「…………」
どうしよう、とは頭を抱える。どうするもこうするも、贈り物を受け取ったからには礼をすべきだとは思うのだけれど。
(綺麗な薔薇……)
任務から帰ってきたを迎えたのは、机の上に置かれていた白薔薇だった。簡素な花器に活けられた二輪のそれは、雪のように無垢で美しい。まっさらで透き通るように白い花弁も、丁寧に折られた棘も、あの血腥い弟が手ずから育てたものと俄には信じ難い。ああ見えて、細やかで品のある人間だとは知っているが。そう、これはエンカクの育てた花だ。贈り主を示すものが何一つ無くとも、にはわかる。こんなふうにに花を贈るのは、弟だけだった。
「もらって、いいの……?」
今この部屋にはいない弟に、思わず問いかけるような呟きが漏れる。途方に暮れたような表情で、は白薔薇を見下ろしていた。本当に、どうしたらよいものかわからない。美しく咲いた花が散る姿を愛しむあの弟が、咲き誇る花を手折ってに贈ったのだ。そこに込められている情は、深く重い。が一ヶ月前に贈った既製品のチョコレートに対してこの返礼は、過ぎたものだと思わざるを得なかった。もっともあの弟は、が気に病むことを見越して贈っているのだろうけれど。エンカクがに対して並々ならぬ情の深さを見せるほどに、は自身の薄情さを突き付けられる。受け取った贈り物に見合うものを返せないということが心苦しいだけで、そこに込められた情の本質に関心がないは実際薄情であるのだが。だからこそエンカクは、たとえ苦しさや痛みによってでもの心に印象を残そうとするのだろう。根本的に他人に関心のない姉は、自身の感情によってしか心を揺らがせることがないから。
「……きれい」
そこにどんな意図が込められていようと、美しい花はただ美しい。弟の心情を察することから逃げるように、は白い薔薇に再び視線を落とした。雪のような、炎のような、白さ。触れればどちらでもないとわかるのに、そんな矛盾した印象を抱く。薔薇という花は、繊細で苛烈だ。誇りをもって花開くその白さが、突き刺すように眩しい。この美しい白に、は何を返せるのだろう。悩みの種はあまりに大きいけれど、それでも弟のくれた花はその美しさでの心を慰めた。
(こんなに脆くて、綺麗で)
触れたら崩れ落ちてしまいそうな、危うげな白。魔族と呼ばれるサルカズという意味でも、黒と橙という自分たちに共通する色からも、普段はどこか縁遠く感じる色だ。エンカクは、何を思ってこの色を選んだのだろうか。ホワイトデーだから、という単純な理由なのだろうか。案外イベントに関してマメらしい、と呑気に思うは、それがエンカクなりに姉に合わせてのことだと気付いていないのだろう。エンカクにとって過ぎゆく一日でしかない日付に意味を与えたのは、の方だ。が世間の普通に合わせてイベントごとを気にかけているから、エンカクもそれに付き合っているつもりなのだ。根本的な生き方において妥協することは決して無いが、それでもエンカクは可能な範囲で姉の価値観に即した愛情を示そうとはしている。本人がそれに気付こうともしていないのは、まったくもって滑稽なことではあるが。
「…………」
そっと花器を持ち上げて花を眺めていたは、机の上にそれを戻すと何か思いついたように踵を返す。誰もいなくなった部屋の薄暗がりの中でも、やはり白薔薇は美しかった。
『それ』をエンカクに差し出した姉の手は、少しだけ震えていた。意識のあるときのは、だいたいいつも彼に怯えている。それでも自発的にエンカクに接触することを選んだに、感心すら抱いた。
「その、あなたは……嫌かもしれないけど……」
そんな卑屈な言葉と共に差し出されたのは、プリザーブドフラワーにされた白薔薇だった。先日エンカクが姉に贈ったものだと、ひと目でわかる。人の手で丁寧に加工をされ、小綺麗なケースに収められた一輪の薔薇。エンカクが二輪贈った花の片割れは、同じように加工を施され姉の手元にあるらしい。嫌かもしれない、とが怯えるのは、エンカクがこういった形で花を残すことを無粋に感じるように思えたからなのだろう。だが、その恐れがあってもなおは返礼という自己満足のために我儘を突き通す覚悟を抱いたのだ。それはエンカクにとって愉快なことであり、卑屈で誰にでもいい顔をしたがる事なかれ主義の姉にしてはよくやったと、褒めてやってもいいとすら思えることだった。
「綺麗だったから……嬉しかったの」
「ほう」
「その、嫌だったら……」
「お前に贈った花だ。お前の好きにしろ」
形に残して片方をエンカクに贈りたいと言うのなら、否やはない。咲き誇る花を手折ったその時から、この薔薇はのものなのだから。嬉しかった、などと怯えている弟に対して言える姉の純粋さに呆れつつも、エンカクはの差し出した透明のケースを受け取った。姉のことだからそういうことが得意な知人にでも頼んだのかと思ったが、わざわざ不慣れなことを自分でしたらしい。エンカクに怯えているくせに、エンカクのために手間をかけることを案外惜しまない。可笑しな女だとはつくづく思うが、悪い気がしないのも確かだった。
「お前はよくわからんな」
「…………」
の苦虫を噛み潰したような顔は、『あなたの方こそよくわからない』とでも言いたげな表情を如実に表していたが。そんなことを指摘するのも詮無いことだと、気付かないふりをしてやる。エンカクを愛していないくせに、この薔薇を受け取って形に残るものにしたより不可解なものもそうそうあるまい。そう思いつつ歪で平穏な姉弟関係をひとまずは受け入れている自身もまた、確かに不可解に違いなかった。
210324