元々は、の持つセーフティハウスのひとつだったらしい。こじんまりとした白い家は、生い茂る蔦や常緑樹に覆われてひっそりとした一角に隠されていた。流通や交易のルートから外れている代わりに、天災や世間の目からも逃れている日陰者の町。自分たちのように公にはできない関係を結んでしまった者も、ここでは珍しくないのだろう。
「……ここは緑の匂いが濃いな」
姉の柔らかな太腿に頭を預け微睡んでいたエンカクは、カズデルの荒野ともロドスの艦とも異なる匂いに目を細める。大樹と半分同化しているような家は嫌いではなかったし、それどころか姉弟揃って趣味である園芸に勤しんでいるのだから草木の匂いが濃くなるのも当然というものだった。家の中にはあちこちに植物の鉢が置かれ、専用の温室も存在している。終の住処に相応しく、あまりにも穏やかで居心地の良すぎる空間だった。エンカクもも、お互いの他のほとんどを捨てて選んだ余生。互いに残された時間はそう多くはないが、それぞれに生き方をほんの少し曲げて手を重ねることを選んだ。片腕を失くし、剣士であることを捨てた自分に思うところがないわけではないが、姉が自分を見下ろす目に宿る優しさが本物の慈しみであることを思えばそう悪くもない。あの臆病さと怯えの裏返しのような薄っぺらい笑みを、ようやく剥がすことができたのだ。「いい人」を取り繕うことがなくなった姉は、随分と息がしやすくなったように見えた。以前より少し口数が減ったものの、無理をして笑うことも怯えて泣くこともなくなった今の方がよほど良い。他人のために自分の全てを捧げて尽くすことよりも、たった一人の弟のために在ることをが選んだ。エンカクが姉を選ぶために払った代償と同じくらい重いものを、姉も対価として差し出したのだ。戦争も使命も、ありとあらゆる望みやしがらみを置いてきた。続く先の無い二人きりの緩やかな終わりを、欠伸が出るほど穏やかに過ごしている。
「……あまりアーツは使うな」
「もう習慣みたいなものだから」
頬に、嫋やかな手が当てられる。ほんのりと温もりを感じて、またがアーツを使っていることに眉を顰めた。その手に上から自分の手を重ねて窘めるものの、最近生来の強情さが表に出てきたは退かない。エンカクの病状の進行を少しでも遅らせようと、は隙あらばこうして自分の炎を使うのだ。それでの鉱石病が悪化しては元も子もないと言い聞かせているのに、「あなたの方が病状はずっと重いから」とは聞かない。鉱石病治療を専門にしている医者とはいえ、この家には当然ロドスほどの設備はない。エンカクの病状も最先端の治療が受けられなくなることも承知の上で、二人はロドスを去ったのだ。あのお人好しの医師たちはサルカズの剣士の余命が長くないことを指して姉弟を慰留しようとしたし、は鉱石病患者であると同時に鉱石病治療の分野で期待されていた医師だった。それでも、彼らと共に未来へ進むことより二人で緩やかな終わりを迎えることを選んだ。エンカクは戦いに関わらなくなったことで小康を維持しているが、それでも病状が中期以降に差し掛かっているという事実は変わらない。エンカクが感染させたも、そのアーツで弟の症状を和らげることと引き換えに自身の病状を静かに進行させていた。血縁の不思議か、二人の鉱石病の症状は似通ったものになってきていて。うっすらと、の顔や首にはエンカクの対称のように源石が浮き始めている。美しい肌に無機質な石が生えている姿は痛ましいのに、悲しいほどに愛おしかった。そも、姉を鉱石病に感染させたのはエンカクだ。そのことを後悔してはいないし、むしろこうしての病状が進むごとに近付いていく「ひとつ」の形に湧き上がるのはどうしようもない愛おしさだ。それでも、相反する感情が自分の中に生まれたことは否定しようもない。この弱い女が自分のために苦しむのは、つらいことでもあるのだと。
「置いて行かないでほしいの」
が弟のためにアーツを使うのは、ただの我儘なのだという。優しい手付きで頬をゆっくりと撫でながら、姉は眉を下げて微笑んだ。
「死ぬときは一緒がいい」
そう、エンカク自身が望んだことだ。自分たちはふたつに分かたれたひとつだから、どちらかが死んでは生きていけないのだと。生きていけてはいけないのだと、だから自分が死ぬときは姉を殺して連れていくつもりだった。今も、その考えが変わったわけではない。共に逝きたいのだという姉に、いじらしささえ感じる。が置いて行かれるのを厭うていることが、幸せだとすら感じるのだ。ひとつに還る時は、確かに近付いてきている。がエンカクを受け入れて、共に還ることを自分の意思で望んでくれている。それはきっと、億が一にも起こりえなかったはずの奇跡なのだろう。だからこそ、自分のしたことは姉を傷付ける行為だったのだと今更ながらに自覚する。取り返しのつかない罪過で、が償いを望まないのだからこれはエンカクが甘受すべき苦痛なのだろう。ぬるま湯のような優しい生活の中で、時折胸を痛ませるもの。報いと言うには、あまりにも生温い。溢れるほどの花に囲まれて、何よりも愛おしい半身が側にいて。ただ幸福なだけの停滞した時間を、終わりの日まで繰り返す。たった二人のためだけの終末治療は、こんな騒がしくて落ち着かない世界の片隅に存在しているとは思えないほど平和だった。
「お前は綺麗だな」
源石の浮き始めた頬を、お返しのように撫でてみる。病状が進行しても、姉は花のように綺麗だ。恥じらって目を伏せるの頭を掴み寄せて、戯れのように口付けた。
「――、」
囁くように、姉が自分の名前を呼ぶ。何よりも大切なものを仕舞い込むように、まるでおとぎ話の秘密の呪文のようにはその名を大事に大事に扱った。こうして吐息が交わる距離にいるときだけ、そっと紡がれる名前。姉はエンカクのことを受け入れてくれただけで、エンカクと同じような烈しい情愛は結局抱いていない。それでも、こんなふうにただひとりエンカクだけを大切にしようとしてくれるのが、この姉の精一杯の愛なのだと知っていた。本質は、変わるものではない。情の薄いが、他の人間に向けるはずだったものを全てかき集めて弟に差し出してくれた愛情。それで充分だ。エンカクにはそれで、充分だった。
210606
五反田さんとのついった会話で生まれた構想に肉をつけた話です。