曰く、指揮の女神。曰く、戦争狂の悪魔。イグゼキュターがしばらく籍を置くことになったロドスには、大層な二つ名と真偽もわからない噂で彩られた『ドクター』がいた。作戦における指揮官ということで一番世話になりそうだからと、「あんまりお勧めしないけど……」と目を泳がせた一般オペレーターから聞き出した部屋へと挨拶へ向かう。彼が入職したときにドクターは作戦中だったから、未だその姿を直接目にしてもいないのだ。作戦記録に映っていた彼女は、凛と背筋を伸ばし泰然としていたように見えた。
「……あぁ、何か?」
執務室とドア続きになっている、ドクターの私室。ノックすると、暫くの間の後にプシュとドアの開く音がした。部屋の中は暗く、気だるげな声がして初めて目の前の影が自分より頭一つ以上低い位置にあることを知る。
「初めまして。この度ロドスと協定を結ばせていただいた、ラテラーノの者です。身分証明書はこちらに」
「へぇ」
「ロドスのドクターとは、あなたのことでしょうか」
「あぁ、うん、そうだね」
どうでも良さそうにイグゼキュターの提示した身分証明書を一瞥した女性は、ふわぁと欠伸をした。常人ならこの失礼さに憮然とするか憤るかするのだろうが、対人能力に関しては一般人のそれから大きくズレているイグゼキュターである。一応口元を隠した手も欠伸で開いた口も小さいと、作戦記録での存在感に反比例するような女性らしい小造りな身体のパーツを事実として認識しただけだった。同時に、やっと暗順応してきた目がその服装を捉える。ぶかぶかの黒い上着は、どう見ても男物だ。白いシャツはサイズが合っているから自前なのだろうが、首元で肌と服の境目が綺麗な半円になっていないところを見ると今しがた適当に引っ被ったようだ。ちらりと視線を下に向けると、シャツの裾でかろうじて局部は隠れているもののボトムスは身につけていない。狼狽えることもなくスッと視線を戻したイグゼキュターは、淡々と謝罪した。
「お休みのところでしたか、申し訳ありません」
「ああ、もういいかな」
「はい。お手間を取らせました」
イグゼキュターの名も来歴も訊かないまま、自分も名乗らずには半ば閉じている目を細めて頷くように首を振る。一瞬だけ彼女の瞳に興味の色が滲んだような気がしたが、イグゼキュターがそれを注意深く観察する前にの姿が消える。誰かに引っ張られるように、彼女は暗がりの中に戻っていった。プシュ、と今度は閉じるために扉が動く。無機質なドアに視界が遮られる直前、揺らめく火を見たような気がした。
「アンタ、ドクターの部屋まで行って挨拶してきたって? 勇気あんなぁ」
食堂で話しかけてきたのは、顔見知りですらないオペレーターだった。ニヤニヤと面白がるようなその表情が理解できないものの、ドクターの部屋に行ったことは事実なので黙って頷く。イグゼキュターに断りを入れる素振りもなく隣にプレートを置いたそのオペレーターは、馴れ馴れしく肩に腕を回してきた。その気安さに気分を害したというより単に食事中に身体接触を図られることが不可解でイグゼキュターが眉を顰めると、それをどう受け取ったのか密談をするように耳元に口を寄せられる。
「あの女、今日は誰と寝てた?」
「相手までは見えませんでしたが」
「……なんだ、純情な堅物ちゃんかと思ってたぜ」
動揺すらせずあっさりとドクターが情事中もしくは情事後だったことを肯定したイグゼキュターに、そのオペレーターは面食らったように距離をとった。どうしてか度々誤解を受けるのだが、イグゼキュターは別にあの状況を見て情事に結び付けられないほど純粋でも鈍感でもない。ただ、大抵の出来事に感情を大きく動かさないだけだ。ましてやは彼の新しい上官に過ぎず、アポもなく挨拶に訪れた自分がそのプライベートを垣間見たのは起こるべくして起こった事故だろう。自分が動揺する理由もないし、言いふらす必要もなければ逆に庇い立てする必要もない。淡々と一定のペースで咀嚼を続けていくイグゼキュターをつまらなそうに睥睨したオペレーターは、行儀悪くプレートの上の肉をつつき回した。
「ヤリ部屋に行った後、よく飯が食えるよなぁ……」
「他人のプライベートが、私の食欲に影響する理由がありません」
イグゼキュターにしては、律儀に話に付き合ったつもりだった。食事の場には相応しくない下劣な、それも明らかに上官への悪意を孕んだ会話を無視しないどころか私見まで述べた。機械人間と揶揄される彼なりに、新しい職場での円滑なコミュニケーションを心がけたつもりだったのだ。けれど隣の彼はいわゆる『ドン引き』の表情を見せ、それ以上イグゼキュターに話を振ることはなく。この会話ばかりが原因というわけではないが、新たな勤務地におけるイグゼキュターの評価はまたもや「感情の欠落した機械人間」に定着したのだった。
それから数週間、イグゼキュターは時折任務も交えながらロドスに馴染んでいった。指揮を執るのはもっぱらで、指揮官としての彼女の評価はイグゼキュターの中で高いところに落ち着いた。無駄な時間をかけず、損害はいつも最小限。かつ、ここぞというときに火力を発揮させることを躊躇わない。性に合う、というのもあるのだろうがイグゼキュターは彼女の指揮に概ね満足していた。そこに、彼女の素行だとか人格だとかは影響しない。指揮官が兵士を正しく使えるというのは、人が銃器を正しく扱えることと変わりない。良き使用者は、良き指揮官だ。「あの人は私たちを駒だと思っている」と彼女に怯えるオペレーターたちの気持ちを、彼は理解できなかった。が正しく自分たちを使うことが、指揮官として最大の責務ではないのか。もっとも彼らもそれは理解しているようで、単なる恐怖というよりも畏怖といった感情が的確なようだが。肝の据わった者たちは平然とに話しかけているし、も別段冷淡に接することもなく笑顔すら見せて彼らに冗談を言ったりする。元々ロドスには変わり者も多い。を異端視し恐れたり蔑んだりする者ほど、「普通」の感覚に近いようだった。それがこの戦場において幸せなことなのか不幸なことなのか、イグゼキュターの判ずることではない。対外的にロドスのトップであるアーミヤが善人であるぶん、の人間的な欠落が恐ろしく思えるようだが。もっともそのアーミヤが不思議なことにを慕っているから、表立って彼女を非難する者は少ないようだった。
「イグゼキュター、君はこの地点で残存勢力の掃討を」
「了解」
オペレーターたちのひそひそ話を聞く限り、自分は彼女に気に入られたらしい。とはいえ、強いて言うなら気に入られたのは自分の「性能」だと思うのだが。一般人にとっては残酷に思える命令でも躊躇いなく頷き、実際必要な殺しは必要なこととして行う。敵に情けをかけて、逃走を許すようなことはしない。散弾銃という一対多の中距離制圧戦に向いた得物であることも、今までにいなかった兵だと彼女の琴線に触れたらしかった。
「お前はサンクタが嫌いだと思っていたが」
指示されたポイントに向かおうとしたイグゼキュターと入れ替わりに、大柄な黒い影がの隣に立つ。サンクタが嫌い、という言葉は多少彼の興味を惹いたものの、命令に反して足を止めるほどのことでもない。足取りを鈍らせることもなく拠点を発ったイグゼキュターを、彼らは黙って見送った。
「兵の善し悪しに種族は関係ないよ」
「それにしては、お前はサンクタを使いたがらない」
「使いにくいんだ、彼らの多くは」
「お前は扱いにくい兵をこそ好んでいたと思うが……そういうことにしておこう」
「今日は機嫌が悪いね、――エンカク」
いつも薄い笑みを浮かべている口元が、サルカズの傭兵の名を呼ぶ。不機嫌そうだと言っているわりには、面白がっているように見えた。
「お前は銃も欲しいのか?」
「余計な質問をせず、抗命しない。良い銃だと思うけれど」
「当てつけがましいな」
「君は時々噛み付いてくるからね。まだ痛むんだよ、まったく」
わざとらしく首元を押さえたに、エンカクは憐れむ素振りを見せてやる。「君はいつも通りだろう」とエンカクを配置する場所を思案し始めたを見下ろし、その口の端を吊り上げた。
「今日は言うことを聞いてやろうか?」
「後が怖いな」
「よくわかってるじゃないか」
「冗談だよ。君は好きにさせた方がよく動く」
「抜け目ないことだ。刀の機嫌までとろうとする」
「ああ、拗ねてるんだね」
「後が怖いんじゃなかったのか?」
軽口を叩き合いながらも、炎の滲むような瞳と底の無い淵のごとき瞳は互いを推し量ろうとするかのように視線を交わす。何を読み取ったのか、あるいは何も読み取れなかったのか、交わされた視線は自然にどちらともなく逸らされた。
「君は私のいちばんの刀だよ」
「――悪くはないな」
及第点だ、とエンカクは刀を担いで自らの戦場へと発つ。ひとり残されたは、黙って椅子を引く。さり、と自らの額の近くを撫で、感傷を振り払うようにかぶりを振った。
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