「お前は人の気持ちがわからないのか、それとも常識ってもんがないのか?」
 イグゼキュターにしてみれば、聞き慣れてしまった言葉だった。それでも、やり過ごすのに慣れたというだけで何も感じないわけではないのだが。こうした場合、すみやかな謝罪を行うべきか否か迷うところだった。自身に否がないのに謝るというのはあまり健全な行為ではなく、けれどそうした彼の態度が相手の怒りを更に募らせるということも知っている。とはいえ、謝った場合もそれはそれで「謝ればいいと思っているのか」「本心から悪いと思っているのか」と怒鳴り声の内容が変わるだけのことも多いのだが。これが敵であれば散弾銃、あるいは拳で片のつく話であるのだが。そんな考えが浮かぶ時点で、彼が公証人役場において単独で外勤にあたっていた理由のひとつは明らかであろうというものだった。
「何の騒ぎかな、鉗獣が寄ってきてしまうよ」
 ひたり、暗闇が寄ってくるように現れたのはこの中隊を率いているドクターだった。一般的な人間にとっては、鉗獣よりもよほど寄ってきてほしくない相手である。イグゼキュターに掴みかかりそうな勢いだったオペレーターもその部類の人間のようで、けれど彼女が指揮官であることから渋々といった様子で説明をし始めた。
「その鉗獣が現れたんです……それを、背後から黙って出てきたこいつが掴んで引き裂いて。おかけで俺はこのザマですよ」
 忌々しそうに吐き捨てたオペレーターはなるほど、頭のてっぺんから爪先まで鉗獣の体液を浴びて見るからに哀れな姿である。せめてイグゼキュターが鉗獣を引き裂く場所を選んでいればだとか穏便な方法で片付けていればだとか、そういった叱責を受けることはよくあったし今回もそうなのだろうと、一応謝罪の言葉を脳の片隅から用意することにした、のだが。
「なるほど。ところで鉗獣の危険性を今この場で一番理解しているであろう君、先ほどホシグマの偵察で向こう15分ほどの位置に鉗獣の巣があるのを確認したがどう思う? 不安だろう?」
「は、」
「つつかなければ出てこないだろうが、うん。君がそんなに不安がるのなら仕方がない。『責任を持って』イグゼキュターに駆除をしてもらおう。騒がしい君は鉗獣の良い的になるだろうから、囮として彼に守ってもらうといい。何、二人仲良く鉗獣の体液で服を染める頃には君たちは肩を組んで讃美歌を歌えるほどの親友に――」
「あ、あの! ……結構です、静かにしますから」
「うん? そう、残念だね。友情が育まれる機会が潰えてしまった。まあ小休止の時間を無駄にしないのは良いことだと思うよ」
「元気なついでだ、水を汲んでくるのを手伝ってくれ」
 残念だと言いながら嫌な笑みを浮かべているドクターの横を通り抜けて、ホシグマが顔を青くしたオペレーターの背を叩く。無用な騒ぎを起こしたことへの形式上の罰と、その原因である鉗獣の体液を洗い流せるようにという配慮だろう。指揮官であるが「鉗獣の生息域では不用意に大声を出さないように」「鉗獣ほか害獣との戦闘が予測されるために防護服を常に着用すること」という指示を無視した彼をあからさまに気遣うわけにはいかず、今回副官の立場にあるホシグマが適当な落とし所を見つけて取りなしたというわけだ。経緯を見ればイグゼキュターに全く非はないのだが、小隊の面々を見回せばそうとは思っていなさそうな表情も少なからず見受けられる。「非はない『が』」、「君は正しい『けれど』」、「『もう少し』周囲の感情も汲んでやりなさい」ということだろう。それ故に彼らにはドクターが必要以上にイグゼキュターに肩入れしたように見えているはずだ。なるほどこうして彼女はそういう感性の面々から評判を落としていくわけだと、今現在評判が下落している最中であるはずのイグゼキュターは他人事のように納得した。
「あまり虐めすぎるのもどうかと思うぜ?」
「規律は最初に示しておくべきだよ。君がヤトウに頭が上がらないようにね」
「それを言われちまうとな」
 ドクターを窘めるようなことを言ったノイルホーンは、けれど本気で彼女の対応に不満があるわけではないらしい。もイグゼキュターもこの場では無言の「彼ら」を気にしなさすぎるから、代わりにガス抜きをしてくれているのだろう。
 もっともには、彼らを「気にする」ことなど許されていないのだが。彼らが無言でいる限り、は内心の不満までは言及しない。してはならない。眼前で規律を乱されるほどに舐められるのは論外だが、過度な威圧は指揮官の卑小さを示すだけになる。特には視線を向けるだけでも相手を萎縮させるような独特の雰囲気を持っている。殊に凡人に無関心であるように振る舞うのは、大半が元々の気質だとしても、周りが怯えすぎないように意図して距離をとっている節があるのだろう。ロドスはアーミヤたちの意向もあって軍隊じみた統制を嫌う節があるから、尚更だった。ノイルホーンが声をかけたのはむしろ、のガス抜きのためであるのかもしれない。
「ドクター」
 仲裁の礼は言わない。そんなことを言うほどイグゼキュターは統率というものを知らないわけではない。はイグゼキュターの処分については結局言及しなかった、それが全てだ。だからイグゼキュターは、この少し楽になった呼吸の借りは言葉などでなく返さなければならないのだ。けれどそれは、実際イグゼキュターの得意とするところだった。
「ど、」
 どうしたのかな、と問おうとしたのだろう。けれどイグゼキュターが強くその首根っこを掴んで引いたことでまともな発音はされず呻き声に変わる。先ほどまでが立っていた場所でカサカサと蠢く小さな鉗獣を、容赦なくイグゼキュターの足が踏み抜いた。
「うわぁ」
 小さく聞こえた声は、靴底の形に綺麗に空いた穴を見て発せられたようだ。「前衛オペレーターに転職する?」とが軽口を叩いた後ろで、ちょうど戻ってきてしまった例のオペレーターが上げかけた悲鳴をどうにか呑み込んだ。
「この通り、防護服を着用している限りは体液付着の問題はありません」
「わ、わかったよ」
 透明なレインコートのような防護服(着用しての動作が若干煩わしくもあるのだが)にべったりと着いた体液、けれど中の衣服は全くの無事である様を示してイグゼキュターは振り向く。もう勘弁してくれとでも言いたげな顔で、かのオペレーターは何度も頷いたのだった。

「傷病休暇は必要かな」
「いえ、不要です」
 傍から見れば自分たちのやり取りは本気なのか冗談なのか区別がつかずに不気味らしい。とはいえいつだってイグゼキュターは真面目で本気で、は軽口だったり真剣だったりするのだが。今の場合は心配半分冗談半分だろうか。仮にも部下の負傷に対して冗談が混じるところがやはりこの人の悪癖で、そういうところさえなければもう少し好意的に見られるのだろう。半分だろうと必要なことを端的に訊かれて答えているという以上、イグゼキュターに会話のストレスは無いのだが。
「そう、なら手当を申請しておこう。それと身を挺して僚友を守ったことは査定に書き加えておく」
「わかりました」
 報酬が必要か否かをが問うことはなく、それに異論を唱えることも謙遜することもなくイグゼキュターは黙って頷く。それでこの「お見舞い」は終わりかと思ったが、はベッドの上のイグゼキュターの腹にバサバサと書類やら端末やらを広げ始めた。
「こちらは何の手続きでしょうか」
「君を私の秘書として任命するための手続きだよ」
 一度も打診すらされていない話だが、なるほどとイグゼキュターは頷いた。
「秘書に任命していただかなくとも、ロドスと契約関係にある内は貴女の安全を優先して行動します。専属の盾という要望でしたら、その話を受けるのも吝かではありませんが」
「昇進の時も思ったけれど、君は素で自虐ジョークの才能があるようだね。地位に伴う責任を理解しているのは素晴らしいことだけれど」
「他意のないただの昇進、でしたか。理解し難い話ですが、今回もそうであると?」
 まさか、とは首を振る。秘書ということは少なくとも潜入やらロドスを離れる類の任務ではないのだろうが、にはイグゼキュターに任せたいことがあるようだった。
「君が庇ったのは例の『鉗獣くん』、今回の任務が おりだということは理解していたと思うが」
 物資輸送であった今回の任務は、一部の者にとっては警護任務も兼ねていた。などは明け透けに「引率」と言っていたが、つまりはそういうことである。入職して間もない者、戦闘員としての経験が浅い者。そういった面々が徐々に戦闘を含めた中期任務に耐えられるようにといった意味合いもあったのだ。イグゼキュターがロドスに来てから受ける任務は、そういったものが多かった。
「私としてはいつまでも君のような人材に、外の人間だからとこんな『おり』ばかりさせていたくはないんだよ」
「なるほど」
「一応言っておくけど独断ではないよ。まあ独断で通せないこともないけれど、ロドスは人手不足だから」
 外様であっても、ドクターの秘書という立ち位置で今までより内部の事情に近しい地位に就かせられるということだ。独断という無理を通すほどのことでもないと、は笑った。
「レユニオン、龍門、ウルサス、ロンディニウム……情勢の悪化は君も知っての通り。ロドスは軍隊ではないけれど、軍隊ではないということに必死だけれど、私を必要としているということは戦場に立ち続けるということだ」
 本質は、軍事団体とは全く異なる。彼らの戦争は、本来国やら武装組織やらを相手に望んでいない。彼らは治療という戦いを行なっていて、彼らはあくまで医療機関なのだ。けれどこの世界が、戦場とロドスの理念との分離を許さないからという悪魔はここにいる。
「専属の盾、まあそういうことでもあるね。吝かではないと言ったからには、否はないと受け取るけれど」
「否やはありません。任務であれば従います」
「よろしい。助かるよ、君のような人材はいつだって不足しているから」
 人材。にとってその言葉はモノと読むもので、数字で数えるものなのだろう。それに不快感はない。「そういう」モノが、彼女の周りには必要なのだ。あのサルカズ然り。法に基づき執行人となり、契約に基づきロドスに駐在し、手続きに則って秘書となるなら否やなど無かった。
「私の周りは君のような変人が多い、今までよりは楽しくやれると思うよ」
 あれで人材モノを大切にする方なのだ、このドクターは。それが有限の資源を浪費しないという考えに拠るものだとしても、大切にするに越したことはない。という上司は、イグゼキュターの信頼に足る契約相手であった。
「それではまず、貴女の居室に地雷の設置を……」
「君の初仕事は地雷制作ではないよ、残念ながら。君自身の傷病手当の申請書類を作成することだ」
 イグゼキュターが大真面目なら、も大真面目である。冗談ではないからこそ悪質な会話を交わし、は今度こそ病室を後にしたのだった。


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