「あら、何か文句でもあるの?」
「…………」
 見え透いた挑発にわざわざ乗ってやるほど、エンカクは姉以外の人間に割いてやる時間を持ち合わせていない。部屋に戻ってきたエンカクが目にしたのは、なぜかのベッドに腰掛けている昔馴染みの姿だった。おまけに、その手をとったが丁寧に爪を彩ってやっている。
「……医者から転職するつもりか?」
「ううん、Wさんと約束したから……」
 相変わらずエンカクが声をかけただけでビクつきながらも、律儀に答えはする。どうやら先日の作戦でWに借りを作ったらしく、こうして爪を塗ることで「返済」としているらしかった。はじめはエンカクとWが顔を合わせるだけでこの世の終わりのような顔をしていたことを思えば、今のはマシになった方だろうか。最近は剣呑な応酬にも少し慣れてきたようで、今も青ざめてはいるものの卒倒しそうなほどではない。それにしてもいくらとはいえWが他人にその手を預けているのが意外で、の爪に塗るには毒々しさが過ぎる赤色をじっと見下ろす。考えていたことが顔に出ていたのか、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべたWが肩を竦めた。
「アンタも知っての通り、世界一臆病なサルカズよ。利己的でお利口なところは信用できるわ」
「この女の本性を知っていてもこれだから、同族は嫌になる」
「本性を知ってるからこそ、でしょ? アンタと同じで、おそろしく自分本位なサルカズじゃない」
 本当に嫌になる、とエンカクはわざとらしくため息を吐いた。はやたらと他人に嫌われることを恐れて必死に善人の真似事をして生きているが、厄介なサルカズほどその本質の利己心を見抜いた上でこの女を気に入るのだ。結局この女にとってはいつだって自分自身だけが一番で、他人に関心も責任も持たないが故に裏切ることもない。人間同士の利害関係の中に最初から存在していないから、わざわざ警戒する必要もないのだ。空気に対して警戒心を抱く人間はいない。つまりは、そういうことだった。もっとも、自分を好きになるような厄介な人間こそが一等関わりたくない相手なのだろうが。遠ざけたい相手ほど距離を詰めてくるのだから、にしてみれば災難な話かもしれなかった。
「害さなければいい、ただそれだけ。こんなに付き合いやすいサルカズはそういないわね。おまけに器用で、目端も効く。虐めたいくらいには可愛いと思わない?」
「そうかもしれないな」
 何せ、目の前でこうして自分の人間性を話題にされても気にかける素振りすら見せずにせっせとWの爪を塗っている女だ。見知らぬ人間に影で何を言われているかは病的なほどに気にするくせに、見知った人間に眼前で何を言われようが無関心で。本人が言うほど他人に何を思われているかなど気にしていないように見えるが、それを口にしないのはエンカクやWなりの優しさなのだろうか。あるいはそこをつつけば思いもよらない怪物を起こしてしまいそうで、口を噤んでしまうのか。この女の曖昧な笑みの奥に、何が棲んでいるのか。本人が自覚もしていないであろうその怪物を目覚めさせる気は、まだなかった。
「何? 仲間外れが寂しくなったの?」
「順番待ちだ」
「えっ……」
「ちょっと、手元が狂ってるわよ」
 適当な本を取って姉の机に腰掛けると、Wがニヤニヤとこちらを見てくる。ちょっとした意趣返しにが動揺するであろう言葉をかけてやると、案の定手元を盛大に狂わせたらしくWに頬をつつかれていた。生憎、貸し借りがなければ爪のひとつも塗ってもらえないような遠い関係ではないのだ。例えがそれに大袈裟なほど怯えようと、だ。今もちらちらとエンカクの方を気にしながらも、嫌だのやらないだのとは言わない。これは弟らしい甘えだろうかと心にもないことを思いつつ、姉の手元に視線をやる。赤も黒も選ばないであろうその女の爪は、笑ってしまうほど軟弱な淡い桜色だった。
 
211123
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