「ドクター、そんなふうにしていても休まりませんよ」
 人生の全てを呪うかのような形相で顔を上げたにも、ルーメンは怯まなかった。頭痛持ちのは、たまにこうして執務室の机に突っ伏して痛みに耐えているときがある。人目を気にする余裕もないほど痛むようで、そのくせ頭痛薬のストックを切らしていることが多いから誰かが来るまでこんな様子でいるところをルーメンが目にしたのも一度や二度ではない。最初の頃こそ「ドクター」の凶悪といって差し支えない眼光の鋭さに怯えたものの、今となっては慣れたものだ。グランファーロの老人たちと同列に語るのも失礼かもしれないが、まあ、介護対象という点では似たようなものだった。こんな時にも紅茶のカップが鎮座しているのに呆れ、ルーメンはの手元から容赦なくそれを遠ざける。
「カフェインはいけませんよ、白湯を用意しますから。何かご飯は食べましたか? 空腹のときに薬を飲むのは良くないですからね」
「君……逞しくなったよね……」
「まだまだ貴女には及びませんよ。ほら、ちゃんと上着を着て温かくしてください」
 こめかみを押さえながら呻くの動きは緩慢で、元からきびきびと動くタイプではないとはいえこうも「弱っている」姿を見せるのは珍しい気もする。とはいえ彼女はいつだって自然体で過ごしているから、単純にルーメンが畏怖だけではない気持ちで接するようになったというだけのことなのだろう。また頼りない手脚を無防備に投げ出しているのを見て、適当に放られていたロドスのコートを被せてやる。黒いコートに包まれる前の不健康な手脚の印象が、やけに目につく。本質的には全く異なるものだとは知っていたが、の白さはあのエーギルの戦士たちの白さとどことなく似通っていた。深く、暗い場所を棲家とする者の青白さだ。時におぞましく、時に美しい。狩人たちの住まう場所は遥か遠き海の底だが、が住まうのは同じ海でも血の海だ。青とは程遠い、赤黒く鉄臭い海。鮮烈で美しい赤ですらない。塵や垢に塗れ、汚らしく澱んだ錆色の海だった。
「……どうしました?」
 つん、とこの人らしからぬ可愛らしい仕草で手に触れられ、街の子どもを宥めるような声が出る。体温の低い手が、そっとルーメンの手を引いた。その両目は閉じられ、青白い瞼の奥の瞳がどんな感情を揺らめかせているのか知る術はない。こめかみに押し付けるように手を引き寄せられ、さらりと髪の触れる感触にどぎまぎとさせられる。人の姿をした怪物とのささやかな接触は、心臓を剥き出しにさせられるような緊張と高揚をいつも彼にもたらした。
「きもちいいね」
「……そうですか?」
 気まぐれな女性からの返事はもはやなく、ただ手を握る指に込められた僅かな力が肯定の返事なのだろう。湯を沸かしていたケトルが無機質な電子音を立てるが、ルーメンは動かない。体温の低いの手に自身の手の温もりが混ざり合っていくまで、じっと動かないままでいた。

 とルーメンの関係は、良好なところから始まったとは言い難い。初対面はルーメンが緊張ばかりしていたものの、問題はロドスにおいて初めて参加した作戦で。それまでのに対する印象といえば「表情のない人」という程度のもので、強いて言えばその冷たく掴みどころのない様子にルーメンが一方的に気後れしていたのだが。
 ――『時間さえあれば』。
 作戦の後、戻ってきたルーメンにはにっこりと可愛らしいまでの笑顔を向けた。そして、ルーメンが作戦中に口走った言葉を繰り返す。「難しい治療だけど、時間さえあれば」。がどういう意図でその言葉を拾ったのか理解できなかったが、ただ恐怖にも似た感情を覚えたのは確かだった。ぬいぐるみのほつれを見つけた子どもがその穴に指を入れて破れを広げるような、無邪気さと好奇心ゆえの残酷さを垣間見たような気がしたのだ。
 ――可愛いね。『時間がないから』、彼らは死んでいくのだろうに。
 それは、見下す者の眼差しだった。彼女の傍に立っていたサルカズの傭兵は、ルーメンのことを見もしなかった。ただ一言、趣味の悪い虐め方だと零していた気がする。ルーメンはただ、じわじわと首に上るような熱を感じて俯いていた。つまるところ彼は、羞恥という感情に晒されたのだ。ルーメンは自分が凡人であることを理解している。理解していたはずだった。カルメンが師匠となった日にも指摘されたし、そうでなくてもルーメン自身が誰より解っていたはずのことだ。それでも裁判所の仕事に携わるようになって、ほんの少しでも驕りを得てしまったのだろうか。凡と非凡の間に横たわる壁は、「可か不可か」などではない。未踏の地に立ち入ることは決して、才があることの証でないのだ。凡人が百年かけて辿り着き喜びを露わにするゴールを、なんということはない顔をして一瞬で通り過ぎていく者こそが天才なのだ。
「時間さえあれば」。時間をかければ治療できるからそれまで待ってくれなど、そんなふうに患者に要求する恥知らずがどこにいるというのか。知識や技術が多少身に付いたからと舞い上がっていたのだと、突きつけられたような気持ちだった。今までできなかったことができてはしゃぐ子どものようなルーメンの喜ぶさまは、「可愛い」ものだったのだろう。
 張り付けたような笑顔でその羞恥を誤魔化し、逃げるようにとの話を切り上げて。それ以来、と目が合うたびに悪魔の哄笑が脳裏に響くようだった。「ドクター」は紛れもなくルーメンの焦がれる眩いものそのもので、だからこそ目前に立つのが耐えられなくなる。卑小さも平凡さも全て見透かされた上で捨て置かれるような、惨めでたまらない気持ちになるのだ。それでもの指揮を見れば見るほどに引き込まれて、焼けた靴で無様に踊り続けるような心地で彼女の視界に入り続けた。奔放で放埒な面すら、非凡であることの証左に思えた。見境がないように見えて、彼女は夜を共にする相手は選ぶ方だ。お節介半分下心半分での世話を焼いていたルーメンの手を引いたのは、きっといつもの気まぐれだったのだろう。それか、どんな形でもいいから非凡な才の傍に侍ろうとするルーメンが「可愛らしく」思えたのかもしれない。理由はどうであれ、彼女に求められたことは泣きたいほどの熱をルーメンにもたらした。良識や道徳が眉を顰めようとも、一部のオペレーターが噂するように「愛人の一人に成り下がる」行為だとしても、ルーメンにとっては何にも代え難い「特別」だったのだ。
「……きみはいつもそういう目で私を見てるね」
「どんな目でしょうか……?」
「今にも私を抉りそうな目」
 えぇ、とルーメンは素っ頓狂な声を上げる。ルーメンは自分が臆病だとか温厚だとか、その類の性情だと認識している。あの魔族の青年ならともかく自分がそんな攻撃的な視線をに向けているというのは信じられないが、はくすくすと笑ってルーメンの目のふちをなぞった。
「貪欲だね」
 平凡なルーメンが、物珍しかったのかもしれない。普通の感性を持つ者は大抵、を忌み嫌って離れていくから。だからこそ、ルーメンは躍起になってに近付こうと足掻き続けたのかもしれないけれど。そんなルーメンにまだ飽きていないのか、気まぐれが長続きしているのか、は今でも関係を続けてくれている。どこか愛おしそうに、脚の傷を撫でてくれることさえもある。それが頭痛を紛らわすための逃避だとしても、構わない。愚かな関係に没頭していると理解してもいる。それでももう、呑まれてもいいと思ってしまったのだから仕方ないだろう。見下すような笑みにすら心臓が喜びに跳ねるのだから、どうしようもない末期だろう。愛玩するようにルーメンの頬を撫でるこの指が懇願のために伸ばされたときの歓びを、この胸は知ってしまったのだ。
「……もっと欲しがっても、許してくれますか?」
 顔に触れる手を捕まえてじっと瞳を覗き込むと、くすくすと少女のように笑う。自身が凡人であることを弁えているからこそ可愛がってくれているのだと解っているから苦しくて、それなのにやはり求めていたくなる。憎らしいほどに、愛おしいひとだった。
 の秘密を知っているのは自分だけではない。そもそもにとって、それは秘密ですらないのかもしれない。それでも自身が特別な人の「特別」だと思うことは錯覚だとしても甘美で、慎ましさとは程遠い優越感を覚えてしまう。こんな矮小な価値観こそが凡人の証なのだとしても、そんな惨めさも恋の側面ではないだろうか。輝かしい人たちが愛や大義に生きるのだとしたら、こんな醜さや挫折に向き合うことも一度や二度ならずあるのだろう。ルーメンがに向ける気持ちは恋に恋するような稚拙な憧れだが、その根底にある「特別」への執着には並々ならぬものがあった。あえて言うのなら、凡ならざるものへ焦がれる気持ちそのものがルーメンの「非凡」なのだろう。才とは逸脱という言葉と時折意を同じくすることを、ルーメンは知っている。の悪辣さも、恐ろしくはあるが焦がれずにはいられないのだ。があだ名の通り「女神」だとしたら、その最も敬虔な信者はきっとルーメンだろう。あのサルカズにとってはどこまでも一人の女であるし、かのサンクタはを憐れんですらいる。信仰という感情は時として隔絶でもあるが、イベリアの裁判所に身を置く者として到底許されないような崇拝の情を抱いてしまっていた。焦がれることが欲ならば、確かにルーメンは貪欲なのだろう。
「許してほしいの?」
 誘うような、挑発するような言葉だがは今ルーメンの下にいる。小柄で肉の薄い体は非力なルーメンでも呆気なく押さえつけてしまえるし、そうでなくてもこの人はベッドの中では驚くほどに従順だ。戦場を陵辱するがごとく蹂躙し、護身術もアーツも使えない身でオペレーターたちを掌握している『ドクター』が腕の中に収まっている。そんなことに、じわじわと顔に熱が広がるような興奮を覚える。決して背教者などではないはずなのに、どうしてこうも浅ましくなってしまったのだろうか。きっとのせいだ、そう詰ったとしてもこの人は優しく蔑んでくれるだろう。人間関係については案外受け身なは、きっと離れていくのはルーメンの方だと思っている。凡人である彼が勝手に期待して近付いてきたから、勝手に失望して飽きて去っていくと。だからルーメンは自分から離れはしないと意地を張っているのだ。惨めで恥ずかしくて、近付くほどに痛くても。その先にあるものが誉れなどではないと知っている。駄目だと言い聞かせられてより一層意固地になる子どものように、の視線に縋り付く。この憎たらしいひとの思惑をひとつでも、外して驚かせてやりたかった。
 
221207
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