「しょう!」
 ぶんぶんと大きく手を振る、琥珀色の目の少女。その出で立ちは幼く、声は記憶にあるものより幼い。けれど魈にはすぐに解った。その赤墨の髪の少女が、彼が仕えた双子の片割れであるのだと。かつて失った尊い人が目の前にいると理解するより早く、魈の瞳からはぼろぼろと大粒の涙が溢れ出していた。

「しょう、もう、痛いない……?」
「……はい、様。取り乱してしまい、申し訳ありません」
「あやまるの、いらないよ? しょう、やさしいから泣いてくれたの」
 鍾離から預けられた小さな体を壊れ物のようにそっと抱いて、魈は幼い姿になった主君の言葉に目を細める。鍾離の話では見かけ相応に精神年齢は下がっているということだが、その心根は優しかったのまま変わらない。清心の花をお土産に摘んできたのだと、無邪気な笑みは冬に浴びる陽射しのように暖かかった。伸ばされた小さな手を、怖々と握り返す。魈が守るべきで、守れなかった人。一度は、失ってしまった人。今目の前にいるが、腕の中の温もりが、本当にここにあるのだと理解すれば涙脆くもないのにまた目頭が熱くなるのを感じた。
「ありがとうございます、鍾離様……様と、再び引き合わせてくださって……」
「いや、むしろ遅くなってすまなかった。俺が迷い続けていたばかりに……」
「そのようなことは……帝君の、御心があったのでしょう。我はただ、再び様にお会いできたことを喜ぶのみです」
 恐縮して頭を下げる魈だが、その言葉に偽りはない。自分は一介の夜叉に過ぎない。それも、かつてをむざむざと死なせてしまった。そんな自分を咎めないばかりか、こうして再び引き合わせてくれて。尊いひとに触れ、言葉を交わすことまで許してくれている。いくら感謝を捧げても足りないのに、なぜもっと早く会わせてくれなかったのかなどと鍾離を責めることはありえないだろう。柔らかく、脆く小さな人の子の体。戦線で体を張っていたあの頃よりも、今のはずっとずっと壊れやすい。蝶よりも花よりも丁重に扱わなければと緊張している魈の心を知ってか知らずか、は無邪気に魈の腕の中でキャッキャと晶蝶に手を伸ばしている。そのもみじのような柔く壊れやすそうな手を見ていると、何と形容したらいいのかわからない感情で胸がいっぱいになった。
様、」
「?」
 不敬だとはわかっているが、今回限りだと胸の内で誰にともなく言い訳をしてを抱える腕に力を込める。ぎゅっと、自分より小さな幼子に縋るような姿は夜叉として仙人としてあまりにも無様だろう。それでも、腕の中の温もりに心だとかそういうものが揺れ動くのを感じる。役割を果たす存在であればそれでいいのだと、この人の前でだけは言えなかった。

「りーゆえ、きれい」
「姉上にそう言っていただけて、この地も喜んでいるでしょう」
 魈の元を訪れた帰り道、天衡山から璃月港を見下ろして姉弟は静かに言葉を交わしていた。璃月の地には多くの逸話が残るが、その中にはモラクスのものとされたの功績もある。けれど自分と同じように、姉はさして自身の功績に執着は無いのだろう。むしろ弟が『岩王帝君』と呼ばれ、表向きは死した今も民に慕われていると知ってこの上なく幸せそうに笑ってくれた。幼子の体となり精神も幼くなっていようと、悲しくなるほど変わらない笑顔。姉にとっては今もまだ、弟と民の幸せこそが自身の幸せなのだ。それは嬉しいことでもあり、少しだけ哀しいことでもある。もう自分のためだけに生きていいというのに、小さな姉にとってはまだ鍾離も璃月も守るべきものなのだ。深く雄大で、大地のように寛い愛。姿形が変わろうと本質は変わらないものだと、かの風神に頑固ジジイと評される自身を省みてそういうところも姉弟なのだと苦笑が漏れた。
「姉上は、仙人に戻りたいでしょうか」
「ううん」
 姉には、自分と同じ凡人としての生を用意した。当たり前のようにそうしたけれど、今日魈と会ったはどこか遠くを見るような目をしていたから。飽きるほどにこの地で生きた自分とは違い、姉は自分で守ったこの地を巡るのに十分な時間が残されているとは言い難い。だからこその問いかけだったが、は驚くほどあっさりと首を横に振る。そして、繋いだ手をぎゅっと握り締めて自分よりはるかに大きい弟を見上げた。
「せんにんでも、ぼんじんでも、しょーりと一緒がいい」
「姉上……」
「ねえさんはいつでも、しょーりと一緒だよ」
 向けられた、柔い笑み。無邪気な幼子の姿をしていても、やはりなのだ。いつだって弟を一番にしてくれて、弟の望みに寄り添おうとしてくれる姉。かつてを喪った鍾離にはそれが切なくて哀しくて、けれどどうしようもなく愛おしい。旅人とともに送仙儀式の準備をしていたとき、あの香膏を前に鍾離が何を思ったのかは知るまい。鍾離は、を送るための儀式をついに行えないままだった。を知る旧友がひとりまたひとりと世を去っていく中、鍾離がのための送仙儀式を行ってしまえばそれがという存在の終わりになってしまいそうで。鍾離は摂理を重んじる神ではあるが、唯一姉のことに関してだけは子どものような我儘を通し続けたのだ。鍾離を咎める者は、誰もいなかった。当事者である姉でさえ、何の躊躇いもなく鍾離を許してしまうのだろう。片割れのいない孤独に耐えられなかった、愚かな弟を。
「姉上、俺とひとつだけ約束をしてくださいますか」
「うん、いいよ」
 そうやってまた、は鍾離を簡単に許してしまう。約束の内容を問おうとせず、あっさりと承諾してしまって。は決して、愚かさや幼さからそうしているのではない。相手が鍾離だから、こうして全てを受け入れようとするのだ。今は鍾離だけの小さな神さま。弟の全てを愛して受け入れようとする、愛しい姉神。
「俺と共にいてください。俺と共に、今世を全うしてください」
 ゆっくりと目を瞬いたが、くりくりとした大きな目を笑みの形に細める。溢れんばかりの慈愛に満ちたその笑みが、鍾離の願いに対する答えだった。契約というよりは請願に近いそれを受け入れたは、鍾離の頬に手を伸ばす。幼子特有の柔らかい掌に撫でられて、幾千年の時が穿った胸の空虚を温かいものが満たしていくのを感じた。今度は本当に、最後まで一緒に。この美しい世界で、半身と共に人としての生を全うするのだ。いかなる富にも代えられない、尊い時間。鍾離は今きっと、まことの幸いと呼べるものを腕に抱いているに違いなかった。
 
210705
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