キバナがそれに気付いたのは、辺りが暗くなっていく中ワイルドエリアを抜けるために急いでいる時のことだった。ジムチャレンジの旅の中、次のジム戦のために特訓に励んでいたのだが熱が入りすぎた。キバナはまだ旅立ったばかりで、腕に覚えがあると言っても単純な力量で言えば我が物顔でワイルドエリアを闊歩する大きな体の野生個体たちには及ばない。手持ちも疲弊しているし、完全に夜になる前にはエンジンシティに戻りたかった。薄闇は、生き物とそうでないもののの輪郭を曖昧にする。恐れ知らずで傲岸不遜な振る舞いも偽りではないが、一方慎重で理性的な側面も持ち合わせるキバナだ。幼い竜のように慎重に、わずかに過ぎる不安を押し殺しながら出口を目指していた。そんなふうに警戒しながら歩いているとき、チカッと視界の端で明滅した光。反射的に身構えたのも、致し方のないことだろう。握っていたボールを不用意に投げないように自制しながら、何かが光った方に視線を向ける。周囲が暗くなる中では、その光を見つけるのはあまりに容易かった。チカチカと、存在を示すように明滅を繰り返す光。あんなふうに目立っては、すぐに他の野生ポケモンたちに気付かれるだろうに。知性の高いポケモンの罠か、と理性はあれを無視して素通りすべきだと訴える。けれど直感は、まるでその光の明滅が焦っているようにすら思えてしまったのだ。例えるなら、SOS。幼さゆえの正義感と好奇心、それと無謀さが合わさって、ナックラーの入ったボールを握りつつもジリジリとキバナはその光へと近付いていた。
「……っ、……」
 はたしてそれは、正解だったのだろう。不気味なくらい静まり返った草むらの中で、ヒューヒューと危うく聞こえる呼吸は明らかに異状を訴えていた。ようやく視界に映った光源は、普通草むらにはいないはずのチョンチーで。わずかに見えた小さな人影に、事態を理解し警戒をかなぐり捨てて駆け出す。体調を崩して動けないトレーナーと、その主人のために危険を犯しながらも助けを求めているポケモンがいるのだ。ガサガサと草むらを分け入って近付くと、泣きそうな顔をしたチョンチーと目が合った気がした。
「おい、大丈夫かよ!」
「……ぅ、」
 胸を抑えて、苦しげに呼吸をする少女。人が来たことでSOSの光を止めたチョンチーが、パタパタと小さなヒレをばたつかせた。チョンチーのその行動はキバナの注意を引いて、足元に落ちていたカバンに気付かせる。必死にカバンのポケットを叩くチョンチーに、この事態の解決の鍵を見出して。「悪いけど開けるぞ!」と少女に声をかけ、チョンチーの示したポケットを開ければ「発作用」と油性ペンで書かれたビンが転がった。考える間もなくその蓋を開け、ラベルを読んで中の錠剤を2つ取り出す。自分のカバンから水筒を取り出し、少女を抱き起こして唇に錠剤を押し込んだ。反射で吐き出そうとする少女に声をかけて宥めながら、唇を湿らせるように水を含ませる。緊張の中少しずつ水を飲ませて見守っていれば、聞いている者を不安にさせるような危うい呼吸音は段々落ち着いていく。
 なぜかキバナの方がほっとして、緊張の汗を拭っていた。チョンチーの短く柔らかいヒレでは、薬を取り出すことも飲ませてやることもできなかったのだろう。治まっていく緊張の代わりにふつふつと湧いてくるのは、怒りにも似た感情だ。同年代で、旅装。おそらくはキバナと同じようにジムチャレンジャーなのだろうが、薬を常備するような発作を持っているのならばどうして介助できる人やポケモンを傍に置くこともなくワイルドエリアに踏み込んだのか。こんなにチョンチーを心配させて、トレーナーとしての自覚がなっていない。自分が見つけたからいいものの、心無いトレーナーもどきや凶暴な野生ポケモンが寄ってきたらどうするつもりだったのか。言いたいことは色々あったが、見下ろした青白い顔は腹が立つほど綺麗で。悔しいことに、どきりとさせられた。目が覚めたらデコピンでもしてやらないと腹の虫が収まらないと思いつつも、最後まで助けてやるのが人助けだと肩を貸す形で立ち上がる。ちょうどその時背後からガサリと音が聞こえ、キバナはぎょっとして振り返った。
「……!!」
 どうして両手が塞がる前に手持ちをボールから出しておかなかったのかと、真っ先に過ぎったのは後悔だった。これでは少女のことを言っていられない。こちらを覗き込んでいるのは、見た目ばかりは愛らしいキテルグマだった。不気味なほどつぶらな瞳が、じっとキバナたちを見据えている。まともに戦っても勝ち目はない以前に、ポケモンを出すのとキテルグマがキバナたちに襲いかかるのとどちらが早いか。チョンチーは自分の言うことを聞いてくれるだろうか。けれど、どんな技を覚えているか――
「……カメール、」
 振り上げられたキテルグマの腕。走馬灯が垣間見えた気もしたが、振り絞るような声に応えて飛び出した影に目を奪われた。凶悪な一撃に吹き飛ばされたかと思ったが、「まもる」を使っていたのかけろっと立ち上がる。「でんじは、……えんまく、」ぽつぽつと耳元に落ちるような声なのに、チョンチーと更にもうひとつの影が指示に応えて技を出す。行動を阻害されたキテルグマが煙幕の中に押し込められ、その黒い煙の中にピッピ人形が投げ込まれた。支えていたはずの体になけなしの力が込もり、くいっと裾を引かれる。組み損なった二人三脚のような姿勢で走り出してようやく、隣の少女が意識を取り戻してポケモンたちに指示を出したのだと理解した。「おい、」何か言おうとするものの、本当に引っ張っているのか疑ってしまうような弱い力で裾を引かれる。本人的には、有無を言わせず走れと促しているつもりなのだろう。危機的状況の中、アドレナリンで脳をごまかして走るだけでもう本当はキャパオーバーなのだ。何か一言でも言葉を発したりして糸が切れてしまえば、きっとその場に倒れ込んでしまうのだろう。そう理解して、強く一歩を踏み出す。逆に引き摺って走ってやるくらいでなければ、負けたような気がした。
「――大丈夫!? 君たち」
 弾丸のように飛び込んできた子どもたちに、ワイルドエリアの職員は驚いて手を差し伸べる。安全な場所まで来たのだと、その声にどっと膝を着く。未だかつてないほどの全力疾走に、心臓がばくばくと大抗議だった。
「ッ、もう……二度と、やんねー……」
「…………」
 隣で声もなく気絶した少女の様子を感じ取って、馬鹿らしい話だがこの駆けっこでは「勝利」したのだと謎の確信があった。小さくガッツポーズをして、キバナの意識も遠のく。焦ったように呼びかけるスタッフに、自分は気が抜けただけだと息も絶え絶えに伝えた。
「このバカの方、お願いします……」
 おそらく呼吸器に問題があるだろうに、発作の直後に全力疾走。致し方なかったとはいえ、少女に何かあっては今回のことが徒労に終わる。スタッフが少女のカバンについていたカードのようなものを見て、他のスタッフを呼びながら処置を始めたのを薄目に見る。こんなわけのわからない出会いが、少女――との腐れ縁の始まりだった。

「……アイツ、どこですか」
 決して、心配して来たワケではない。だからその微笑ましそうな表情はやめてもらいたい。ショップで道具を買い足したキバナは、ニコニコとやたら優しい目を向けてくるポケモンセンターのお姉さんに「アイツ」の部屋番号を尋ねた。チョンチーもカメールも、それから煙幕を出していたタッツーもちゃんと一緒に逃げて来たのは確認している。本人もとうとう緊張の糸が切れただけで、再び発作を起こしたりはしていないが大事をとってセンターに運ばれたことも。だから、これは文句を言いに来ただけだ。「良いお友達ができてちゃんも安心ね」などと――
「アイツ、っていうの?」
「そう、ちゃん。センターにはよく来るだろうからって、街に着いて一番に挨拶に来てくれたわ」
 意外ときちんとしているらしい。カバンについていたカードも、自分の発作や緊急連絡先、処置の方法などについてわかりやすく簡潔に書かれていたらしかった。意識が無いのにセンターへの搬送がスムーズだったのも、事前に話を通してあったから。そんなに手堅いくせにどうしてあんなことになっていたのかと、キバナは首を傾げる。文句は当初の半分くらいにしてやるかと、フードの中に入っているナックラーに話しかける。ナックラーはよくわかっていなそうに、あのキテルグマとは違って本当に可愛いつぶらな瞳をキバナに向けた。
「――あ、恩人さん」
「……おう、恩人サマが来てやったぞ」
 目的の部屋に着くと、案外元気そうなに迎えられた。その腕の中で、チョンチーが歓迎するようにゆっくりと光を明滅させる。不躾なキバナの言葉に気を害した様子もなく、「本当にありがとう」と言うはキバナに好奇心すら向けているように思えた。出会いが出会いだっただけに何とも気の抜けるその様子に、半分に減らしてやった文句が更に半分ほどになったのを感じる。落ち着いたところで見たその顔が、やっぱり可愛らしかったというのも大きいだろう。キバナとて、年頃の男の子であった。
「お前、抜けてんの? 用意周到そうなのにあんなとこでひとりで発作起こしてさ」
「うーん……人とはいたんだけど、はぐれちゃって」
「……おい、連れとはぐれたならそいつを捜索……」
「さっきスタッフさんが探したら、スボミーインにいたらしいから大丈夫だよ」
「は? 何がどうなってんだ、それ」
 経緯が全く読めず、ぽやぽやとした物言いに呆れつつ根気強く聞き出したところ、まずもっては「幼馴染」と一緒に旅をしていたらしい。呼吸器疾患はあるものの、その幼馴染といつも行動を共にしていて大事に至ったことはないそうだ。今日も、その幼馴染の発案でワイルドエリアに一緒に出かけて。けれど集合時間になっても、幼馴染は約束の場所に現れない。探しに行くべきかスタッフを呼びに行くか迷っているうちに、運悪く発作が起きて。後はキバナの知っている通りだ。センターに運ばれたは真っ先に幼馴染の安否確認を訴え、スタッフがホテルで寝ていた幼馴染の姿を確認した。
「それってさ、お前……」
 置いてかれたんじゃねえの? とは、さすがのキバナも言いかねた。病弱な子と、その「お世話係」。今までとその幼馴染がどういう関係だったのかは初対面のキバナにも察せるし、一方的に健康な側が負担する苦労を思えば嫌になるのもわからなくもない。けれど、体が弱いとわかっている相手を危険な場所に故意に置き去りにするのは違うだろう。直接「もう付き合いきれない」と告げる勇気がなかったのだとしても、せめてこの街に置いていくべきだった。ポケモンの恐怖を知りながらもポケモンを愛するキバナにしてみれば、ワイルドエリアを姥捨山のように使うことへの嫌悪感が先に立った。
「しかたないよ」
 案外馬鹿ではないらしいは、大した諦観も滲ませずにあっけらかんと笑う。幼馴染に苦労をかけていた自覚も、それに甘えていた罪悪感も、卑怯な逃げ方をした幼馴染への憤りも、何もかも置き去りにした笑顔だった。空っぽで、けれど痛ましさを感じさせない。
「それより、これからはカメールをボールから出しておくようにしないと」
 あの時は気付かなかったが、キテルグマの姿を見て咄嗟にボールから出せただけでカメールはいつもはボールの中にいたらしい。確かに、の手持ちで咄嗟に薬を飲ませることができる手を持っているのはカメールくらいだろう。薬もビンではなく、ケースにして取り出しやすいようにしなければとはあっさり幼馴染のいない旅を受け入れてこれからのことを考えている。誰かに頼らなければいけない生き物のくせに、妙なしぶとさや強さを感じさせる。相手によっては一種の劣等感を感じさせる嫌な人間だと、数年後のキバナは彼女をそう評することになる。
「水タイプばっかりだな」
「好きなの、水タイプ」
「そういうこだわりは嫌いじゃねーけど」
「それに水タイプなら、一緒に泳げるんだよ」
「泳ぐの? お前が?」
「私、泳ぐのは得意なんだよ。水の中ならずっといられる」
「……お前が水タイプなんじゃねえの。実はエラ呼吸だったりする?」
 結局、頭の中にあった文句は半分の半分も口から出てくることはなかった。病弱そうなくせに能天気で明るいとの会話が、思ったよりも面白かったのもある。深窓の令嬢のような、大人しそうで可愛らしい外見に反して好奇心旺盛で即断即決。キテルグマへの対応で見せたように頭の回転が早く、ルールのない野生との戦いでは必要に応じてトレーナーバトルでは許されない手段をとることにも迷いがない。病弱とは思えないほど、あるいは病弱だからか、生き残ることに関してはどうにもキバナより二枚も三枚も上手のようだった。
「そういえば恩人さん、お名前何だっけ?」
「そういうとこだよなぁ……」
 今更、とてつもなく今更。この他人に興味のなさそうなところが、ますます劣等感を刺激するのだろう。初対面にも関わらず、キバナは既にの欠点をよく理解し始めていた。
「キバナだよ。ご覧の通り、今年チャンピオンになる予定のジムチャレンジャー」
「じゃあキバナくん、ライバルだね」
「オレさまのライバルの座は安くねえよ?」
 軽口を叩き合いながらも、既に「こいつとは上手くやっていけそうだ」という確信めいたものがあった。病人にありがちな卑屈さも悲観も持っていないところだとか、意外な逞しさだとか、(それと顔の良さだとか、)後から理由はいくらでもつけれるのだろうけれど。人が人を好きになるのに、本当は理屈なんてものはないのだろう。様子を見に来た看護師にいい加減に帰れと追い出されるまで、キバナはと数年来の友人のように語り合ったのだった。
 
220908
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