「…………」
壁にもたれて腕を組み、じっと前方を注視している大柄なサルカズ男性。療養庭園の和やかな空気にはそぐわない鋭く物騒な雰囲気をもったエンカクだが、入職から数ヶ月、「意外にも」園芸を趣味とする彼はすっかりと庭園に受け入れられ馴染んでいた。パフューマーやポデンコも、彼の姉であると親交があったことや本人たちの温厚さもあり比較的早い段階からエンカクの存在を受け入れている。実の姉であるがむしろエンカクを避けたり怯えたりしていることを非難するようなこともなく、エンカクとには彼らなりの問題があるのだろうと深入りはせずあくまで園芸仲間としての距離を保っていた。エンカクの方も、に対するものとも他のオペレーターに対するものとも異なる態度を彼女たちにとっている。気を許している様子こそ見せないものの、無視をしたり皮肉を向けたりとあからさまな拒絶をすることはなかった。実姉とドクター以外との関係をおざなりにするエンカクにしてみれば、それでも気安く接している方なのだろう。けれどそのエンカクが珍しく、険のある表情を庭園内の人物に向けていて。そこには彼の姉であると、に教わっておっかなびっくり花の苗の切り戻しをしているフリントの姿があった。
――なんでもないの、
フリントによってエンカクの盆栽が一夜にして全て刈り取られた事件は、療養庭園に関わるオペレーターたちの記憶に新しい。それが死闘に発展し、最終的にガヴィルの手による些か強引な『仲裁』によって終息したこともまた、ロドスを広く騒がせた。それらの喧騒に隠れて若干影が薄れてはいるものの、被害に遭ったのはエンカクだけではなくロドスにおいて園芸を趣味とする多くのオペレーターたちだ。当然と言うべきか不運と言うべきか、この姉もまたフリントに花を奪われている。フリントの常識が自分たちのそれとは違いすぎていたことは、理解できる。誰のものでもない花がそこらに咲き誇るジャングルで育ち、欲しいままに花を摘み取って巣を飾ってきた彼女がロドスにおいて他人の花に手を出してしまったことは、仕方がないと納得するしかない。事情を知ったオペレーターたちの多くが(既にエンカクが被害者全員分と言ってもいいほど暴れた後とはいえ)フリントを許し、受け入れたことは所詮他人事だから関心はない。だが、よりによってがフリントにこうして一緒に花を育てようと持ちかけて面倒を見ているのが気に食わなかった。
(泣いていただろうに)
大切に育てていた花の哀れな姿を見て、は珍しく余人の前で涙を零したのだ。その時はまだ事件の真相が明らかになっておらず、嫌がらせの可能性も示唆されていた。あの姉のことだから、どうせ自分が嫌がらせをされるほど嫌われていたり恨まれていたりすることに怯えて泣いたのだろうが。エンカクの前では簡単に泣くだが、基本的に彼女が人前で泣くことはない。戦場だとて、エンカクが関わらなければ怯えはするものの涙を滲ませることはほとんど無いのだ。そのが、ぽろっと涙を零して泣いた。本人も戸惑った様子を見せていたから、泣いてしまったことは本意ではないのだろう。何でもないと言ってエンカクや周りのオペレーターから花を隠そうとしながらも、止まらない涙に困り果てた様子を見せていた。姉のそんな姿を見ていたからこそ、フリントとの死闘に収拾がつかなくなったとも言える。それが今はどうしたことか、へらへらと気の抜けた笑顔を浮かべてフリントの慣れない手付きを見守っている。フリントの方も弱者であるを侮ることも軽んずることもなく、その言葉を真剣に聞いて時折照れたように頬を赤くしたりする。それはまるで、仲のいい姉妹のような。
「……エンカク?」
殺気にも似た寒気を感じて、は少し青ざめた顔で振り向いた。隣のフリントも、剣呑な空気を感じて警戒した様子で振り返る。自制もできない己に呆れながら、エンカクはため息を吐いて首を横に振った。フリントに再戦を仕掛ける気も、をこの場から連れ出す気もない。ただ、面白くないと感じただけだ。その嫉妬があまりにも子どもじみているという自覚があったからこそ、表に出してしまったことに呆れていた。フリントは、姉の『特別』になることはない。普段の周りにいる人間を誰彼構わず追い払っていると思われているエンカクにも、分別は備わっている。牽制の必要はない相手だとわかっているから、余計に自身に対して腹立たしさを感じるのだ。首を傾げながらも、は視線をフリントの手元に戻す。フリントがそれに倣って首の向きを戻すときに、何事か呟いたように見えた。唇の動きで読み取れた音は、エンカクには理解のできない羅列だったが。おそらく、フリントの郷里の言葉であるサルゴン方言なのだろう。肩をびくりと揺らしたが、へにゃりと下手くそに笑って言葉を返していた。後日聞いた話だが、はあの騒音の羅列のような方言を理解できるらしい。ガヴィルの故郷に逃げる日も来るかもしれないと、エンカクと再会する前のが必死にガヴィルに教わって覚えたらしかった。エンカクに捕まった今は永遠に必要なくなったはずの言葉だが、機会というものは思わぬところで訪れるようだ。引き攣った笑みでフリントと言葉を交わしていたは、後に何を話していたのかと問い詰められて気まずそうに視線を逸らしていた。
――つがい、
番みたいだって。言われたの、フリントに。
言葉を濁して詳しくは言わなかったが、フリントが何を指してそう言ったのか察するのは容易だった。自分の雌に近づく者を牽制し、威嚇する様を見てフリントはまるで番だと呟いたのだ。真っ赤になって俯くも、それを理解しているのだろう。誤解(とも言い難いが)を解くのにたいへんな労力を要したらしく、恨めしげな目をしてエンカクを見上げたが。その時にはもう、エンカクのフリントに対する子どもっぽい嫉妬は綺麗さっぱり消え去っていたのだった。
210329