幼い頃、姉はディルックの世界のほとんどを占めていた。父はもちろんディルックのことを愛してくれたが、貴族という称号こそなくともラグヴィンドはモンドに責任を持つ名家であり、子どもには少し寂しく思える愛し方をする人だった。些か内向的でおっとりとした子どもであったディルックにとって、優しく穏やかな姉は甘やかな幸福だったのだ。姉はいつもそのたっぷりとしたスカートと艶やかな長い髪でディルックを隠れさせてくれたし、自分の服の裾を握り締めてダメにしてしまう弟を厭うこともなく愛情を注いでくれた。言葉が足りなくても姉はいつだってディルックのことを一番理解してくれて、さして歳も変わらないというのに母親のように深く愛して必要なものを全て与えようとしてくれた。とて誰かに甘えたい年頃であっただろうに、弟が年長者から受けるべき愛情を優先してくれたのだ。ディルックはワイナリーを継ぐ者として酒も飲めないうちから酒造業の何たるかを学んでいたが、子どもであることを差し引いても酒に責任以上の大した興味を持てず。ただ、姉の髪のように深く綺麗な赤色だけは彼の関心を惹いた。姉の名を冠するワインが造られると聞いた時だけは、その名に恥じないものを造らねばといつになくやる気を出したものだ。の成人の誕生日に開けられる予定のワインは、ひんやりとした酒蔵で眠っている。
「ディルック、お父様が呼んでるわ」
「姉上……」
 姉は美しい人だ。姉に手を引かれて歩くとき、ディルックはいつも姉に見惚れて少しぼんやりしている。ディルックや父の髪と瞳は燃え盛る炎のようだと喩えられるが、姉のそれは炎の緋色とはまた違った深みを持っていた。血のようだと喩えた使用人はその不穏な言葉選びを咎められていたが、ディルックも内心その表現が適切だと思うのだ。少し暗くて、目を逸らせなくなる深みを持つ紅。深緑の色を好んで身に付けるはその色合いと美しさから「ラグヴィンドの薔薇」と謳われ、その名声に恥じない教養と気品を幼い頃から身につけていた。モンドは自由の国であり、王侯貴族は存在しない。それでもが「赤薔薇の姫君」と慕われていたのは、その容貌と優美さゆえだろう。そんな姉が、ディルックをいちばんの宝物として愛して慈しんでくれる。姉の膝で昼寝をするのも、その白魚のような指で撫でられるのも、すべてディルックだけに与えられた特権だったのだ。最年少で神の目を発現し、騎士になるべく己が身を鍛えることに不満などない。立派な当主である父の背を追うことは、ディルックにとって確かな喜びだった。けれどその責任や重圧に臆病にならずにいられたのは、姉がひとりの子どもとしてディルックを愛してくれたからだ。確かな寄る辺があったから、ディルックは才能に驕ることも期待に押し潰されることもなく、「ラグヴィンドの若き騎士」と「可愛いディル」のどちらの自分も忘れずにいられた。そんなディルックに転機が訪れたのは、ガイアという少年がラグヴィンドに養子として迎えられた日のことだ。人懐っこく、利発でやんちゃな少年。父が拾った褐色の肌に青い髪の少年は、姉の片手を瞬く間に独占したのだ。姉さん姉さんと、くるくるとよく変わる表情での関心を惹いて。ディルックがしがみついていない方の手は、ガイアが繋いでいるのが当たり前になった。ディルックが、ガイアを疎ましいと思ったことはない。尊敬する父であるクリプスが、生みの親に捨てられたガイアを引き取ったことは立派な行いだと思っている。ガイアは妬みや羨望の対象ではなく、ディルックにないものをたくさん持ち合わせた信頼できる弟だった。けれど、それでも姉だけは少しも取られたくなかったのだ。それはきっと、相手がガイアでなくとも同じことだった。姉にとっては、年下の家族は皆庇護して愛すべきものだ。だからこそ自分は今まで、姉の宝物でいられた。ディルックは姉の宝物でなくなったわけではない、けれどもう唯一ではない。「ガイア」と優しい声で姉が義弟の名を呼んで頬についた土を払う、なんてことのない光景にディルックは大きなショックを受けてしまったのだ。
最初は、自らの狭量さを恥じた。ガイアは不憫な子どもだ。親に捨てられ、名家の養子という不安定な立場にありながら笑みを絶やさず、立場相応の努力を忘れない。それをおもちゃを取られる子どものように駄々をこねて姉を独占したがるのは、多くを持つ者として恥ずべき行いだろうと。ガイアが托卵された雛のようにラグヴィンドの姉弟を利用しようとするならまだしも、彼は本当に良い義弟だったのだ。ガイアの義兄としてもの弟としても、ディルックが大人になるべきだ。そう言い聞かせているのに、日に日に独占欲は大きくなっていく。姉の手を引いてあちこちに連れ出してやるガイアの姿を見るたびに、言いようのない黒い感情がどろりと胸の奥に澱んだ。ディルックの傍にいる時は見せたことのない、悪戯っぽい笑顔や頬を膨らませて拗ねる顔。子どもっぽい表情を姉がほとんどしなかったのはディルックのためだったと理解していても、羨ましさと妬ましさは静かに募っていく。ディルックとガイアではただ性格が違うだけだと、理性的な判断はできていた。ディルックは「いい子」で大人しく優しい子で、外を駆け回るより姉の膝で本を読むことを好んだ。そんなディルックだから姉は包み込むようにディルックを守り愛してくれたし、そちらの愛はガイアには得られない。わかっていても、感情ばかりはどうしようもない。けれど姉に叱られたいからといってガイアのように羽目を外したやんちゃをすることはできなかったし、姉を心配させるようなことはしたくなかった。それに、ガイアが来てからディルックが時折寂しそうな表情をすることに気付いて、はディルックをそれまで以上に甘やかに慈しんでくれたのだ。決して、新しい弟のためにディルックを蔑ろにしないと、言葉でも態度でも示してくれていた。それ以上を望むのは、我儘だとわかっていた。
如何ともし難い感情を解決することはできないまま、やがてガイアと共に西風騎士団の門を叩いてからはその嫉妬も少しはましになった。何しろ、二人とも騎士団の生活に忙しくてと会う機会自体が減ったのだ。姉と過ごす時間が減ったことは寂しいが、ガイアと姉が並ぶ姿を見てモヤモヤとした感情に苛まれることもない。弟が手から離れて、も自らの事業を始めるようになった。香油や香水の製造をこじんまりと始めたは、すぐにモンドの少女たちの憧れの的となった。ラグヴィンドの薔薇と呼ばれるに相応しい、優美で可憐な姫君。モンドで最も美しくたおやかなラグヴィンドの令嬢が手がけたと聞きつけて、その名に敬愛や憧憬を抱く少女たちはラグヴィンドの新事業の間接的な後援者となったのだ。ワイナリーこそ継がないもののもまたクリプスに教えを受けた経営者であり、自身のファンとも言えるモンドの若い女性を潜在的な購買層として認識していた。姉は自身の二つ名を「身に余ること」と恥じらってはいたが、それはそれとして自分自身すら事業の看板に躊躇いなく使う強かさを有していて。モンドの一般的な女性が負担なく継続的に購入できる価格でありながら、自身が顧客と会話をしながら要望を取り入れて調香することで特別感を売りとする。ラグヴィンドの名と財力が背景にあってこそできるやり方ではあったが、そう長くもかからずに家業と経営を分離させたのだから本人の実力も大きかったのだろう。騎士団にいても姉の名は毎日のように聞いたし、ディルックにはそれがとても誇らしくもあり少し寂しいことだった。自分たちはこうして大人になって、少しずつ離れていくのだろうか。ガイアといえばあれほど姉さん姉さんと懐いていたくせに、恋人や姉妹にねだられての商品を融通してくれないかと頼んでくる先輩騎士に交換条件を持ちかけて酒を手に入れたりなどしている。「薔薇の贈り物ギフト」というブランドは、今や花束やケーキと同じくらい女性に対するプレゼントの定番となっているのだ。姉の商品を酒と引き換えにするなど、とディルックは呆れたものの、それでもガイアは守るべき一線は守っている。赤薔薇の令嬢とお近付きになりたいという不届き者も、自分たち兄弟には寄ってくるのだ。けれどガイアが相手にしてやるのは家族や恋人の機嫌を損ねまいとする健気な男だけで、美と財力を兼ね備えた才媛への下心を持った不埒な男は煙に巻いて追い払ってしまう。そういうところを目にしていたから、家に帰るたびにガイアがに新商品のサンプルをねだっていても目こぼししてやっていたのだ。そうでなければ、姉に要らぬ手間をかけさせるなと拳骨を振り下ろしていただろう。は経営者として優秀なわりに身内に対してはぽやんと天然じみて何も疑わないところがあったから、弟の可愛いおねだりに過分なほど応えてやっていたが。「気になる女の子ができたの?」「デートが成功したら教えてね」などと嬉しそうにはしゃぎながら、ラッピングまでしてたくさんの土産を持たせているにディルックは実際のことを言うに言えなかった。ガイアは確かにディルックが比べ物にならないほど女性との付き合いが上手かったが、それは「女の扱いが上手い」と表現するのが適切な、あまり純粋に思えないお付き合い――言ってしまえば、ガイアにとって恋愛ごっこは彼が楽しんでいる危険な遊びのひとつでもあり、同時に彼を満足させる危険のための情報源でもあった。ガイアは確かにの商品を円滑な人付き合いの道具にしていたが、その人をそういった「遊び」の対象にすることはなく。が自分たち兄弟のために作った、控えめな香りの整髪料をガイアが酒や情報に換えることは決して無かったから、ディルックから義弟への信頼は変わらなかったし多少の「悪さ」も黙認していた。同時に、あれだけの付き合いがあってもガイアにとっても姉だけが特別なように思えて不安にもなったが。ともかく、一抹の寂しさや不安を抱えながらも自分たち姉弟の関係はうまく続いていたのだ。いずれは立派な騎士になって、父に認められて姉もモンドも守る。その時はきっと、手に負えないが信頼できるこの弟に背中を預けられるだろうと。そう、思っていた。
「二人とも、剣を下ろしなさい」
 炎と氷の傷を受けて、それでも姉は毅然と立っていた。流れる血も、不揃いに斬られてしまった髪すらも姉の美貌を損ねはしなかった。姉を巻き込み、剣をその身に受けさせてしまったことに呆然とするディルック。二人の間に姉が割って入ったことを理解はしても、その無惨な姿に回転の速いはずの思考が追いつかないガイア。クリプスの死を受け、邪眼の存在と自らの無力さを知って。ガイアが明かした秘密は今のディルックが受け入れるには重く、ガイアが神の目を手にしたことも二人の衝突を激しくさせただけだった。ガイアもまた、ディルックの怒りを予想しながらも秘密を隠し続けることはしなかったのだ。雨の音に紛れ、ぶつかり合う感情を何と呼ぶべきなのか。本人たちも或いは、わかっていなかったのもしれない。ただどうしようもなくて、それでもぶつかり合わずにはいられなくて、全力で剣を交えた。その結果が、これだ。ふたりにとって特別に大切な人が、血を流している。守るべき剣で、守りたかったはずの人を傷付けた。薔薇の赤でも、葡萄酒の赤でもない。の髪や瞳のような、深い赤。まさに血の色であるその赤が、彼女の青白いまでに白い肌を染めていた。肌を氷に裂かれ、その身に火傷を負って。弟を甘やかし愛していた姉が、初めて見せる厳しい表情。喪服に包まれながらも翳ることのない美しさが、いっそ恐ろしかった。
「剣を下ろしなさい。ディルック、ガイア」
 宥めるように頬を撫でることも、膝を折って目線を合わせることもない。そもそも、二人はの身長をとうに越してしまっていた。姉を巻き込んでしまったことに呆然とする弟たちを見据えて、燃え盛るような瞳はそれでも怒りではなく悲しみを映していた。気圧されるように剣を収めたふたりに、はやっと表情を緩めて。ふっと笑うと、花の折れるようにその場に倒れてしまった。

 ディルックが神の目を捨て、邪眼を携えて七国を放浪する旅に出たのはが意識を取り戻して間もなくの頃だった。ガイアも、が問題なく生活できるようになるのを見届けるとラグヴィンドの家を出て。は自らの事業を畳み、当主代理としてクリプス亡き後のアカツキワイナリーを支えた。痛ましい傷をその身に抱えてはいても薔薇の名は衰えなかったが、は「弟の継ぐ家を守らなければならないから」と嫁ぐことも婿を迎えることも拒否して独りラグヴィンドに残っていた。先代当主の不穏な死と、次期当主が不在のまま傷物の令嬢が守る家。アカツキワイナリーとラグヴィンドはクリプスの代の名声と栄光を翳らせていたが、没落こそはせず造酒の名家であり続けた。それは当主代理のの尽力でもあり、家を出たもののラグヴィンドを気にかけているガイアの根回しによるものでもあり、家門を支える者たちの力でもあり、モンドの人々からラグヴィンドに寄せられる信頼や敬愛によるものでもあった。若き当主が旅から戻り、姉からその座を譲り受けたのち瞬く間にアカツキワイナリーは立ち直った。当主でありオーナーとなった青年は前にも増して寡黙で気難しくなっていたが、その辣腕は多少の性格的な難をものともせず。酒を好まず酒に弱いという、酒造業のオーナーとして致命的な弱点をおくびにも出さずディルックは当主としての責務を果たし続けた。ディルックが放浪の旅で何を見たのか、変わらず愛する姉にすら彼は語らない。ガイアが露呈させた、裏切りともいえる秘密すらも彼は姉に話していない。ディルックはただ、もう姉に苦しんでほしくないのだ。二度と傷付けたくない、二度と苦しめたくない。守るはずの人を傷付けて逃げ出すように旅に出て、姉に重い責務を担わせた。好きだった調香の道も、捨てさせて。ガイアが西風教会のシスターたちを定期的に向かわせてくれていたが、姉の肌に残った傷は消えないそうだ。火傷と凍傷を抱えた嫁き遅れ、それがラグヴィンドの薔薇と謳われた人の現在だ。否、その肌に傷が残ろうとの美しさは揺らがない。けれどその傷の経緯を頑として誰にも話さず、は人前に姿を現さなくなった。弟が家を継いで代理の任を退いてからは、ますます外に出ることもなくなって。ひっそりと調香を再開しつつも、以前のように対面でのオーダーメイドではなく人を通して種類を限定した既製品を売るに留めている。それでも薔薇ギフトの人気は大したもので、未だにモンド人女性にとっての憧れといえば赤薔薇の君を指すのだが。
「姉上、庭園に行きませんか」
 ワイナリーを立て直したディルックは、その財力を使っていくつもの庭園を作った。異国の花も取り寄せては、土壌の改良を繰り返して定着を図っている。姉のためだけの庭園は、この寂しい人の心を少し慰めたようだった。本来星拾いの崖にしか咲かないセシリアの花が咲く庭園もディルックの所有だが、ディルックの心情としては姉のものだと思っている。は当主である弟からのいかなる財産の譲渡にも頷かなかったけれど、それでもディルックの傍にいてくれた。旅から帰ってきた弟を何も聞かずに受け入れ、当然のように当主の座を返し、静かに暮らしている。姉が強い感情を示したのは弟たちが衝突したあの雨の夜だけで、今は幼い頃と変わらない甘やかな慈愛を与えてくれるのだ。適当な良い人を選んで結婚しようとした姉を止めたのはディルックで、傍にいてほしいという弟の我儘に頷いたはこの屋敷で暮らしてくれている。姉は鈍いけれど愚かではなく、父の死や弟たちの出奔に何らかの不穏な事情があったことを察していて口を噤んでいた。ディルックもガイアも、それを知っていてをここに留め置いている。自分たちが傷付けて縛り付けたくせに、未だにどこにも行かずにいてほしいのだ。姉にとっても、父は寄る辺であり愛する家族だった。あんな形で父を失い、真実を知ることもなく蚊帳の外のまま弟たちの争いに割って入って傷を負って。それでも、弟たちを自分の宝物でいさせてくれる。優しくて、悲しい人だ。
「お仕事はいいの? ディルック」
「姉上と散歩をする時間はあります」
 いつだって。その言葉は飲み込んで、ディルックは姉の腰を抱いて手を取った。姉が人前に出なくなったのは、服にほとんど隠れる傷の醜さを恥じてのことではない。単純に、火傷や凍傷のせいで以前より動けなくなったのだ。こんな状態の姉に当主の任を押し付けて放浪したのは恥ずべきことだが、ディルックはただ逃げたわけではなく成すべきことがあった。ガイアとてそうだ。それでも、自分たちは姉に償い続けるべきだろう。姉がそれを望んでいなくても、自分たちが姉にしたことは取り返しがつかないことなのだ。けれど、ディルックはもう二度と姉にガイアを近付けたくない。やっとディルックだけの姉に戻ってくれたを、もう誰にも譲りたくなかった。今のはモンドの華やかな薔薇ではなく、人々にその名を称えられこそすれ表舞台に上がることはない。ラグヴィンドの家がディルックのものならば、その薔薇もディルックのものでいいはずだろう。本当は、ずっとディルックだけの姉でいてほしかった。ガイアが姉さんと呼ぶのも嫌だった。その両手とも、ディルックのためだけに空けておいてほしかった。名声など、得なくてよかった。不埒な男が姉の名を口にするたび、その舌を焼き切ってやりたくなった。姉に散々迷惑をかけたけれど、今までもずっと甘えてきたけれど、これからはいい子にするから。当主としての役目も、家門を守る責務も、この先はずっと自分が担ってみせるから。だから、自分の我儘をもう一つだけ許してほしい。誰にも手折られないで、ただディルックだけを弟と呼んで愛して。幼いときに言えなかった我儘は、すっかり拗れて肥大化してしまっていた。今なら叶えられるのだ。今のディルックなら、すべてを叶えられる。が、頷いてさえくれれば。
「昔みたいに呼んでください、姉上」
「……可愛いディル、私の宝物」
「もっと、呼んでください。姉上にずっと、そう呼ばれていたい」
 ディルックが望めば、叶えてくれる。優しくて、愛おしい人。望めば、ずっと傍にいてくれるだろうか。もう一人の弟にもモンドの人々にも笑いかけずに、自分だけに優しくしてくれと願えば叶えてくれるだろうか。なら、そんな大それた我儘すら許してくれそうな気がした。ラグヴィンドの薔薇と名付けられた葡萄酒は、流通を許せなくて自分と姉だけのものにした。酒が飲めないのに、どうしても姉の名を冠したそれを市場に流通させたくなかったのだ。ガイアにすら、その酒は渡していない。「誰にもあげないでください」と乞うたディルックに頷いたは、それを弟の可愛いヤキモチだと思っているのだろう。本当に、身内に対しては鈍感で危機感のない人だ。そもそも実姉にこんな感情を抱いていることなど、思いもよらないのだろうけれど。
飲めない酒でも、誰にも譲る気はない。結ばれることが許されないひとでも、誰かに譲る気などない。一生、自分が大切にする。はきっと、許してくれるだろう。自分はもう姉の唯一の宝物ではないが、いちばんの宝物であることに変わりはないのだから。認められたい、褒められたい、可愛がられたい。そんな子どもじみた欲求を、姉に許してほしいのだ。これは恋なのだろうか。それともただの独占欲なのだろうか。こんな感情を抱く自分が許せなくて、それなのに想いを捨てられない。いっそガイアが羨ましい。こんなものは無いものねだりだとわかっていても、と男女の関係になれることが妬ましくてたまらない。けれど、の弟であることがディルックの喜びであり誇りであることも確かなのだ。そして何より、はディルックが弟だからこそここにいてくれる。自分たちは、今やたった二人のラグヴィンドだ。頼るべき父を亡くしたからこそ、姉は弟に寄り添ってくれる。それは、『弟』だから許されていることだ。姉と他人に生まれることなど考えたくもないほどに血の繋がりが愛おしくて、けれどそれ故に苦しくて。つらくて苦しいのだと言えば、姉は息を分け与えてくれるだろうか。美しく無垢な花を眺めながら思い浮かぶのはそんな不埒な考えで、自嘲じみた笑みを浮かべれば姉が気遣わしげにディルックの頬に手を伸ばす。目元を撫ぜるその指先の感触が心地よくて、思わず手を取って頬をすり寄せた。くすくすと笑う姉にとって、いつまでも自分は小さく可愛い弟なのだろう。それでもいいような、それでは不満なような、どちらともつかない感情が胸に凝った。姉があの時自分を背に庇うような形になったのは、偶然だろうか。それとも、無意識でもガイアよりディルックを優先してくれたのだろうか。きっとそうだと、ディルックは信じている。だって自分は、のいちばんの宝物だ。姉に弟としてしか見られていないことは苦痛でもあったが、それすら利用できる強かさを今のディルックは身につけていた。今はただ、がディルックだけの姉でいてくれればいい。同じ想いを返してくれなくていい。ただ、弟のお願いを聞いていてくれれば。気持ちを誤魔化しながらでも、一生傍にいてくれたならそれがディルックの幸福だ。他のことは何一つ過たないから、姉に対する想いの過ちだけは自分に許そう。無理にいい子でいなくていいのだと、かつての姉も言ってくれたから。他には何も我儘を言わない、ただ姉がいてくれればそれでいい。ちゃんと『ディルック・ラグヴィンド』としての責務を果たすから、はディルックの姉としてここにいてほしい。もうどこにも行かないから。もう二度と、姉をひとりぼっちにしないから。だから見捨てないで。ひとりにしないで。他の誰も見ないで、ディルックだけの姉でいて。花が愛しいのなら庭園を、星が恋しいのなら空さえ捧げてみせるから。
「傷は痛まないですか、姉上」
「大丈夫よ、少しも痛まないから」
 それが嘘であることを、ディルックは知っている。姉はいつも、弟たちの残した傷の痛みに苛まれているから。ディルックが残した火傷が脚を痛ませていることに喜びを感じていることなど、到底言えるはずもなかった。
 
211130
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