(痛い、)
 チリッと焼け付くような痛みを感じて、シャワーを浴びていたは顔を顰める。痛みそのものは大したものではないが、一度気になるとどうしても意識が逸らせなくなる。弟につけられた噛み痕が、シャワーが当たったせいかじくじくと痛み始めていた。うなじを守るように手で覆ってみるものの、たいした効果はない。そもそもうなじだけではなく、二の腕にも内腿にも脇腹にも、およそ体中の至るところに赤く鬱血した噛み痕が残されているのだ。気にしないように努めてシャワーを済ませてしまった方が楽だと、わかってはいた。無性に泣きたいような気持ちになるが、きゅっと唇を噛んで堪える。噛まれた痕が痛くて泣くわけではないが、あの弟はそれを知っていて敢えて揶揄するような性格だ。どれだけひ弱なのだと、を指して笑うだろう。ああ、まるで弟の皮肉げな笑みを刻まれたようだ。体に幾つもつけられた歯形が視界に映り、憂鬱な気分になる。あの酷薄な笑みを浮かべる口元が、嫌でも思い出されて仕方ない。弟は、姉の体に自分の跡を刻むのが楽しいようだ。噛んだり、吸い付いたり、強く握ったり、押さえつけたり。白い肌に残った自分の痕跡を見下ろして、満足そうに口の端を吊り上げる。が痛がっても嫌がってもやめてくれないその悪癖は、支配欲なのだろうか。考えても仕方のないことばかりぐるぐると思考し続けるは、深々とため息を吐いてざあざあと流れるお湯に頭を突っ込む。何もかも、流れてしまえばいいのに。

 チリ、と小さな痛みが背中に走り、エンカクは片眉を上げた。反射的に背中に手をやったものの、それが傷とも呼べないような引っかき傷であることはわかっている。それが行きずりの女につけられたものなら不快感に顔を顰めていただろうが、この傷をつけたのは虫も殺せないようなあの女だ。姉が初めてエンカクに残した傷に、自然と口の端が吊り上がる。昨日は怖気付くを酒に付き合わせた後だったからか、いつもより理性が薄れていたようで。縋るように何度もエンカクの名を呼んで、泣きながらしがみついてくるから愉快で堪らなかった。いつもは何の遠慮か知らないが必死に爪を立てないようにしていたのも、こうして可愛らしい引っかき傷を残すほどで。自分の爪を見下ろしながら、エンカクは機嫌良さげに目を細めた。今度は自分も引っかき傷を残してやろうかと、あの白い肌に赤く薄い一本の線が引かれているところを想像する。柔らかく薄いあの肌に自分の痕を残すのは、気分がいい。誰の傷も背負いたくないから、姉は誰も傷付けず治すことのできる道にいるのだろう。重荷を背負うことから逃げるらしい性分だが、エンカクはあらゆる意味で姉が逃げることを許す気はない。傷付けて、傷付けさせて、雁字搦めに拗れた枷になることを期待しているのだ。どこか人の世界から浮いてしまっているあの姉は、エンカクのみならずこの世の全てから逃げたがっているのではないかと感じることがままある。執着というものを持たないあの女が、いつか夢や幻のようにふっと消えてなくなるかもしれないという馬鹿げた危惧すら抱くことがあった。傷のひとつやふたつで繋ぎ止められると思っているわけではないが、気付いたときには衝動的に噛み付いている。きっと姉に執着というものがないから、分かたれた「片方」であるエンカクがこれほどまでに執着を抱かなければならないのだろう。まったくもって、理不尽で不愉快な話だ。独占欲なのか八つ当たりなのかその両方なのか、ともかく心が乱されるという意味ではあまり歓迎できない衝動で。けれど、あの白い肌に残った痣や傷を見るのは気分がいい。自身の背中に残された爪痕をなぞるのも、悪くはない心地だった。
(馬鹿な女だ)
 エンカクが姉を所有しているように、も弟を所有している。その事実にすら目を背けて逃げようとしているが、エンカクを手放そうとしているのが最も不愉快なのかもしれなかった。
 
210425
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