「変わりはないか、我が婚約者殿」
 紳士然とした態度、優しい声色。自分を見下ろす瞳は穏やかで、差し出された手は壊れ物を扱うかのようにの手を引いてくれる。そんなふうに触れられて、頬に血が集まるのがわかる。政略結婚の相手だとわかってはいるが、例え作り物だとしても向けられた温かさは本物なのだ。
「は、はいっ、変わりありませんの!」
 上擦った声で即答すると、品の良い笑い声が俯いたの耳に届いた。するりと優しく持ち上げられた手に、温かいものが触れる。
「婚約者殿は相変わらず小さい」
 指を、手の甲を、爪を。慈しむように撫でて。形のいい唇が、そっと押し当てられる。「大切にしなければな」と笑みを含んだ声で紡がれた言葉は、右から左に通り過ぎていった。
「ぴ……」
 胸がどきどきとうるさいのは、残念ながらときめきによるものではない。もっと直接的に本能に訴える緊張、すなわち恐怖であった。
(た、食べられる……)
 誰がどう見てもシルバーアッシュのそれは婚約者への甘やかなスキンシップなのだが、唯一だけが勘違いをしている。レム・ビリトン有数の鉱石採掘企業のお嬢様にして、ヴィクトリアの女子校で高等教育を受けた生粋の箱入り娘。帰国したときには既に、イェラグを治める三貴族の一角であるシルバーアッシュ家当主との婚約が決まっていて。男慣れという言葉と無縁の彼女は、自分に向けられた好意をまるで理解していなかった。コータス族とフェリーン族。鳴兎と雪豹。エンシオディス・シルバーアッシュは年上の優しい婚約者ではあったが、にしてみれば絶対的強者であり「捕食者」で。いつか食われるという危惧自体はある意味間違っていないのだが、彼女が感じているそれは免疫のなさ故か生命の危機に直結していた。
 ――拝啓、故郷のお父様、お母様。
 気が遠くなるのを感じながら、は笑顔で自分を送り出してくれた両親を思う。
 ――今日もシルバーアッシュ様が毛艶を褒めてくださいました。毛並みには健康状態が表れますから、肉の質を気にしてらっしゃるのでしょう。
 単純に、彼はふわふわとしたの髪や耳に触れるのを気に入っているだけである。こんな調子で、はシルバーアッシュからのアプローチを尽く誤解していた。小さいと言われれば可食部が少ないということかと震え、食事に連れ出されては肥えろということかと怯え。その優しさすらも、品質管理の一環と勘違いしているのだ。実のところこの婚約はシルバーアッシュの一目惚れによって成り立ったものなのだが、肝心のにばかり好意が正しく伝わっていない。けれどシルバーアッシュはそれをもわかっていて楽しんでいるようで、遠い目をしたを面白そうに見守っていた。
「今日は流行のハーブティーを取り寄せている。婚約者殿の口に合えば良いが」
(ハーブ肉製造……!?)
 最近はどうにも、の反応をわかっていて遊んでいるふしがあった。

「おいしいです、シルバーアッシュ様」
「それはよかった。気に入ったのなら定期的に取り寄せよう」
 それでも、あれだけビクビクしておきながら自分の行動に絆されて頬を緩めるところが可愛いとシルバーアッシュは思っていた。ちょろい、もとい純粋で健気である。自分のためだけに取り寄せなどしなくて大丈夫だと慄きながらも、「私がそうしたいだけだ」と笑みを向ければ赤くなって蚊の鳴くような声で礼を口にする。実際シルバーアッシュはがこの屋敷でつつがなく過ごせるように心を砕くことに疎ましさなど微塵もなく、むしろ楽しさを見出していた。婚約者としてをイェラグに連れて来て屋敷に留め置いているのに、シルバーアッシュ自身は何かと多忙の身で屋敷に「帰る」というよりも「顔を出す」という言葉が相応しい状態になってしまっている。ひとり故郷を離れ慣れない環境に戸惑っているであろうに、未来の家族として寄り添うことすらできていない。ならばせめてがここでの暮らしに心細さを感じないようにと尽くすことは当たり前のことなのに、は恐縮して有難がるのだ。はレム・ビリトンの出身だが、ヴィクトリアに留学していた期間が長く本人の気質や趣味嗜好はむしろヴィクトリア人のそれに近い。だが世間知らずの深窓の令嬢というわけでもなく、自国の環境や自身の身の上をシビアに客観視する一面も持っていた。経営者の娘として育てられた故の冷徹な損得勘定と、恋愛結婚など自分にはありえないことだと理解し受け入れている現実主義。そんな女性だから婚姻を結んだときに得られるのは彼女の実家に関わる利益だけではなく、得難い配偶者という人材でもあるのだと周囲を納得させたが。実のところとの婚姻がもたらす利益などすべて後付けの理由で、シルバーアッシュを動かしたのはヴィクトリアでの一目惚れだった。かの地にいたときに直接彼女に接触を図ったことは一度もなかったし、さも数多ある伴侶候補の中から最良の相手を選んだという体裁には整えている。帰国して告げられた婚約者の名は彼女にとっては初耳であっただろうし、実際彼女はシルバーアッシュのことを何も知らなかった。シルバーアッシュも、それでいいと思っている。種族の違いや年齢差、それぞれの立場に戸惑うことこそあれどは婚約者を愛そうと努力してくれている。鳴兎と雪豹という、ある意味捕食関係にあるせいか本能的な恐怖は拭えないようだが。それでもシルバーアッシュの示す好意に健気に応えようとしている様はいじらしいし、身の危険を感じるらしいのに彼から逃げようとする様子は微塵もない。彼女なりに、覚悟を決めて人生を委ねてくれている。それだけで、彼の淡い恋は十分すぎるほどに報われていた。
「菓子はどうだ? 婚約者殿のお気に召したと聞いて、部下がまた腕を奮ったのだが」
「お、おいしいです……あの、とても!」
「そうか、それは何よりだ」
「部下さんにも、よろしくお伝えくださいまし……!」
 サクサクと上品ながらも夢中になってクッキーを食べ進めていくを見て、マッターホルンには特別賞与を用意しておこうとシルバーアッシュは思った。娯楽的な意味での食に乏しいイェラグで、彼は本当によく働いてくれている。正直なところ、マッターホルンがいなければに提供できる茶菓子は相当に侘しいものとなっていただろう。彼女であれば実家から嗜好品を融通することも可能であろうが、さすがにそれは無礼なことだと思って自重してしまうだろうしシルバーアッシュの甲斐性も疑われてしまう。今は代理人に実務を任せているものも多いようだが自身も幾つか事業を抱えているようで、令嬢というよりは実業家同士での結婚という印象であった。
「あの、私の顔に何か……?」
 おそるおそるといった様子で、がシルバーアッシュに問いかける。ただクッキーを食べ進めるが愛らしくてじっと見つめていただけだが、そう本心を吐露したところでは信じてくれないだろう。根本的に彼女はシルバーアッシュに対して恋情を微塵も期待していないのだ。だから向けられる好意に慄いて、曲解して、頓珍漢な結論に辿り着いてしまう。ザラックとよく間違えられるのだと苦笑していた短い耳が、ぴこぴこと可愛らしく揺れていた。
「婚約者殿の愛らしさに見惚れていただけだ」
「ひえ……」
 赤くなるのではなく青ざめているというのが面白くもあり悲しいことでもあるが、少なくともシルバーアッシュは今この関係に満足できている。いずれは彼女との信頼も育めるだろうと、想い人が手の内にある余裕からシルバーアッシュは微笑んで茶に口をつけたのだった。
 
210804
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