一度だけ、過去の自分についてに尋ねたことがある。優しくて人あたりのいい彼女は困ったように微笑んで、それでも「私の口からは言えません」とやんわりと明確な拒絶を示された。
「あの女ならそう言うだろうな」
「ケルシーの指示じゃなくて?」
「医者の指示は後押しに過ぎない。あれは、他人に踏み込むことを病的に嫌っているだけだ」
師から言われたことなど、ドクターの過去について触れたくないことを正当化する言い訳にすぎないのだと。身内のくせに、ばっさりとエンカクはについて厳しいことを言う。そんなものか、と思いつつもドクターはふと思い出したことがあった。
「でもさ、は今の私の方が好きだって」
「ハッ」
可愛いヤキモチでも見られるかと思った悪戯心だったが、エンカクは容赦なく鼻で笑う。嫉妬どころか憐憫を浮かべて、サルカズの刀術師はドクターを見下ろした。
「お前、それは『今のお前の方が怖くなくて都合がいい』という意味だろう」
「……そんなに怖かったの? 昔の私は」
「少なくとも、過去のお前にあの女は近付かないだろうな」
W曰く、は徹底的なまでに過去のドクターを避けていたらしい。テレジアの世話役のようなことをしておきながらよくあそこまで接触を回避できたものだと、感心すらしていた。自己保身だけは一人前ののことだ、あの怪物と下手に関われば捨て石のように使われることを察知して、認識されることすら忌避していたのだろう。
「もしかして、今の私も避けられてる?」
「気付いていなかったのか、おめでたいやつだ」
もケルシー同様、ドクターが本当に記憶喪失なのか半信半疑といったところだ。よしんば本当だったとしても、過去の記憶を取り戻したときドクターが『まとも』なままでいるという希望的観測には微塵も望みを託していない。将来に起こりうるリスクを踏まえて、当たり障りのない付き合いに留めている。本来はオペレーターAとしてすら認識されたくないだろうにそうできないのは、弟であるエンカクがどうしようもないほどドクターと関わりを持ってしまっているからだろう。いわばはエンカクの姉として、否応なくドクターに認識されざるを得ないというだけの話だ。自分で考えておいて悲しくなってきた、とドクターは肩を落とす。エンカクに言わせれば、今は多くのオペレーターに慕われているドクターをあからさまに避けることもできないというわけでもあるらしいが。多数の人間に敵視されることを病的に怖がるあの女らしいと、エンカクは本当に実の姉に容赦がない。秘書としての当番業務もつつがなくこなしてくれるから重宝していたが、本人的には当番から外された方が嬉しいのだろうかとドクターは頭を抱えた。
「失礼します、ドクター……どうかなさいましたか?」
「ああ、いや、うん……」
ケルシーからの書類を持ってきたらしいが、秘書当番で部屋にいたエンカクを見て一瞬身を竦める。けれど机に撃沈しているドクターを見て心配そうに首を傾げる姿に、今までの会話から少し気まずい思いでドクターは首を横に振った。書類の優先度や期限をわかりやすく分けておいてくれたり、おかしな様子を気遣ってコーヒーを手早く淹れてくれたりと、本当に『優しい』人だ。その根底にあるのがただの怯えだと、大抵の人間は気付かないだろう。それほどまでに、の態度や表情からは人に馴染む柔らかさしか読み取れない。本来コーヒーのひとつでも淹れるべき秘書当番のエンカクは、姉に手を貸すことすらなく机に腰掛けたままでいる。そんな弟に文句一つ言わないどころか弟の分までコーヒーを用意しているのは、優しさではなく病的に衝突を避けているだけなのだと今ならわかった。
「それでは、失礼しますね。体調が優れないようでしたら医療部にいらしてください」
弟に声をかけることもなく、自分の分のコーヒーを用意することもなく、そしてそれについてドクターに触れさせないままは執務室を後にする。その流れがあまりにも自然すぎて、ドクターは内心舌を巻きながらエンカクをちらりと見上げた。の淹れたコーヒーを遠慮なく飲みながら、エンカクは「ほら見ろ」とでも言いたげな目でドクターを見下ろす。
「勘違いする前でよかった……」
「お前に好かれたら、あいつは舌を噛み切るぞ」
そんなにか、と思いながらも反論など思い浮かばず、ドクターもマグカップに手を伸ばす。好みの濃さに抽出されたコーヒーは、皮肉なほどおいしかった。
210604