「モラクス、君、それはよくないよ。そういうのは良くない」
酒を片手に押しかけてきた気ままな風神は、そう言って顔を顰めた。一体何の話だと、怪訝な顔をする岩神に怯むことなくバルバトスは思わしげに眉を寄せる。これはいつものちゃらんぽらんな冗談ではないと、嫌な予感がした。口を噤んだモラクスに、バルバトスはいっそ憐憫さえ滲む表情で言葉を紡ぐ。その表情を『心配』と呼ぶのだと、その時の彼はまだ知らなかった。
「君は孤独のつもりでいるんだ。守るべき人々に囲まれて、祀られて、愛されていても。ずっと独りでいるような顔をしている」
だから良くないのだと、澄んだターコイズの瞳がトパーズの奥底にある澱みを見透かすように覗き込む。彼が知らないはずの存在を、見透かされたような気がした。
あの時は機嫌が悪くなったように見せて風神を追い返したのだったかと、鍾離は腕を組んで昔日を思い出す。魔神戦争でモラクスが片割れを亡くしたことを、彼は知らないはずだった。いい加減でふらふらしているように見えて、かの風は真実に聡い。けれど時折身に染みる孤独が、「良くない」ものだとは認めがたかった。
「そうだろう、姉上」
ずっとずっと、守り続けていた小さな核。手の中で淡く輝く琥珀色は、半身が遺した欠片だ。深く傷付いた魂を閉じて、鍾離は幾千年もの間「姉」を守り続けてきた。彼女が目覚める日を、独りで待ち続けて。姉がいないことは孤独なのだと、そう思うことは過ちではない。過ちではないと、信じたかった。神の座を降り、凡人になったら叶えたかった我儘。とてもささやかで、どこまでも欲深い願い。姉に会いたい。彼を守って琥珀の欠片になってしまった彼女に、もうひと目だけでも会いたい。七神の座についた『モラクス』には、彼女に体を与えることくらい造作もないことだった。けれど、強大な力を持つ神であるがゆえにモラクスは躊躇った。魂だけの存在になった姉神に体を与え、この世に顕現させる。それは戦火の中で命を失った姉を、再び神々のしがらみの中に捕らえてしまう行為なのではないだろうかと。優しいひとだった。優しさに見合わない、大きな力を持っていた。その気になれば、自分と自分の民だけを結界の中に閉じ込めて戦争が終結するまで引き篭ってしまえるような、そんな力を持っていた。それでも、共に安寧の地を築きたいとついてきてくれたのだ。自分が皆の盾になると、華奢な体でいつも最前線に立っていた。そうして、弟の盾になって砕けてしまった。砕け散った姉の体を浜辺で拾い集めたときの絶望は、幾千年の時が経とうとも褪せることはない。そのままでは消えてしまうであろう魂を石珀に閉じ込めて、モラクスは理解したのだ。姉は今やっと、望まぬ争いから解放されたのだと。神の座に昇ったとき、彼は独りだった。幸か不幸か、姉の存在は広く知られてはいなかった。なまじ双子で権能も似通っていたから、後世に下るにつれ姉は弟と同一視され伝承もモラクスのものとして吸収されていったのだ。表舞台に、戦場に立つことを望まなかった片割れ。それでも、弟のために共に来てくれた姉。自分の願望だけで、再びこの世に引き戻しても良いものか。あの優しい人をまた、しがらみや因縁の中に引き摺り込むのか。硬度も靱性も低く脆い貴石のようなあの人に、神の責を共に担わせるのか。あの人はもう充分、片割れのために意に染まぬことを引き受けてくれたのに。
――それでも、ただの人になれたなら。
ただ幸せに生きてもらうために呼び起こすのなら、許されるだろうか。否、姉は許してくれる。きっと許してしまう。たった一人の片割れのために、その細腕で弓まで引いて。そんな姉は、鍾離のことを何があっても許してしまうだろう。神の責とて、二人で担ってくれたはずの優しいひとだ。だからこそ鍾離は、彼女を起こすのが怖かった。彼女が再び神となって、再び鍾離を守って死ぬことが怖かった。それ故に今日まで、ただ姉を守り続けた。神の座を降りる、この日まで。
「……朝です、姉上」
あまりに永かった夜が、明ける。公子や淑女は知るまい、女皇とて知らないはずだ。旅人には、いずれ引き合せるつもりでいるが。数千年もの間守り続けてきた琥珀に、元素の力を込める。ぴしりと亀裂が走った石の表面から、眩い光が溢れ出た。
「姉上、それは食べ物ではない」
「んむ?」
「口寂しいなら、これはどうだ? 彼女のことは放してやってくれ」
「そんなのんびり、止める気あるのかよ! 鍾離ぃ!」
目の前の光景に何をどうしたものか、旅人は途方に暮れた。にこにこと、鷹揚な笑みを浮かべる鍾離。暴れ回って抗議するパイモン。そして、そのパイモンをがっしりと掴んで柔らかそうな頬をあぐあぐと食んでいる幼女。常日頃非常食とはからかっていたが、まさか本当にパイモンが捕食される日が来るとは。お菓子を差し出しながら優しく促している鍾離だが、遠慮も容赦も知らない幼児がその程度で今まさにかぶりついている獲物から手を離すことなどあるまい。『姉上』とやらが最高の相棒を食べてしまう前にと、旅人は小さく息を吐いて乱暴にならないように幼女からパイモンを引き剥がした。
「助かったぜ、旅人ぉ! お前なら助けてくれるって信じてたぞ!」
「むぅ……」
「パイモンは大事な非常食だから、食べないでくれると嬉しいな」
「ん……『ひじょーしょく』、わかった……」
「おい! お前もそれで納得するなよ!」
未練たっぷりに旅人の腕の中のパイモンをじっと見上げていた幼女だが、旅人が腰をかがめて言い聞かせると案外素直に頷く。鍾離に促されて「たべようとして、ごめんなさい」とぺこりと頭を下げた幼女の純粋さに、パイモンはぐぬぬと唸りながらもあっさりと矛を収めていた。元より、深く根に持つタイプではないのだ。幼女を膝の上に抱えた鍾離が、その口に飴玉を放り込んで旅人たちに視線を向ける。幼女の振る舞いを代わりに詫びた鍾離は、ころころと大人しく口の中で飴を転がす幼女を抱き直して微笑んだ。
「紹介しよう、旅人、パイモン。彼女は。俺の姉上だ」
「姉……?」
「妹の間違いじゃなくてか? ていうか、『モラクス』にきょうだいがいるなんて話は聞いたことないぞ!」
「話せば長くなるが……本当に姉なんだ」
いわく、遥か昔の魔神戦争時代に体を失ったのだそうだ。半ば封印ともいっていい状態で、この数千年眠り続けていたらしい。凡人としての生を得た鍾離が、共に生きていくために与えた肉体。成長という過程を踏むための体は、幼児としての形を成した。あるいは自分の願望が強く現れてしまったが故の顕現かもしれないと、鍾離は言う。彼が与えうる全ての祝福と幸福を、愛しい人に。そう願ったことが影響して幼子の姿で肉体を得てしまったのかもしれないと、鍾離は珍しく影のある笑みを見せた。
「それでも、鍾離はお姉さんを助けたよ」
「そうだぜ! それに、子どもはいっぱい遊べて楽しいぞ」
「……ああ、そうだな。ありがとう」
よしよしと、が鍾離の頭を撫でる。鍾離が言うには、彼女には『生前』の記憶そのものはあるらしい。自分が鍾離の姉であることも、自覚している。ただ肉体の年齢に精神が引き摺られているため、それらの実感は薄いようで。しばらくは『姉』の養育に注力するつもりだと、鍾離は言う。学問も花も音楽も、ありとあらゆる一流の教養を与えたいと。身につけるものも食べるものも、何一つ苦労しないようにしながら大切に育てるのだと。
「姉上がいなければ、俺と璃月はこのような形では存在していなかっただろう。待たせた年月の分、成せることは全て尽くしたい」
「……金銭感覚だけは鍾離から受け継がないようにしないとね」
「そうだな! 鍾離みたいに、いつもモラを持ってないお嬢様に育ったら大変だぞ!」
「ははっ、そうだな。だからお前たちにも、姉上と接してやってほしいんだ」
くりくりとした琥珀色の瞳が、旅人とパイモンを興味深く見つめている。幼子ながらに、人の本質をよく見ているのだと鍾離は言った。そして、できるだけ『善い人間』との関わりを持たせたいのだと。その言葉で旅人が悟ったのは、自分たちも鍾離の選んだ『一級品』であるということだ。服飾も日用品も娯楽も、身の回りのもの全てにおいてその審美眼を発揮しこだわり抜いたものを選ぶ岩王帝君。その彼が選んだ、姉と関わらせるに相応しい人間。きっとそれは、保護者としては当たり前の感情なのだろう。けれどどこか、危うい。岩神がその数千年の想いをたった一人に懸けることの危うさを、今旅人だけが正しく危惧していた。まさしく掌中の珠のように、鍾離はを真綿に包んで慈しんでいる。が身に纏っている服、髪や肌の状態を見ただけでもわかるほどの溺愛ぶりに、気が遠くなるほどの年月が育んだ想いを垣間見た。一点物の貴石を、傷一つつけさせまいと柔らかな敷布に乗せて玻璃の箱に仕舞い込むような。確かに、これは彼の願望なのかもしれない。自らに与えうる全てを与えて、何一つ過たない幸せな一生を描き直す。常人には望んだところで成し得ないことを、実現してしまう力があるのだからなおのこと性質が悪かった。
「……、」
「どうした? 旅人」
「ううん、何でもない」
源氏物語、と口の中で旅人は小さく呟く。とある世界で目にした物語、その光源氏と若紫のごとき箱庭。けれど純粋で世間知らずのように見えて案外老獪な岩神にそれを言うのは憚られて、旅人は黙って首を横に振った。きっと鍾離は、自分と姉の関係が健全なものに見えないことなど承知の上で自分たちに引き合わせている。片割れと離れ離れになっているが故に旅人が彼らに同情してしまうことも、きっと織り込み済みなのだ。契約と公正の神が、私欲を優先させる唯一の相手。生半可な気持ちで首を突っ込んでは必ず後悔する羽目になると、旅人は正しく察していたのだった。
210607