「『この街なら逃げられそう』か?」
 猥雑で、イカれた街。ドッソレスの眩しい日差しに目を細める姉に日傘を差してやって、エンカクは皮肉げな笑みを浮かべた。振り向いて彼を見上げたの目は、どこか恨みがましげだ。どうせが弟から離れるためにこの街に逃げ込んだとて、捕まえる自信があるから言っているのだということを余すことなく理解している目だった。
「この街は、あなた向きでしょう」
「そうか? 半々といったところだろう」
 少し呆れたようなの言うとおり、この街は傭兵にとって有利なフィールドだ。金と暴力が通貨の、混沌としたある種の狂気を孕む街。エンカクには、この街にすぐに馴染み流儀に則った振る舞いができるという自負がある。だがあくまで逃げる側であれば、この女も相当厄介だろう。変人の金持ちに好かれやすいこの女は、今日会談したドッソレス市長にも妙に気に入られていた。秘書として迎え入れようかと、半ば本気でスカウトされていたほどだ。姉が誰かの寵愛を受けて囲われる気さえあれば、エンカクといえど容易に手出しできない檻の中に逃げ込むことができる。今のところそういう気にならないとはいえ、その手札を選べるという事実はの強みに違いなかった。カズデルとは遠く離れた異世界のような地で、姉は今日もタチの悪い冗談のように美しい。黒のビキニの上に、同じく黒のシースルーのワンピース。上品で、けれどどこか享楽的な装いはこの歪で愉快な街に相応しかった。この女は、とかく他人の目を惹く。それが幸せなのか不幸なのか、自身がどう思っているのかなど言わずもがなだろう。
「……なんだそれは」
「滞在費……この街、物価が高いから……」
「ふざけているのか?」
 たおやかな手が差し出した、黒いカード。当然、それが何なのか解らなくて訊いたわけではないのだ。この女は、何のつもりでそのカードを差し出しているのか。睨むように視線を向けると、怯えながらも「引き落とし先は予備の口座だから大丈夫」だの「今回は護衛と案内を頼んでいるし……」だのと意味の無い弁解をし出す。依頼人としては素晴らしい姿勢だろうが、そもそもエンカクはの依頼でここにいるわけではない。姉が剣呑な街へ任務で向かうというから、今度はどんな愉快な事態に巻き込まれるつもりかと見物しに来ただけだ。隣に屈強なサルカズの傭兵が居ることによって面倒事を避けられているというのも、事実ではあろうが。それにしたって、とうに自ら生計を立てている弟に小遣い(で済む金額でもないが)を与えるというのもどうなのだ。舐められているのか、馬鹿にされているのか。そのどちらでもないと知っているからこそ、なおのことタチが悪かった。
「お前に養われるほど落ちぶれてはいない」
「知ってる、けど……必要になったら言って……?」
「だいたいお前は……」
 雇われの医者のくせに、そんな金があるのか。そう問おうとしてふと気付いたが、姉が拠点として借りたのはホテルに泊まった他のロドス連中とは違い一軒家のゲストハウスだ。おまけに、リターニアやら龍門やらにセーフティハウスを持っているくせに、サルゴンにまで逃げ場を得ようとしてパッセンジャーと『商談』していた薄ら寒い光景までエンカクは目にしている。たいした趣味もなく娯楽も嗜まず何に金を使っているのかと訝しんでいたが、まさかこういう安全確保ばかりに金を使っているのか。
「無駄遣いは止めておけ」
「?」
「命を大切にしたいのなら、俺から逃げないことだ。家を買うまでもない」
「……でも、」
「何だ」
「逃げなくても、あなたは私を殺すでしょう」
「…………」
「いつか、そうしたくなったら」
 この世の何にも興味のない鈍い女のくせに、時折妙に悟ったことを口にする。それはまるで聡すぎるが故に世俗から離れた聖者のようで、そんな殊勝な生き物ではないと知っているからこそ鳥肌でも立ちそうな気持ち悪さと苛立ちを覚えた。
「わかっているのなら、尚更無駄遣いは止めておくべきだな」
 傘を持ち替え、姉の腰に腕を回す。珍妙な飲み物を露店の店主から受け取ったは、案外従順に弟のエスコートに従った。「いつかその気になるまで」、弟の傍にいることが一番の安全だと知っているのだろう。その「安全」が如何に滑稽な砂上の楼閣か、エンカクもも笑えるほどに理解していた。
「行きたいところでもあるのか」
「……海かしら?」
「アレは海ではないのだろう」
「でも、みんなが『海』って呼んでる」
 だから海でいいのだと、眩しそうに瞬きをする。本質になど、興味が無い。何か特別な理由があって行きたいわけでもない。今回に限った話でもないのだ。この女の行動はその大半が、人生の時間潰しに過ぎない。
「観光名所とやらも形無しだな」
「?」
「お前、あの像をどう思う」
「……悪趣味、かな」
「それをあの市長に面と向かって言えたなら、お前はもう少し面白い人間だったろうな」
 バカバカしい問答を重ねながら、それでも日傘の影は猥雑な道を進んでいく。呆れるほどの暑さだけが、血臭も死臭もしないこの姉弟の「非日常」が現実なのだと証していた。
 
220411
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