様、お風邪を召されますよ」
「……トーマ」
 窓から外を眺めていたに、気遣わしげな声がかけられる。ふわりと背中から羽織をかけられて、その日向の匂いに心のどこかが緩むのを感じた。けれどそれはきっと、日向よりもこの羽織をかけてくれた人のことを好いているからだろう。ただ、がそれを表に出すことはない。出せるわけがない。この優しい家臣がのことを気にかけるのは、が綾人の婚約者であるからだと痛いほどによく知っていた。そう、は神里綾人の婚約者だ。社奉行の辣腕、神里家の若様。早くに父母を亡くし、幼い頃から当主として立たねばならなかった彼に家臣らがあてがったのが、道具としての許嫁であった。若様を案じてというのは、三割ほどは本音だろう。残りは損得勘定と野心と、その他諸々。「中立」の家で、素行に問題もなく親に従順で綾人と同年代だった。それだけが、がここに送られた理由だった。
 綾人は婚家の傀儡になるような愚物ではなく、さりとて家臣たちとの繋がりをあからさまに拒むような世渡り下手でもなく。にも初対面から警戒心を注意深く隠した笑顔と親切な振る舞いで接してくれていた綾人は、けれどそのあまりの多忙さ故に成婚を長いこと先延ばしにしていた。もっとも、未だにと結婚するのが正解か否か見極めている最中なのだろうというのが家臣たちの見解であるが。
 綾人がお飾りの当主などにはならないことを数年かけて理解させられた者たちは、を利用して綾人を動かすのは無理なことだと察している。少なくとも、野心があるのだとしても最早それをに見せないほどには。綾人はを信用はしていたとしても本心を詳らかにすることはないし、婚約を整えた者たちも、もうには何の利用価値も見出していない。宙ぶらりんの忘れられた桜、それが時折の耳に入る彼女のあだ名だった。淡い桃色の髪と、春の若草色の瞳。あの儚くも美しい花になぞらえて呼ばれることは、あまり嬉しいことではない。神里家の遅桜、残桜。綾人に丁重に扱われはしても関心を向けられないを、口さがない人は陰でそう呼ぶからだった。
 とはいえ正直なところは、もう誰に怒る気力もない。綾人にとって大切なものは唯一の肉親である綾華と、神里家と社奉行、そして稲妻だ。そうであって当然なのだ。少なくともは彼の愛する稲妻や神里家のひと欠片として、十分すぎるほどの扱いを受けている。今こうしてトーマがを気遣ってくれているのだって、綾人がに優しさを向けてくれているからだろう。綾人が本当に全くの無関心なら、この家の者たちもそれに倣うはずだから。けれど気さくなトーマを除いても神里家の人々はを丁重に扱い、敬意をもって接してくれている。外部の陰口が届かないように、をこの屋敷で守ってくれているのだ。
 が時折耳にしてしまう嘲りや冷笑も、権力の坩堝に身を置く綾人にしてみれば児戯のようなものだろう。本当の醜い政争も知らず、屋敷の中でぬくぬくと守られて家政の統括というほとんど家の中だけの仕事を与えられている。役立たずだのお飾りだの、自分でもそう思っているからこそ今更憤る意味もなかった。頭の中まで桜が舞っているだの昼行灯ならぬ春行灯だの、よくもまあ飽きもせずに新しい雑言を思い付くものだと感心する。外の刺激の賜物なのかもしれないが、罵倒の語彙が増えるだけならこの優しい神里の家に引き篭っている方が余程良いに違いなかった。は誰にも期待されていないが、鏡写しのようにの他人や世界への期待は失せてしまった。疲れることにも飽いてしまっているから、こんなに心穏やかにいられるのだろう。
「まだ冷えますね」
「ええ、綾人様は羽織をお持ちになられたかしら」
「いつもみたいにそのうち使いが来ると思いますから、先に手配しておきましょう」
「ありがとう、トーマ」
「いえ、それでは様も冷えないうちに戻りましょうか」
 やんわりと促すように、トーマは体の向きを変えてが歩き出すのを待つ。トーマはモンドの血が流れてはいるけれど、稲妻の暮らしが長いせいか直接手を取ったりを先に歩かせるようなことはしなかった。主君の婚約者に対して、気安く触れるようなこともしない。ただ、それでも昔は人目につかないところで頭を撫でてくれたことがあった。への期待を捨てた両親からの文が絶えた頃、幼かったは使いの者が来ないかと毎日のように日が暮れるまで外を眺めていて。夕焼けの中、いつも迎えに来てくれるのはトーマだった。
 たった一度だけ、トーマが頭を撫でてくれたことがある。慰めだったのか、同情だったのか、あの柔らかい笑顔からは何も読み取れなかったけれど。世界が橙に沈む中、冷たい風が吹き始めても心のどこかは暖かいものに照らされた。だからは、あの日から来るはずもない手紙を待つのはやめたのだ。そして、あの手の温かさに俗な期待を抱いてしまった自分を恥じた。家族と離れ、婚約者であり唯一の拠り所となるはずの綾人は優しくとも多忙で、そんな中親切にしてくれる年上の少年に好意を錯覚するのはある意味では当然だったのだろう。でも、こればかりは嫌なのだ。あの優しい刹那を、恋などというものに貶めたくはなかった。
 はトーマを目で追うことはない。家政を担う立場を同じくすれど、何かにつけトーマと関わろうなどともしない。綾人に要らないと言われるまではは彼の婚約者で、それをの方から違えることはない。ただ、優しい異邦の友人との些細な関わりにほんのりと心の温かくなる幸福だけを、そっと胸の奥にしまい込んでいる。
「あれ、若様がお帰りですね」
「……!」
 少し驚いたようなトーマの声に、も僅かに目を見開く。綾人がこんなに早く帰ってくるのは珍しい。数人の家臣を連れて帰ってきた「若様」に、神里屋敷は俄にざわめきたった。もまた早く出迎えに行かなければと慌てるも、綾人はいつも通りの軽装だ。誰かがすぐに上着を持って来るかもしれないし、そもそもすぐ屋敷の中に入るだろうけれど。例え親密ではなくとも信用されていなくとも、綾人はの仕えるべき大切な人だ。慌ててひとまず上着を取りに行こうと身を翻せば、トーマにそれを制される。「俺が取りに行って追いつきますから」と、は出迎えを優先するようにと悪戯っぽく片目を瞑った。
「ありがとう、トーマ」
「いえ、若様もその方が嬉しいでしょうから」
 それはないと思いつつも、曖昧に笑んでトーマと別れる。はしたなくはならない程度に足を速めて綾人を出迎えると、婚約者はいつものように柔らかい笑みを作ってくれた。
「ああ、。ちょうど良かった」
「おかえりなさいませ、……何かご用事でしたか?」
 出迎えの挨拶も待たずに顔を綻ばせた綾人に、は珍しいものを見た思いで目を瞬かせる。そんなを面白がるようにころころと笑った綾人は、「ひとまず場所を変えましょう」と周囲の者に目配せをする。手を差し出してくれた綾人に、が迷う理由などないはずだった。自らの手をそこに重ね、綾人の「用」に付き合うべきだ。上着を取りに行ってくれたトーマも、無駄足とさえ思わないだろう。だけが、不要な逡巡を抱いている。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ……」
 この屋敷で最も尊い身である綾人に、ただ虚しく掌を差し出し続けさせるわけにはいかない。わかっているのに、は躊躇った。綾人の優しい笑顔は、変わらない。けれどその海よりも深い瞳は、冷静にを探っているように思えた。
「ふむ……?」
「若様、上着をお持ちしましたよ」
「……おや、トーマ。ご苦労さまです」
 何も知らないトーマが、先程の言葉通りにすぐやって来てしまった。トーマがここに来る前に、きっとは綾人の手を取るべきだったのだろう。がいったい何に躊躇っていたのか、誰よりも聡明な綾人はきっと気付いてしまっただろうから。
「では、行きましょうか。
「は、はい……」
 やはり、が手を取らない理由はトーマを待っていたのだと綾人にはわかっているのだろう。今度はもう躊躇う理由がないとばかりに、胸元でさ迷っていた手を優しく導かれる。綾人が受け取った上着を自分ではなくの肩にかければ、どうしてかトーマの方が嬉しそうな顔をした。の微妙な立場をいつも案じてくれているトーマのことだから、きっと綾人がわかりやすくを気遣う姿勢を示したことを以上に喜ばしく思ってくれているのだろう。綾人のための上着は大きくて、焚き染められた香はのものとも綾華のものとも違う。落ち着かなくて上着を返そうとすれば、それを制するように綾人がの肩を抱いた。
「少し歩きましょうか。夕陽に溶けるような紅葉が見頃だと、人に聞いてきたんです」
「ありがとうございます、綾人様……」
「行ってらっしゃいませ、若様。様」
「今日は『護衛に』とは言わないんですね、トーマ」
「そこまで野暮じゃありませんよ。それでは、お気をつけて」
 他の使用人と違い黙って頭を下げるのではなく、ひらひらと手を振るトーマ。その笑顔がどうしてか心苦しくて、は目を逸らした。きゅっと上着の袂を手繰り寄せれば、綾人が目を細めてを見下ろす。その優しい表情を直視できず、はただ俯くことしかできなかった。
 
220922
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