「それを採ってもいいが、少し残しておいてくれないか」
「おわぁッ!? なんだよ、ディルックかぁ〜……」
「びっくりした」
 アカツキワイナリーの周辺で採集に勤しんでいた旅人とパイモンは、突如背後から話しかけられたことに驚いて飛び上がる。もっとも旅人の表情はいつものようにしれっとしていて、本当に驚いているのかわからなかったが。彼らに声をかけたのは、アカツキワイナリーの若きオーナーであり、モンドの闇夜の英雄ことディルックだ。旅人以上の無表情で、彼らが採っていた風車アスターを見下ろしていた。
「あ〜……そういや、この辺りはお前の土地だったっけか……」
「採ったらまずかった?」
「いや、それは構わない。自然に生えているものだからね」
「おう、太っ腹だな!」
「いくつか残しておいてくれれば、それでいい。全部なくなってしまうと、少し困るだけだ」
 それだけ言って、あとは好きにしろとでも言いたげにディルックは踵を返してしまう。顔を見合わせたパイモンと旅人は、はたと気付いたようにディルックを引き止めた。
「なぁなぁ! お前って、花も詳しいのか?」
「……どうだろうな。人並みには」
「聞きたいことがあって……『ラグヴィンドの薔薇』って、知ってる?」
「ラグヴィンド、ってお前の家の名前だろ? お前んちに咲いてる薔薇なんじゃないかって、探しに来たんだ!」
 見た目よりは案外親切な青年は、旅人たちの発した単語にぴたりと動きを止める。顔を上げたディルックの目が予想以上に鋭く、パイモンはぎくりと身を竦めた。
「な、なんだよ……そんな怖い顔して」
「どこでそれを?」
「やっぱり、ディルックの家にあるの?」
 首を傾げる旅人に、含むものがないとわかっているのだろう。ため息を吐いたディルックの目からは、もう殺気にも似た鋭さは消え去っていた。「あいつか」と苦い顔をして、「ついてこい」と今度こそ歩き出す。
「『ラグヴィンドの薔薇』は――」
 どうにも、ディルックは旅人が誰から依頼を受けたのかまでお見通しらしい。ちらりと旅人を振り向いた彼の目は、旅人ではなくその背後を見るように眇られた。
「確かに僕の家に『ある』。そして、僕の家に『いる』」
「? なんだ、謎かけみたいなこと言って……」
 不可思議な言葉選びに、旅人とパイモンは首を傾げる。けれどもうディルックはそれ以上説明する気はないようで、旅人たちは黙って彼の後を追ったのだった。

「はじめまして、旅人さん。パイモンさん。ディルックの姉の、と申します」
「え、ええ〜……?」
「はじめまして……?」
 栄誉騎士様のお噂はかねがね、と美しい所作で膝を折ったのは白いブラウスに深緑のスカートの綺麗な女性だった。本人が言うように、ディルックの血縁であることは艶やかな赤い髪とあどけなくも端正な顔立ちを見ればひと目でわかる。思わず二人とも困惑を露わにしてしまったが、失礼にならないように挨拶をやり直す。気にしたふうもなくぶどうジュースを勧めるに、パイモンはすっかり薔薇のことなど忘れてはしゃいでいた。と視線を合わせただけで静かに傍にやってきた侍女が、飲み物やお菓子の指示を受けて動き出す。ディルックも優美で洗練された貴公子であったが、もまた気品ある所作を身に付けた優雅な令嬢だった。ただ立って言葉を交わしただけの少しの間で、その育ちの良さが見て取れる。ディルックがモンドの無冠の王と称えられるのなら、彼女は姫君だろう。一朝一夕では身につかない、骨の髄まで優美さを叩き込まれたがゆえの気品。指先まで洗練された雰囲気を纏う令嬢が椅子を引いてくれて、旅人は思わず真っ先にディルックの表情を窺ってしまった。案の定というべきか、ディルックは甲斐甲斐しく客人の世話をしようとする姉に眉間の皺を寄せている。正直彼にとってこの状況は不本意なのだと、旅人をさっさと席につかせ姉の椅子を丁寧に引いたディルックの仏頂面は雄弁に語っていた。
・ラグヴィンド……君たちがお探しの、『ラグヴィンドの薔薇』だ」
 あら、とは口元に手を当てて含羞む。照れくさそうに笑いながら「その名を聞いていらしたの?」と小首を傾げた。さらりと揺れた、深い赤の髪。ブラウスの胸元を飾るリボンも耳に煌めくピアスも、裾の長いスカートも綺麗な深緑で。なるほど、と旅人は頷く。確かに目の前のご令嬢は、薔薇を想起させる色合いと美しさだ。薔薇の魔女と呼ばれるリサとは、また異なる魅力を有している。紫電の薔薇は蠱惑でもあり畏怖でもあるが、ラグヴィンドの赤薔薇はただ暁に咲くだけだ。棘すら自ら捨て去った赤薔薇を守るのは、黎明を導く炎なのだろう。弟たちとは違い神の目も有していないし、剣も持ったことがない。そう言って笑うは、けれど薔薇と賞賛されるに相応しい優美さと人柄を兼ね備えている。けれど、と旅人は疑問に思う。ぶどうジュースのコップを抱いて並ぶ菓子を吟味していたパイモンも、思い出したように口を開いた。
「『ラグヴィンドの薔薇』って、人だったのか!? ガイアが『持ってきてほしい』って言うから、てっきり花、だと……あ、」
「パイモン……」
「いい、薄々察しはついていた。アイツが君たちにまで花泥棒の片棒を担がせようとするとはな」
「ガイアは元気? あの子、いたずらが好きだから……きっと旅人さんたちのこと、驚かせようとしたのね」
「あの子……? いたずら……!?」
「ああ……姉上にとってガイアは『いたずらっ子』なんだ、気にしないでくれ」
 のほほんとしたの物言いにパイモンが慄くが、ディルックは真顔でフォローにもならないフォローを入れる。器が広いのか、鈍いのか。ディルックの方は色んな意味で諦めているようで、「一応これも『ある』」と執事に持ってこさせた酒瓶を見せてくれた。
「これも『ラグヴィンドの薔薇』だ」
「私の成人のお祝いのために、ディルックとお父様たちが造ってくれたお酒なの」
「親馬鹿、いや、姉馬鹿だなぁ……」
「ガイアはこれが欲しかったのかな? ふたりに直接言えばいいのに……」
 ラベルには、精緻な薔薇の絵が描かれている。ガイアの依頼を果たそうと酒瓶に手を伸ばすと、眼前でひょいっと瓶が浮いた。否、瓶は勝手に浮かない。ディルックが、旅人の目の前からワインを取り上げたのだ。
「えっ」
「なんだディルック、意地悪か!?」
「すまないが、『ラグヴィンドの薔薇』は非売品なんだ。君たちに、ひいてはガイアに渡すことはできない」
「ま、まさかガイアのやつ……」
「わかっていて来させたんだろう。それか、どっちでも良かったんだ」
「どっちでも?」
「君たちが姉上を連れて来ても、この酒を持って来ても。だが、どちらも僕は許可しない。依頼は残念だが諦めてもらおう」
「そんなぁ〜! 考え直してくれよ、ディルックの旦那!」
 ふん、と鼻を鳴らすディルックと、その周りをちょろちょろと飛び回るパイモン。ガイアの提示した依頼料が妙に高額だったのはこういうわけか、と旅人は頭を抱えた。「花をひとつ、摘んできてほしいんだが」などとのたまって、今頃西風騎士団の一室ではガイアがいい笑顔を浮かべているに違いない。ガイアはどうしてかラグヴィンドの屋敷にあまり帰らないようだし、見るからに深窓の令嬢といった様子のとあまり会えていないのだろう。姉に会いたい弟としても、貴重な酒を求める酒好きとしても『ラグヴィンドの薔薇』は旅人を面倒事に巻き込むに値するものだったらしい。しかし旅人は、強盗や人攫いをするつもりはない。モンドやアカツキワイナリーにそれなりの間滞在しているというのに会ったことがないは、あまり屋敷から出ないのだろう。弟以上に青白い肌は、どちらかといえば不健康のそれだ。そんなをディルックの守りを掻い潜ってモンド城まで連れて行けるとは到底思えなかったし、外を出歩くことすら制限のある病人だったなら責任を取れない。諦めよう、とパイモンの注意を引こうとするが、パイモンは納得しなかった。キンキンに冷えた酒のように凍りついた眼差しを前に、果敢に立ち向かっていく。
「なぁ、そんなにおいしいのか? 『ラグヴィンドの薔薇』って」
「さあ」
「『さあ』!?」
「僕と姉上は酒が呑めない」
「なんで酒を持ってるんだよ!?」
「大事な思い出だからだ」
「ワインってたくさん造るんだろ?
い、一本だけでも……」
「駄目だ。姉上が減ってしまう」
「減るもんか!!」
 空中で地団駄を踏むパイモンと、澄ました顔のディルックのやり取りにはクスクスと笑う。楽しそうな彼女は、旅人に向き直ると花を一輪差し出した。綺麗な薄青の包装紙に包まれたそれは、血のように鮮やかで深い赤色の薔薇だ。いたずらっ子のように笑って、は旅人の手にそれを握らせた。
「これも『ラグヴィンドの薔薇』だわ、旅人さん」
さん……」
「ディルックのお願いだから、お酒は譲れないの。だから代わりに、ごめんなさいね」
「ううん、ありがとう……」
「最近綺麗に咲くようになったから、あまり知られていないけれど。それでもガイアなら、わかってくれると思うわ」
 姉の髪にできるだけ近い色の赤薔薇を咲かせたのも、その薔薇に姉の名をつけたのも、やはりというかディルックらしい。闇夜の英雄の時も思ったが、ディルックは時々財力にものを言わせたことをするな、と旅人は生温かい笑顔を浮かべた。それでもに感謝を告げて、ディルックに掴みかかりそうなパイモンを止める。旅人の手にある薔薇を見て、パイモンは「おお!」と無邪気に喜んでいた。
「姉上……」
「薔薇はいいでしょう? せっかく来てくれたから、旅人さんたちにお土産をあげたいの」
「姉上が、そうおっしゃるなら……」
 不承不承ながらも頷いたディルックと、にこにこと嬉しそうにする。旅人とパイモンは、脳内でモンドの勢力図を少し書き換える。モンドで一番怒らせてはいけない人物にランクインしたディルックが、どうにも強く出れないのがという人らしかった。

「こんなものまで作ってたのか。ディルックのヤツ、相変わらずやることがおかしいな」
 旅人が持ち帰った薔薇を見て、大笑いしたガイアはきちんと全額報酬を支払ってくれた。酒でも本人でもないのに花の出処を確かめなくていいのかと問うと、ガイアは目を細めて花を包む紙を指した。
「この紙は特別製なんだ。義姉上殿が俺に贈るものにしか、これは使われない」
「そうなんだ……」
「この薔薇は、ありがたくいただこう。世話になったな、旅人」
「まったくだぞ! 次からは、依頼の内容はちゃんと言ってくれよな!」
 ぷんすかと指をさすパイモンをあしらい、ガイアは意外と丁寧な手付きで薔薇を抱えて帰ってしまう。鹿狩りで食事をするつもりだったから、多めの依頼料の分ガイアにご馳走しようと思っていたのだけれど。それは面倒な『弟』たちに振り回されたパイモンを宥めるための食費に消えそうだ。酒もないのに妙に上機嫌なガイアを、旅人たちは些か釈然としない思いで見送ったのだった。
 
211201
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