姉は優しい人だった。優しくて聡いから、人として生きて死ぬことをささやかに望んでいた。そんなを神仙への道へと誘ったのは、弟であるモラクスである。
 『姉上、どうか俺の願いをお聞き届けください』
 今の璃月の民が見れば我が目を疑うような、惨めな哀願。なりふり構わず、ただ姉に縋り、彼は涙を流して乞うた。
 『姉上がいなくては、俺は独りでは生きてゆかれないのです。どうか、どうか俺と永きを共に歩んでください、姉上。俺と共に、神座に登ってください』
 そのたおやかな両の手を包み込むように掴み、足元に跪いて、ただただ乞うた。平凡に、それでも誠実に生を全うしようとしていた姉を、波乱に満ちた永き道へと引き摺り込んだ。彼は解っていたのだ、姉が自分の頼みに頷いてくれることを。優しい姉は、可哀想な弟を独りにできないことを。大地の片隅で、ありふれた幸せを育んで人として死ぬはずだった。彼女が自身の幸福よりも弟の望みを優先してしまう人だとわかっていて、モラクスはに縋った。彼は許せなかったのだ。姉が、自らの創るだろう幸福な世に生きていないことを。どこぞの平々凡々な男と結ばれ、その子を産んで老いさばらえ死んでいくことを。許せない、許せるはずがない。そんなことを、許してはならないのだ。モラクスが槍を手に取ったのは、姉の笑顔を守りたかったからだ。彼女のいない世でひとり神座に坐すのは、あまりにも虚しい。という片割れは、モラクスにとって初めての栄光であり富であり愛だった。彼女を喪うことは、磐石の大地が消え去るに等しい。どうしても傍にいてほしくて、手段を選ばなかった。たとえ仙人となるための道が険しくとも、魔神の戦いに巻き込もうとも、守り切るから隣にいてほしいと願ってしまったのだ。
 ――愚かな帝君。
 姉が砕けた日から、何度も夢を見る。と出会えるだけで幸福な夢だと定義すべきなのに、悪夢と言わざるを得ない苦しい夢。一度も彼に向けたことのないような冷たい目で、は突き放した尊称で弟を呼ぶのだ。私などがあなたの傍にいられるわけがなかったのにと、弱い姉を戦禍に引きずり込んだ愚かな弟を詰る。いっそそれが現実なら良かった。がそうして罵って、責めてくれたなら。けれど夢に現れる彼女は虚像だ。ただ彼の恐れる言葉を突き付けてくるだけで、応えることも縋ることもできない。もう解放してほしいと、姉の顔がくしゃりと歪む。疲れ切った顔で、は弟に手折られた花のような笑みを向けた。
 ――やっと、いなくなれると思ったのに。

 がばりと、布団を跳ね除けるほどの勢いで起き上がる。久々に見た、姉の夢。を取り戻してからは、見ることもなくなっていたというのに。今現実に存在する姉の温もりが恋しくて、寝具の中で姉の姿を探す。小さくなったの安全のためにと同衾しているが、本当は鍾離が安心したいためでしかないのだろう。すぐに手のひらに柔らかい温もりが触れて、鍾離は安堵の息を吐いた。
「しょーり……?」
「起こしてしまいましたか、姉上」
 申し訳ありません、と頬を撫でる鍾離にはふるふると首を振る。だいじょうぶ、と拙い発音で答えるは眠そうではあったが、尋常ではない様子の弟のことを心配して瞼をこじ開けようとしていた。自分は大丈夫だから眠っていていいのだと言っても、むずかるようにそれを拒絶するのがこの優しい姉なる人だ。艶のある琥珀のような瞳が、ゆらゆらと揺らめきながら鍾離を映す。さらさらとした絹の寝間着の裾が顔に触れて、が鍾離の頭を撫でていることに気付いた。
「だいじょうぶ、しょーり」
「…………」
「ねえさんがいるよ」
 姉にまた会えたなら、苦しみから解放されて二人で生きていけると思っていた。それなのに、切なさが恐ろしく募っていく。失うことが怖くて、幻滅されることが怖くて、ずっと縋っていたくなる。今度は自分が守らなければならないのに、小さく脆くなった姉にさえ未だに守られている。いったい自分はどうしたら、この姉を守ることができるのだろう。いっそ琥珀の中にまた閉じ込めてしまった方が、よほど安心できるのかもしれなかった。柔らかい手のひらが、鍾離の肩に触れる。幼子特有のもちもちとした頬が、ふにりと鍾離のそれに擦り寄った。
「だいじょうぶ」
「……姉上」
「わたし、しょーりと一緒」
 脈の速さも、体温も同じ体。髪の色も瞳の色も同じで、きっと血の色も寸分変わらず同じ赤なのだろう。姉はいつも、鍾離の苦しみや悲しみを半分背負おうとする。双子だから、片割れだから、分かち合って生きていこうと。喜びも幸せも、弟に共有しようとしてくれる。分け合えばより嬉しくなるのだと、笑ってそう言った。
「しょーりがひとりでさびしいとき、わたしもさびしかった。また会えて、うれしかったの。おんなじ、しょーり」
「……はい」
「ねえさんもおんなじだよ、しょーり。『ふたご』だもの」
「そうですね、姉上。俺と貴女は、同じです」
 姉にはきっと、自分の抱くような黒く汚い感情は存在しない。自分はきっと、姉ほど優しくはなれない。それでも、同じだと鍾離の頭を抱き締める姉の言葉を肯定した。この温もりが鍾離を『同じ』だと言うのなら、それが正しいのだ。
 ほどけた絹糸のような手触りの髪をくしゃりと撫でて、綺麗な丸い頭をそっと押さえる。姉に頬を寄せ返して、慈しむように唇で触れた。の望むことは、何だろう。姉は優しいから、鍾離の望みを全て受け入れてくれる。自分だって姉の望みを全て叶えてあげたいのに、鍾離の望みが自分の望みだと言って姉は笑うのだ。あの優しすぎる塩の神を見たとき、ほんの少しだけ姉を重ねた。へウリアを愚かだと思いながらもその願いを聞き入れたのは、姉の願いを何一つ叶えられなかった負い目があるからかもしれなかった。けれど鍾離は恐ろしい。もし姉が、自分から離れることを願ったとしたら。もう疲れたのだと、新しい人生を終わらせることを望んだら。鍾離はそれを叶えてやれない。何でも叶えてあげたいと嘯きながら、結局は自分の傍にいてほしいという望みが優先なのだ。ちっとも、同じではない。優しい姉と優しくなれない鍾離は、少しも同じではないのだ。
「姉上、欲しいものはありませんか。行きたいところは……」
「しょーりがぜんぶくれるから、今すぐは思いつかないよ?」
 満たされているのだと、幸せなのだと、は鍾離の頭を撫でながらゆっくりと言う。それはまるで幼子に言い聞かせるようで、情けないはずなのにひどく心地良い。は、どこまで許してくれるのだろう。鍾離のすることなら、すべて受け入れてくれるのだろうか。
「……姉上」
「うん、しょーり」
「俺の全てを差し上げます。俺に残された、人としての生の全てを」
「しょーり……?」
「代わりに、姉上の人生を賜りたいのです。姉上の全てを、俺にお与えください」
 ぱちりと、大きな琥珀が瞼に隠されて瞬く。鍾離の言葉をゆっくりと噛み砕いたは、にこりと笑った。
「ねえさんは、ずっとしょーりのだよ?」
「姉上……」
「ずっと、ぜんぶ、しょーりの。わたし、しょーりのねえさんだもの」
 花が綻ぶような、可憐な笑み。それでいて、慈しみや愛の籠った優しい笑み。幾星霜の時を経て、鍾離の元へと戻ってきた愛しい片割れ。果たして彼女は、鍾離の抱くあまりに重い感情を理解した上で呑み込んでいるのだろうか。伝わっていてほしい反面、一生知らずにいてほしいとも思う。姉はこれからどんな貴石よりも美しい女人へと成長する。鍾離の目に誰よりも愛おしく麗しく映っていた女性へと成長する過程を、これから余すところなく傍で見ていられるのだ。果たして鍾離はその時、赤い衣を用意せずにいられるだろうか。生まれてからずっと片割れだった人を、これからも共に生きていく伴侶として望まずにいられるだろうか。そんなわけがないと知っているのに、姉に自らの気持ちを悟られるのが怖い。結局は、嫌われるのが恐ろしいのだ。姉にとって鍾離はいつまでも「弟」である。家族愛を逸脱した情愛すらも、は許してくれるのだろうか。
「姉上……姉上、」
 子どもをあやすように、小さな手のひらがぽんぽんと鍾離の頭を撫でる。幼い姉に縋って眠ることを恥とも思えないから、きっと鍾離はいつまでも「弟」なのだろう。
 
221005
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