自家撞着という言葉を体現しているような人間だと、ガイアは親愛なる義兄殿に呆れと尊敬を半々に抱いていた。義兄殿が崇めるほどに想っているのは、我らの愛しき姉上。頭のてっぺんからつま先まで、優美さと気品が溢れる赤薔薇の姫君。霜と焔に焼かれてなお美しい、暁の薔薇だった。
 傍から眺めている分には、ディルックの思慕は面白い。滑稽を通り越して憐憫すら感じさせるものとも思えるが、同時に現在では失われつつあるような深い信仰にも似た想いの敬虔さには軽々に触れてはならぬような畏れさえ感じることがある。不安定で、矛盾していて、だからこそ観察のしがいがある。そうしたガイアの態度がディルックを苛立たせる一因なのは、理解していた。だが、あの少しばかり退屈な男に育ったディルックを揺らがすものは今やだけなのだ。クリプスといいといい、義兄上殿はどうやら家族に並々ならぬ敬慕を抱く気質のようだった。
 『あまりディルックをいじめないであげてね』
 から贈られた薔薇の包み紙に、流麗な筆跡で綴られたお小言。義姉上様にとってディルックはいつまでも、自分のスカートの影に隠れる子どものままらしい。がこんなことをガイアに言ったらと知ったらディルックはきっと、酒を口にした時より渋い顔をするに違いない。今は騎士の身分を捨てたディルックはしかし、赤薔薇だけの騎士であろうとしているのだ。姉に守られる小さな弟ではなく。ガイアのに対する興味は、いつもディルックへの興味の道中にあった。あの堅物で優秀な義兄上が、子どものような悋気や甘えを唯一隠さない相手。それでいて、当主や長男としての責任感だけではない感情で守ろうとする女性。あんなにわかりやすいのに、にとってはいつまでもディルックは「かわいいディル」なのだ。いっそ不憫とさえ、思えるが。
 名門の長子としての教育を、もちろんも受けている。ガイアがラグヴィントの家に迎えられたとき、は既に小さな淑女リトルレディだった。突然家にやって来た毛色の違う子どもを警戒し拒絶してもおかしくなかったのに、あの優美な微笑みがガイアの前で崩れることは一度もなかった。父親が「弟」だと連れてきた子どもを家族として受け入れ、ラグウィント邸の小さな女主人としてあれこれと世話を焼いてくれた。父の言いつけに従い心から「弟」という弱者に献身する、善良な「姉」。しばらく無邪気な笑顔の影で義姉の本質を見定めていたガイアだったが、という人間の善性はどこまでも純粋だったのだ。それは人間全てに対しての無防備な信頼というよりは、敬愛する父への信頼だったのだろうが。クリプスを信じて、はガイアの姉になったのだろう。がガイアの頬に躊躇いなくその白い指先を伸ばすたび、ガイアは落ち着かない気持ちにさせられた。義姉の指は白絹のように柔らかく傷つきやすいものに思えて、異分子の自分の肌に触れるには綺麗すぎて畏怖すら抱いた。ディルックは自分の姉をお姫様のように大切にしていたから、がその指で泥汚れを拭った弟はガイアだけだ。あんなに綺麗な人が、指を汚すことも厭わず慈しんでくれる。それはいっそ恐ろしいほどの幸福で、酩酊という感覚をガイアに初めて与えたのはきっと酒ではなく小さな貴婦人だった。
「あれで好奇心旺盛な人だからなぁ、義姉上殿は」
 ディルックはガイアがに「悪い遊び」を教えたと思っているのだろうが、ディルックは心配しそうだからとがガイアを伴ってちょっとした冒険に出かけたのは一度や二度ではない。割合で言えばガイアの方から誘った数の方が多いのも、それはそれで事実なのだが。美しい姉は霧氷花に素手で触れようとしたり晶蝶を追いかけて崖から落ちかけたりと何かにつけ危なっかしく、ガイアはよく肝を冷えさせられたものだ。あの珠のような肌に傷のひとつでもついていたら、ディルックが怒るより前にガイアが自分自身を許せなくなっていただろう。美しいという言葉では到底言い表せない特別な薔薇の隣で育って、どうして彼女を愛さずにいられるだろうか。特別な人に特別に愛され慈しまれて、同じだけ愛さずにいられる者はそう多くないだろう。
 それに、ガイアは危険なものが好きだった。危ういものほど彼の好奇心を満たし、乾いた砂に染み渡る水のように高揚をもたらしてくれた。ディルックがに向ける、「優美で心優しい完璧な姉君」へのものだとしても些か度の過ぎた熱を孕んだ視線。誰よりも優秀な義兄は、血の繋がった姉にそんな視線を向けることの罪を誰に言われずともよく理解していたはずだ。将来を嘱望されている見目麗しい貴公子が、ただ一人その情を懸けることを許されない相手に惹かれてしまったという禁忌。そして、全てを失いかねないほどの情愛を義兄が向けている相手だとわかっていながらも、その手の内で大切に囲っている薔薇を欲してしまった自身の愚かさ。強い酒や賭け事、闇に潜む陰謀を暴く高揚より何より、この姉弟関係が最も危険に満ちて愉しいものになってしまっていた。だけが何もわかっていないことが、より強い酩酊をもたらす。弟たちの闘いを身を挺して止めたとき、尊い身に取り返しのつかない傷を負わされてもは泣かなかった。ただ、愛する弟たちが刃を交えることを深く嘆いていた。そんなが、ディルックとガイアの情の本質に気付いてしまったらどんな顔をするだろう。あの清廉な姉には到底耐えられないおぞましさだろうか、それともやはり弟たちだからと慈しみをもって過ちを諭すのだろうか。或いは、姉にそんな情を抱いた男を憎んでくれるだろうか。間違いすらも呑み込んで許し、愛してくれるだろうか。「その時」がひどく待ち遠しくもあり、ずっとこの危うい均衡を保っていたい気持ちもある。曖昧な一線を守り続ける甘やかな緊張を、恋慕と勘違いしているだけなのかもしれない。それでもガイアにとって、この危うい姉弟関係こそが最も愛おしいものであるということだけが確かだった。
「…………」
 そっと、丁寧に折り畳んだ包み紙に鼻先を寄せる。がガイアのためだけに調香してくれた香りは、昔からずっと変わらないようでいて微妙に変化し続けている。酒と同じように、香りにも一つとして全く同じものなど無いのだ。すっと清涼な香りの中に、しっとりと甘くほろ苦い後味。あの美しい姉には、ガイアがこのように見えているのだろうか。手を触れることも許されない貴婦人の影に口付けるように、姉の名残に唇を落とす。あの手を取ることが許されているのは、今となってはディルックだけだ。少なくとも「今のガイア」がに触れることを、あの燃えるような瞳は許さないだろう。
 『ガイア様は、お嬢様とご結婚なさるものだと思っておりました』
『おいおいアデリン、俺がそんな恩知らずな真似をするように見えるのか?』
 メイド長とそんな会話を交わしたのは、ディルックが全てを置いて旅に出ていたときの話である。確かに、全てが順調に進んでいたのならそんな未来もあるのかもしれなかった。けれどラグヴィント
の正当な後継者であるディルックが不在の間にそんなことをすれば、養子と傷物の令嬢が結託して家門を乗っ取ったようにしか見えないだろう。たとえそのようなつもりはないと、ディルックを含む家門の皆が理解していたとしてもだ。ただでさえ消えない傷を負って独りで苦痛を抱え込んでいるに、醜聞まで背負わせるわけにはいかない。だからこそガイアはディルックの旅の間、がどんなに寂しそうな顔をしようともラグヴィントの家での食事のテーブルにはつかなかったのだ。少しでもの弱みになるようなことは徹底的に避けるガイアの姿を見て、よりむしろ家の皆の方が「ガイア様はお嬢様をお嫌いになられたのか」と心配するほどであった。ラグヴィントの者は皆、ディルックがたった一人残された血縁であるをよその家にやりたがらないことを理解している。ガイアが家を出てしまったことも寂しく思っていたし、養子である彼がと結ばれてラグヴィントに戻ってくれれば何よりだと考えたのだろう。ガイアとて、そういった未来を夢想したことがないと言えば嘘になる。けれど、それではいけなかった。そんなふうに易く順当にを手に入れてしまっては、つまらなかったのだ。
 あの優しく聡明な姉は、ディルックが戻ってきた今ならガイアの求婚にも頷いてくれるだろう。皆にとってそれがいちばん良い道だからと。決して、ガイアを「おとうと」以上に愛おしく思っているからではない。無論、ディルックにいよいよ敵視されるだとかラグヴィントの家に戻る気はないのだとか、色々と理由はあるのだけれど。つまるところ、愛とは酒と同じだ。時間をかけて醸成し、なおかつスリルがなくてはならない。あの純粋で可憐な人がディルックやガイアの愛情の本質に気付いたときに露わになる表情を、永遠のものとしたいのだ。
 『どうして自分で会いに行かないの?』
 今回の依頼のあと、旅人にじとりとした視線を向けられた。旅人はきっと、気付いているのだろう。旅人の周囲では、いつも変化が起こる。望むと望まざるに関わらず、善いも悪いも関係なく。モンドの危機、アビス教団の脅威を経てもなお変わらなかった「姉」に対する願掛けのようなものだ。この十数年ずっと善き姉でい続けたにも、変わるものがあるのだろうかと。
 そっと、手のひらの上で元素力を操ってみる。ひんやりとした空気の流れと共に、水分が凝固して形作られる氷の薔薇。神の目を得たきっかけがきっかけだから、この花はまだ一度もに見せたことがない。けれどガイアが氷で作った花を差し出したら、少女のように顔を輝かせて受け取ってくれるのだろう。安易に触れては怪我をするというのに手を伸ばすことを躊躇わない人だから、いつもは周囲を振り回すガイアだってあの人にはハラハラとさせられるのだ。
 ――拝啓、親愛なるお嬢様。
 が時折、花を見るために外を出歩いているのは知っている。そのたびにディルックが肝を冷やして探し歩いていることも、本人はのほほんと両手に摘んだ花を抱えて帰ってくることも。庭園の花だけではモンドの空気を見失ってしまいそうだからと、近場に花がなければあの不自由な体でよくぞと思うほど遠くまで行ってしまうのだ。だから近頃ディルックは、ワイナリーの周りから完全に花がなくならないようにと見回りや声がけまでしているのだから涙ぐましいことである。ガイアとて心配しているのは同じだから、こうしてと面識をもった旅人に時々様子を見に行ってもらおうとささやかな企みをしたわけで。旅人に手紙を預けようと、成人の祝いに姉から贈られたガラスペンを手に取る。机に飾った「ラグヴィントの薔薇」の香りが、鼻腔をくすぐって。氷の薔薇を同じ花瓶に入れては、きっと一日と保たず萎れてしまうだろう。けれど薔薇そのものを氷に閉じ込めてしまえば、ずっと枯れない美しさを眺めていられるのだ。
「無粋だな」と呟いて、氷の薔薇を霧散させる。花開く瞬間の芳しさに勝る永遠はないと、ガイアは上機嫌に文の続きを綴り始めたのだった。
 
221012
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