気持ちの悪い女だ。表情が読めないと評判の火傷跡の下で、ノートン・キャンベルはという女を見るたびにそう思っていた。シスター。庭師や心眼が、事あるごとに無邪気な笑顔で彼女に駆け寄っていくのを目にする。知識があって他人のために労力をかけることを厭わない彼女は医師や心理学者の手伝いに重宝されているし、機械技師のこちらに理解させる気を微塵も感じない早口に穏やかな笑みで頷いているのもしばしば見かける。人慣れない納棺師ですら彼女には一定の敬意のようなものを抱いているように見えたし、墓守はひと言も言葉を発しないくせによく彼女と向かい合って「お話」している姿を目にした。とにかく、彼女はシスターの名に相応しく滅私の姿勢を崩さず他人に尽くし続けている。荘園に訪れてから、ずっと。ノートンにはそれが、たまらなく気味が悪く思えて仕方がない。
(こんなところで慈善活動をして、何の得になるのだろう)
 初めは、彼女が愚かなのだと思った。きっと教会の人間に良いように神の愛を説かれて、それを信じきって愚直に隣人愛に尽くす幼稚で馬鹿な女なのだと。ゲームが長引いて夕食を食いっぱぐれた夜、同じく腹を空かせているくせに躊躇うことなくパンをまるまる差し出したに、ある種の親切心からそれを口にしたのだ。
「僕はどこの教会に喜捨をすべき?」
 あの、まんまるに目を見開いた間抜けな顔が忘れられない。そう、いくらなんでも気付くと思ったのだ。この荘園では、誰も彼女の『隣人愛』とやらに対価を払う人間などいないのだと。彼女はノートンの基準で言えば、搾取される側の貧しい者だ。いくら真面目に、無私の心とやらで働いても、正当な報酬は支払われずにずる賢い人間の懐が膨らむだけ。そしてここにはもう、彼女の奉仕の対価を吸い上げる者すらいない。だからこんな一銭の得にもならない善など売っていないで、恩を売ればいいのだ。それは、無知な元同類を導いてやろうとする傲慢だったのだろう。もう少し賢くなって、搾取する側に回ればいい。その愛らしい容姿も気立ての良さも、今まで散々利用されてきたのだろうから。別に、教会が嫌いなわけではない。彼らは神の愛とやらを建前に人々から施しを受け、その恵みの範囲で慎ましく生活をする。自らでは生活を成り立たせられない弱い女子供の逃げ場が必要なことはわかっているし、人々に説く清貧を自分たちで実施しているのなら「誰かの善意で腹を満たしておいて贅沢をしやがって」などと憤ることもない。ただ、はもう教会を自分の意思で出て行ける歳だ。何を間違ったのか、こんな荘園に来てしまったようだが。それでももう、教会に身を置いていた時のように常に善意を振り撒いていなければ批判されるようなこともない。ここではゲームの勝敗が全てで、「善い人」であるか否かなど関係ないのだから。教会の人間としての処世術や振る舞いなど捨ててしまってもいいのだと、そう告げたはずのノートンは彼女の返答に凍りつくはめになった。
「喜捨だなんて、そんな。キャンベルさんのお腹が満たされることで、この身も満たされますから」
 彼女は、骨の髄から聖職者だった。隣人愛にこそ満たされ、欲心なく他者に尽くすことができる。愚かなことよりタチが悪く、幼稚であることよりも手に負えない。きっと彼女は、修道着などに身を包んでおらずとも素面で神の存在を説ける人種なのだろう。つまるところ、ノートンが最も苦手とする類の人間だ。彼は、自分に恥じ入るという感覚がまだ残っていたことに感心せざるを得なかった。顔と腹に熱が集まって、それが不快感となって胃に落ちていく。自分は、この女に恥をかかされたのだ。自分が賢いと自惚れていた傲慢さを、善意でラッピングして目の前に差し出されたようなものだ。その日ノートンは、深夜に夢を見て吐いた。あの女に施しを受けたパンが、ドロドロと気持ちの悪い流動体になって便器に流れていく。それ以来ノートンは、あの澄んだ瞳の前で自分が薄汚れた犯罪者であることが赤裸々になっているような錯覚に取り憑かれるようになった。それは不快であり、また憎悪だった。あの気色の悪い女に、二度と近づくまいと。パンの借りを多少リスキーな風船救助と肉壁で返したノートンは、それ以来一切シスターに話しかけもしなかったのだ。
「おはようございます、ミスター・キャンベル」
「……何してるの」
「お祈りです。キャンベルさんもご一緒されますか?」
 無邪気な問いかけに「ああ」とも「いや」ともつかない吐息を返して、ノートンはさっさと踵を返す。掃除だの食事の支度だの、そういった奉仕活動はナイチンゲールがやんわりと断るのだと以前が頬に手を当てていたのを覚えている。畢竟暇人となった彼女は、朝早くに目が覚めてしまうことでできた時間をこうして祈るために浪費しているらしかった。聖書にいわく祈る姿は人にひけらかすものではないそうだから、自分の部屋の隅で祈っていればよいものを。けれど遠慮がちに自分を呼び止めた声に、ノートンは眉を寄せた。
「キャンベルさんも、お祈りをされるんですね」
「……はぁ」
 朝の散歩になど出た自分が、愚かなのだろう。自分の足音が遠ざかっていることなどわかるだろうに、盲目の少女はノートンを呼び止めた。ついで、能天気な笑顔を浮かべたエマも歓迎の言葉を口にする。その横には苦笑を浮かべた医師の姿もあり、つまるところこれは朝のお祈りの集まりらしい。女の花園にお邪魔するのも、と適当な断り文句を考えるものの団結した女性の押しに逆らう方が面倒だと処世に慣れたノートンの算盤は素早く答えを弾き出す。内心ため息を吐きながらも輪の中に入れば、茂みの中に何故か野人ことモウロがいたのだから驚かされた。「人と行動することに慣れる、リハビリのようなものよ」とエミリーに耳打ちされ、納得したようなどうでもいいような気持ちになった。適当に目を閉じて祈っているような体裁を取り繕うと、庭園の片隅に独特の静寂が下りる。あくまでシスターであって神父ではないが主導する祈りの時間は本来のそれよりも自由で、めいめいが好きなように好きなことを祈っているらしい。モウロなど、祈りどころか猪にもたれて穏やかな寝息を立てているだけだ。けれど、確かに今この場には安寧の空気が流れているのだろう。すべてを慈しんで受け入れるを慕って人が集まり、自ら神に祈りを寄せる。ああ、まったくお綺麗なことだ。人間など、皆同じだと思って生きてきたのに。聖職者であっても建前を守って生きているだけで、腹の底は薄汚いノートンと同じ生き物だと。打算と外面で皆生きていると、当たり前のように思って生きてきたノートンにしてみればは珍種であり異形だった。人の業が引き起こした不幸の煮凝りのようなハンターたちより、よほどおぞましい。こんな人間がいていいものか。こんな、打算も外面もない綺麗すぎる生き物が人間を名乗っていいものか。ひっそりと目を開けたノートンは、炭鉱の闇よりなお昏い眼差しをに向ける。朝の光の中できらめくような白い肌と、まっすぐに背筋を伸ばすその身の折れそうな細さ。神の愛を一身に受けたようなその女の在り方が、疎ましくて仕方がなかった。
 
211006
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