は一人で眠らない。指揮の女神、或いは戦争狂の悪魔。他にも悪意やら畏怖やらに塗れた渾名が幾つかあった気がするが、エンカクにとって腕の中の女はただ「」である。気まぐれにドクターと職位で呼ぶこともあるが、それだけだった。
「眠らないのか」
端末の明かりで資料の文字を追う横着に呆れながら、エンカクは煙草に火を点けた。咎めるような視線を向けられるが、視力が落ちると再三言っているのに目を疲れさせる行為をやめないへの嫌がらせでもある。煙をうるさそうに払ってむすりとした顔で、はエンカクを見もせずに言った。
「頭が痛い」
「眼精疲労だろう」
のぼやきをエンカクはにべもなく切り捨てる。優れた傭兵である彼は周りからの印象に反して、自己管理は徹底している。対しては周囲の目の届かないところではいっそだらしないとも言えるほどだ。アーミヤや行動予備隊の面々のような若年の者の前ではギリギリ大人としての体裁を繕っているだけマシと言うべきか、「オフ」のあまりの落差に呆れるべきか。とはいえこれでも一歩外に出れば立派な「ドクター」ぶりを見せるのだから、ケルシーを含めて黙認している節もあった。
それにこうして端末を弄くり回しているのも遊んでいるわけではなく――この女にとっては遊びかもしれないが――これも数日後に控えた作戦を幾通りもシュミレートしているのだ。この女はあらゆる状況も情報もその全ては信じ切らない。見えるものも見えないものも疑い、可能性を虱潰しに想定し、その上で唾棄すべき不安と怯懦を切り捨て最善の手を選ぶのに躊躇いがない。未来でも見えているだとか全てがこの女の掌中にあるだとか、そういった評価は結果だけをなぞった上っ面で、つまるところ皆がその手腕を称賛するドクターはひどく疑り深い小心者、そしてそのくせ妙なところで潔く決断が早い、ただそれだけの話である。
とはいえがただ死にたくないがゆえに戦争の手管に執心しているのかというと、どうにもそう言い切れないところである。が生きたがっているのか死にたがっているのか、に一番近いという自負のあるエンカクですらどちらとも判じ得ない。正気とは思えないような策は自殺願望のそれかと思えど、実際遂行してみれば最も損害の少ない結果を生み出すものであったし、けれど日頃の不摂生や過剰なまでの仕事中毒は早死したがっているのかと思うほどだ。あえて言うのなら日常におけるは戦場に何かを置き忘れた幽霊のようで、だから皆を忌避するのだろう。まさしく戦場の中に生きていて、血の海や砲火の嵐の中にあって何かを探している。戦いの中に何かを問い、答えを求めているという点で、エンカクはの同類だった。
「まだ俺を思い出さないのか?」
一服を終えて手持ち無沙汰になったエンカクは、細い女の腰を抱き寄せてその手から端末を取り上げた。
「死体の顔など覚えていないよ」
やはりむすりとしたまま、何度も口にしたのと同じ答えをは告げる。エンカクがを探すきっかけになった戦い――ロドスに来て真っ先にエンカクは「ドクター」の元を訪れてあの戦いのことを問うたのだ。自分の顔に覚えはあるかと。その時も胡乱な顔をしたこの女は、やはりまったく覚えていないという表情でこう言った。「死体の恨みは取り合わない主義だが」と。記憶喪失になったわけでもないくせに、実際この女はあの場にいたサルカズのことを誰一人として顔も名前も覚えていなかった。エンカクは覚えている。攻め込んだ彼らを見て微笑んだ「ドクター」の小さな唇も、あの眼差しの温度の無さも。は覚えていない。それが、敗者と勝者であるということなのだろう。
『つまるところ、君も亡霊なんだろう』
幾度かの戦場を経て、何度も同じ問いを繰り返して。周囲がエンカクはドクターにご執心なのだと噂し始める頃、はため息を吐いてエンカクを初めて真っ直ぐに見た。
『死に損ねた戦場の、その続きをずっと歩いている』
エンカクが求めれば、は拒まなかった。隠し事を暴くというにはあまりに呆気なく、掴んだ腰にそれを見た。
『頭の方も触っておく? 角を切り落とした痕があるよ』
あっけらかんとは言った。体を重ねたのはエンカクが初めてというわけでもないのに話が広まっていないのは、相手の口が余程固かったのか。こういう関係において知ってしまったことなど、言い触らさないほうが少しでも楽に生きられるとはいえ、だ。
『どこかで聞いたような話だよ。羽も天輪も持たずに生まれて捨てられて、
私たちを憎んでいるはずのサルカズに育てられた。けれど住んでいた集落が
彼らに焼かれたから、
仇を殺した。生えてきた
尻尾や角は邪魔だから、自分で削いだ』
ただそれだけのことだと髪をかき上げ、切り落とした角の名残を見せては笑った。サンクタの特徴を持たず生まれ、サルカズと同じになった証も自ら切り落とし、何者でもない「ドクター」として歩んでいる。この女もとうの昔に死に損ねていたのかとエンカクは思った。
家族と共に死ぬ機会を逃し、
同胞との戦いで生き残ってしまい、半端な身体でこの世界を彷徨い続けている。全てを失い、奪った夜から出られずに、この女は今日も夜に眠らない。エンカクを夜の相手に求めるのはライナスの毛布のつもりか、はたまた緩やかな自傷か。この女が終にエンカクの炎で焼くものを見定めるために、彼女という鞘に収まっている。
「死体の顔を覚えているのは人殺しの趣味があるやつだけだ」
尻尾を切り落とした歪な凹凸を撫でながら、情交の後の怠惰な戯れに耽っているとはぽつりと呟いた。
「私は別に、人を殺すのを楽しんでいるわけではないよ」
実際、ドクターは敵の犠牲を厭わないが殺戮を好んでいるわけでもない。ただ敵の継戦を不可能にするのに必要な分殺して、不要であれば殺さない。尤も偵察中の敵であるとか、そういう「生かして帰せない」敵を皆殺しにすることに躊躇はないのだが。ともかく別段必要がなければ殺しはしないというところが、あの黒うさぎからの信頼の一端なのだろう。だが、とエンカクは深淵のような目を覗き込む。鉛を呑んで澱んだ水のような青が、あの黒うさぎの言うような「根っこは善人」であるわけがなかった。
「お前は確かに人殺しではないだろうな」
家族を救えず、同胞を殺した罪をあっさり切り落とせる者が「人」殺しであるものか。
「お前はただ、地を踏み均すのと敵を殺すのとが同等であるだけだ。行き着く道中で降りかかるもの全て、お前には等しく払うべき塵なのだろうよ」
障害となる敵を排除し、あるいはその屍で道を築いて。そうしてはどこかへと歩き続けている。こんな犠牲に塗れた求道でも、あの執行人は許すのだろうか。正しい道からどんなに外れていようと、サンクタの本質は求道なのだろうか。純血でありながら異形極まるの求道の果てには何がある。彼女を最初に抱き締めた「親」も果てまで見届けるつもりのエンカクもサルカズであるというのは運命の皮肉とでも呼ぶべきか。今になって彼女の傍に現れたサンクタが、その求道に何をもたらすのか少なからず興味はあった。他人に関心がないような顔をして、それでも既に「ドクター」に何かを見出そうとしている。あの執行人がに失望するのか、激昂するのか。それともまた思いもよらぬ方向へと転がるのか。そしては、黒い天輪のサンクタにどう影響されるのか。
「私のことを機械みたいに言うね」
「少なくともあの執行人などより、お前の方がよほど機械的に見える」
「それならそういう点で私とあれが似ていると?」
ふっと火花が散るようには笑った。エンカクの腕の中でもぞもぞと動き、勝手に上着を奪ってその中に包まる。端末が示す時間は、朝日の昇る頃を指していた。
「私と君も似ているらしいよ、エンカク」
君とあれはどこが似ているんだろうね、それだけ言っては目を閉じてしまった。宿題とでもいうつもりなのか、何の意味もない言葉遊びか。亡霊と機械の何が似ているのか探して来いと、まったく相変わらずどうかしている女だった。
230309