなく普通の接触ならそこそこ受け入れるのだから本当に厄介な女だった。あるいはこれも、防衛本能によるものなのかもしれないが。だが、今はそんなことを深く考えるつもりはなかった。姉の華奢な指が不器用な手つきで髪を撫でていくのが、まどろむ身には心地よく。完全に眠りに身を明け渡すことはないが、それでもこんな戯れも悪くないと思えたのだった。
210110
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