はあれほど臆病なくせにどうにも危機感が薄いところがあると、エンカクは常々思っている。否、危ないことがわかっているくせに他人との関係を優先して敢えて首を突っ込むと言った方が正確か。なまじ怪我や毒を癒す力を持っているから、余計にその悪癖は直らないようで。
「あの馬鹿……」
 幻覚作用のある植物を、忌避しないどころか薬のように扱う文化があることは知っている。善悪とはこの世でもっとも曖昧な基準のひとつだ。世間一般には麻薬として遠ざけられている類の茸を賓客へのもてなしとして振る舞うのを、未開の地の文化などと傲慢に嘲笑う気はない。それでもまさか自分の姉が、こんなところにまで来て相手の気を悪くしないためだけにそれを受け取るなどとは思わなかったのだ。曖昧な笑顔で見るからに怪しい茸を受け取った姉に苛立ちを露にしたエンカクは、珍しく直截に罵る言葉を吐きながら少し離れたの元へと大股で近寄る。気のいいアダクリスが勧めた茸をエンカクが取り上げる前に、はそれを齧ってしまった。
「っ、……?」
 ぐらり、と目を回したようにの体が傾ぐ。舌打ちをしてそれを受け止めたエンカクは、同じように茸を飲み込んだアダクリス人の存在を完全に無視した。こちらは常用者であるし、心配してやる義理もない。はどうせ解毒できるつもりで受け取ったのだろうが、予想していたより巡りが早すぎたのだろう。本当に愚かで考え無しでいい顔しいだとは思いつつも、今は自分の苛立ちをぶつけるより優先させるべきことがある。薄く開いた唇から人差し指と中指を揃えてねじ込むと、咽頭の辺りまでグッと指先を押し込んだ。喉奥を刺激されたは、嘔吐くような声を上げて細い肢体を痙攣させる。それでも無意識に嘔吐を堪えようとするような様子を見せたから、二度目の舌打ちが思わず漏れた。再び喉奥で指を動かし、胃の中のものを逆流させる。傭兵仲間に毒を吐かせた経験がこんなところで活かされるなど、誰が予想できただろうか。さすがに朦朧とした意識では抵抗しきれなかったらしく、茸らしきものの欠片が胃液に混ざって吐き出される。指や手の甲に吐瀉物がかかる感覚を厭うこともなく、その後も何度か吐かせてエンカクはを介抱していた。

「ごめんなさい……」
「謝罪だけは一人前だな」
 幼児のように目の離せない失態をしでかしたは、エンカクの皮肉にも黙って肩を縮こまらせる。軽率な行動をした自覚はあるらしく、吐瀉物を洗い流すついでに正気に戻そうと滝に放り込んだことにも文句は言われなかった。密林の茹だるような暑さと怪しい茸にやられた頭もさすがに冷えたようで、は腕を組んで立つエンカクの前に正座して反省していた。「助けてくれてありがとう」と、殊勝な言葉が出てきただけまだマシだ。これが謝罪と卑屈に終始するようであれば、二度目の滝壺ダイブも吝かではなかった。そも、あれが一種の求愛行動であったとこの姉は理解していまい。元凶のアダクリス人の頬を張り飛ばして無理やり正気に戻し問い詰めたところによると、彼は『細い尻尾派』のアダクリスらしい。の黒くしなやかで細い尻尾に美しさを見出し、親交を深めようと純朴な好意からの行動のようだった。ここらの住民には、サルカズであろうと良くも悪くも関係ないらしい。不埒な考えで前後不覚に陥らせようとしたわけでもなく、憧れの占める部分の大きい淡い恋情だ。もっともエンカクにしてみれば情状酌量の余地もなく、の同僚でもあるガヴィルに突き出してティアカウなりの落とし前をつけてもらうことで決着はついたが。滝に落とされたついでにびしょ濡れの服から水着に着替えさせられたの、露になった肩に残る噛み跡。上着で隠しはしているものの、かのアダクリス人はそれを目にしたのか何かを察したらしい。砕け散った恋に肩を落としながらも、に謝罪と生温い応援の言葉を告げていた。
「次にまた馬鹿なことをしてみろ、滝壺に蹴落とすだけでは済まさんぞ」
「その、抱えてくれてたって聞いたけど……」
「……事実の方を修正してやっても構わないが?」
 爪先を僅かに動かしただけで、顔を真っ青にして首を横に振る。そんな些細な表現の差異などどうでもいだろうに、エンカクがを抱えて介抱してやったことを優しさだと思っているは怯えながらも首を傾げたのだ。単純に、意識のはっきりしない人間を水場に蹴落とせば溺死するというだけの話だ。そんなことは優しさでも何でもなく、意識して厳しい言い方をしたわけでもない。本当に、頭が痛くなるほど思考回路がズレている。助けてくれたと、優しくしてくれたと、いつものように弟に怯えながらも感謝を示そうとしてる。まだ茸で狂っているのだろうかと、エンカクは呆れたように目を細めたのだった。
 
210329
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