「結婚しましょうか」
さらりと、風のように軽やかにその言葉は告げられた。赤く色付く葉がひらひらと舞い落ちる夕暮れの中、蒼い綾人の存在感はより清廉なものだった。
「けっこん、」
そのあまりのあっさりした切り出し方に、は思わずおうむ返しに聞き返してしまった。そういえば自分は綾人といつか結婚する存在として屋敷にいたのだったかと、その前提を今改めて思い出したほどだった。確かに自分の現状や行く先に思いを馳せたばかりだけれど、は何となく、この関係は婚約破棄によって終わるものだと思っていたのだ。きっと周りの人間だって同じだろう。それでも綾人は優しい人だから、に見合った家格の縁談も纏めてからそういう話を持ち出すはずだ。綾華は残念がってくれるだろうけれど、神里家に思い残すことはほとんどなく家を出れる――勝手に、そんなふうにある種の覚悟を固めていたのに。
「意外、という顔ですね」
「……も、申し訳ありません」
顔に出てしまっていたのか、綾人が敏いのか。言い訳したところで無意味だろうから、あまりに失礼なその反応を詫びるように頭を下げた。けれど綾人の手がすっと伸びてきて、の頬に触れる。たおやかではあるが決して女性的ではない手のひらに顔を上げさせられて、はほとんど初めてと言ってもいい綾人からの接触にどぎまぎとして顔を赤らめさせた。
「私はずっと貴女を妻にと思っていましたよ」
「そう、なのですか」
「……幼い頃、園遊会で出会ったことがあるのです。貴女のことを、桜の精か何かだと思いました」
やはり惑う気持ちは伝わってしまったのだろう、けれど綾人はそれに呆れることもなく、過日の思い出を語り始めた。園遊会。そういえば、幼い日に両親に飾り立てられて、そんな場にも連れ出された気がする。その頃はまだ綾人の両親は健在であったから、の両親もよもや若様の目に留まろうなどとは考えていなかったかもしれないが。それでも有力な家の子息は年端もいかぬうちから将来の縁のために交流を広げていくものである。けれどには綾人と出会った記憶がなかった。は綾人ほど出来のいい子どもではなかったから、それも当然かもしれないが。綾人のことどころか、園遊会があったということの他にはどこの家で何の花を見たのかすら覚えていない。そんなの記憶などあてにならないから、綾人が出会ったと言うのならきっとそうなのだろう。それに、あの艶やかな宮司を除いては、綾人の近辺にと似た髪色の者はいなかった。
「おそらく、父母が健在であったとしても私と貴女の縁談は持ち上がったでしょう。何しろ、『聞き分けのいい息子の初恋』でしたから」
むしろ、今よりもっと面倒なことはなく成婚に至っていただろうと綾人はいたずらっぽく笑う。あくまで神里家で内々の話だったとはいえ、綾人はもう既にを伴侶にと心に決めてしまっていた。元よりに家格の問題は無いのである。時期が来れば、いかにも釣り合いの取れた相手との縁談であるという体を作ってその「求婚」は行われたはずだった。
けれど神里家が事件に巻き込まれ、状況は一変し、一見神里家を支援するように見せて整えられた縁談は綾人を傀儡にしようという魂胆があった。それにが使われてしまったのである。適当な理由をつけて縁談をなかったことにもできたが、そうなれば年頃の娘などよその家にやられるだけである。かといって当時の情勢を考えれば綾人から強くを求めるわけにもいかず、諸手を挙げて歓迎することもできず。結局この数年、冷遇もされないが歓迎もされない婚約者として神里の家に留めておくことが最善の方法だったのだと綾人は苦々しげに語った。
「最善とは言っても、私の都合です。貴女に何も告げないまま、こうして無為に何年も過ごさせました」
そのようなことは、とはほとんど反射的に口にする。けれど思考はどこか宙を彷徨うようだった。綾人がそんなに幼い頃から、自分を好いていたというのがにわかには信じがたい話だったのだ。はずっと自分はこの家の異分子なのだと思って過ごしてきて、優しくしてくれる綾華やトーマを始めとする神里家の人たちにもどこか申し訳なさばかり募って。を守るために、つかず離れずの関係を保っていたというのは理解できる。今はもう綾人の基盤は磐石で、婚姻のひとつふたつでは揺らがないからこそこの話を打ち明けることができたのだろうと。そう、頭では理解できていた。
これはきっと、望外の幸福なのだろう。自分に無関心だと思っていた綾人から秘めていた想いを打ち明けられ、望まれての結婚を申し出られている。自分には起こりえなかったはずの奇跡だ。自身の人生をある種の諦めによって捉えていたは急に目の前がまっさらに開けたようにすら思えて、思いもよらなかった事態にまだ実感が湧かずにいた。
「貴女はきっと、私に好かれていないとお思いでしたでしょう? 急な話で、戸惑うこととは思いますが……」
「いえ、その……」
戸惑うのは綾人の情を期待していなかった自分のせいで、それに気付かずに勝手な思い込みをしていたからだ。好意を告げられた途端に綾人の匂いに包まれているのが落ち着かなくなって、には少し大きい上着の裾をぎゅっと握り込んでしまう。夢を見ているのだろうか。目が覚めたらいつものように少し寂しい朝の中で、自身の願望が見せた幻にやるせない思いをするのではなかろうか。そんな不安を打ち消すように冷たい秋風が火照った頬を撫でて、夢心地のような今が現実だとに教えてくれた。
「ようやく言えます、『貴女を幸せにさせてほしい』と」
ふわりと解けるような笑みに、胸の奥がきゅうつと締め付けられるようだった。綾人は綺麗な人だ。は綾人に恋をするなんて考えたこともなかったけれど、そもそも人は美しいものを讃える生き物だ。陽の光を受けてきらめく清流のような、それでいて底の見通せぬ湖面のような。つまるところが綾人に抱く気持ちは優美な自然に対する感嘆と畏怖のようなもので、生身の人間に対するものは何一つ持ち合わせていなかったのだ。そんな、好意的な敬意こそあれど実際触れ合うことを考えてもいなかった相手に頬を包まれ、慕情を露わにして微笑みかけられ、は狼狽える。思いもよらなかった好意を嬉しいからと即座に受け入れられるほどは浅薄ではなく、だからといって考えさせてほしいと言えるほど愚かでもなかった。綾人がその『本心』を告げてくれた時点で、には畏れながらもそれを享受する以外の考えはない。あってはいけないのだ。元よりは綾人に受け入れてもらうためにここに来た。何を戸惑うことがあろうかと、は愚鈍な自身に苛立って唇を噛み締めた。
「祝言は春がいいと思うのですが」
目の前の聡い女性は、綾人の言葉に顔を赤くしてこくこくと頷いた。は純粋で、聞き分けのいい女性だった。時折それが、哀れに思えるほどに。そう、これはきっと幸福な結末を迎える物語だ。長年のすれ違いやもどかしさを超えて成就する、万人に祝福されるような愛。例えが綾人に恋慕の情を抱いていないからといって、何の問題があろう? は名のある家に生まれた女として、他家に嫁ぎ婚家に尽くすことを自身の役割として叩き込まれて育っている。自分の意思の介在しない結婚など当たり前のことで、望まれて嫁ぐのならそれが何よりの幸福。ましてや綾人のような相手に慕情を伴って求婚されるなど、の価値観においては奇跡といってもいいほどのことだった。
「綾人様の、おっしゃる通りにいたします」
決して投げやりなわけではなく、敬意ゆえの従順。にとっては予想外の事態であろうが、それでも本来成すべき役割を忘れて成婚に異を唱えるような愚鈍な女性ではない。想定していた通りの反応とはいえそれでも安堵する気持ちはあって、綾人は人知れず詰めていた息を吐いた。
の若草色の瞳には、困惑がありありと現れていた。憂うような色さえ浮かんでいた。はいつか神里家を去るつもりですらいたのだから、本当に綾人の伴侶になるということが突然現実としてのしかかってきて取り乱しても無理のない話だった。それでもは自身の戸惑いや怯えを消化することより先に綾人の言葉に頷くことを選んでくれたのだ。のこういうところが、ここに送られてきた理由を知っていても彼女を信頼できる根拠だった。は純粋なのだ。家のためにあれかしと育てられ、それを彼女に教えた者にとっては大半が建前だとしてもその価値観から逸脱することなくあり続けた。生家に見捨てられたは必然、神里だけを自身の家だと認識する。そうなれば生まれがどこであれ、親の思惑がどうであれ、「家のために」と育てられた彼女は純粋に神里家に尽くす。当たり前のようでいて、得難い人だった。こんなに純粋な人を簡単に切り捨ててしまった彼女の両親はやはり愚かなのだろうと、の親とはいえそう思ってしまうのだ。
「皆も喜びます。綾華も、トーマも」
「……はい」
僅かな逡巡を、綾人は咎めなかった。そもそもその名を口に出したのが、一種の意地悪のようなものだからだ。の淡い思慕は実にわかりづらかった。人の機微に敏い綾人でさえ、確信に至るには長い時間を要した。何より彼女自身が抱いた気持ちを恥じて、奥底に埋めてしまおうとしていた。それでもがこの長く虚しい十数年で心を開いたのは、あの異邦の青年だけだったのだ。綾人や綾華ではあの柔い桜色に触れてあげられなかった。誰も彼女にぬくもりを与えることは許されなかった。彼らよりほんの少しだけしがらみの少ないトーマでなければ、の寂しさに触れてあげることはできなかった。綾人がそれを後悔したことはない。最短で、最善の方法だった。ただ、彼女がトーマへの慕情ゆえにこの成婚を拒むのではないかという不安は今この瞬間まであった。そんな愚かなことをする人ではないとわかっていたが、儘ならないのが心だと、何より綾人自身が思い知っていたからなのだろう。
初めてを目にしたときの「心」の有り様を、今でも鮮明に覚えている。賢しい子どもだった綾人は、自身の感情ですら儘ならないことなどなかったのだ。池に落ちた鞠をぼうっと見つめて、今にも欄干から落ちてしまいそうだった少女。神里の出向いた先の園遊会で子どもが池に落ちても困る、とあまりに可愛げのない理由で彼女に近寄った綾人は、その傲慢さを一瞬で打ち砕かれてしまった。淡い桜色のけぶるような睫毛に彩られた若草色の瞳は芽吹いたばかりの新芽のように傷つきやすそうで、一目見て焦燥にも似た危惧を抱かせた。幼子であることを差し引いても白く透き通ったまろい頬は、こんな無造作に綾人を見上げるのが恐ろしいほどだった。馬鹿げた考えだが、どこもかしこも産まれたての赤子のように柔らかそうで、今すぐ真綿に包んで部屋の中に連れて行ってあげねばならないという気持ちに駆られたのだ。華奢で小さな体には重そうな着物を幾重にも重ねていて、それなのに綾人を目にして礼をとろうとするから着物の重みで傷付いてしまうのではないかと現実離れした心配で慌てて押しとどめてしまう。内向的でぼうっとした子どもだったは、幼さゆえに今ほど遠慮することもなく、黙ってそれを受け入れたが。またじぃっと池の鞠を見つめるから、自分の着物を濡らしてでも取りに行ってやりたくなってしまったのだ。
『落としてしまったのですか?』
『……いいえ』
首を横に振ったが言うには、そもそも彼女の鞠でもないらしい。彼女がここに来たときにはもう、その鞠はぷかぷかと浮かんでいた。おそらくではあるが、他の子どもたちが遊んでいて落としてしまったのだろう。落とした当人たちはもうきっと、この鞠を忘れて別の遊びにはしゃぎ回っている。ならばなぜこんなものにこだわるのだろう、という問いかけをできるだけ柔らかく伝えると、自身よくわかっていなさそうに首を傾げた。
『……おばあさまが』
声すらも柔らかくて脆く思えた。ぽやぽやとした頬が、唇が、少し眠たげな声を吐き出す。『善いことをしなさい』という祖母の言いつけに従いたいから困っているのだと、の要領の得ない言葉を綾人はそう纏めた。
『落としものを拾ってあげるのは「良いこと」で、でも、着物をよごさないことも「良いこと」で……どちらがほんとうに「良い」おこないなのでしょう……』
どんくさい子だ。大抵の者はきっと、そう思うのだろう。綾人ならば、「人を呼んで拾わせればいい」と矛盾しない答えをすぐに出すことができる。相手がこの少女でなければ、きっとそれを口にしていただろう。けれどのその呑気な顰め面がどうにも可愛らしく思えて、綾人は自身が答えを出すのを待ってやりたく思った。他人に対してそんなことを思ったのは、初めてだった。
『あ、』
風に煽られた鞠が、ぷかぷかとこちらに寄ってくる。手の届くところへとやってきたそれを躊躇いなく掬い上げて、その少女は笑った。
『これが「良いこと」なのですね』
ぼんやりと眠たげな目を細めて笑ったに、再び胸の奥を掴まれたような気がした。この世にこんな可憐な生き物がいてよいのかと、目眩さえ覚えた。この純粋さを惜しいと思った。綾人にある種の傲慢さを自覚させた少女に、そのままでいてほしいと。だから綾人はその日のうちに、両親に駄々をこねたのだ。自分にこんな衝動があるとは思わなかった。きっと心のどこかで見下してさえいたそんな情動に突き動かされているのが可笑しくて、けれど切実だった。彼女が許嫁として現れたときは儘ならなさでどうにかなりそうだった。良い婚約者であるとは言い難い綾人の元から去ってしまうのではないかと不安で、傍にいるのに心を得られない日々の中で庇護欲に似た執着ばかりがかき立てられた。じりじりとした焦燥からようやく解放されて、目の前の可憐な人の頬を撫でる。こんな触れ合いですら、今まで自分に許せなかった。打算で触れていると思われたくなかった。この人が、自身の真心の唯一の在り処であってほしいと願った。
はきっと、今から綾人を愛そうとしてくれる。己の役割を過たない人だから。それを知っていてあの小さな小さな慕情の芽を見逃したのだから、自分は残酷な人間に違いない。見渡す限り夕日と紅葉の鮮やかな赤に溶けていく風景の中で、は咲く季節を間違えた桜のように頼りない。そこから救い出すように「戻りましょうか」と手を引けば、少し青ざめた顔をしたはやっと笑ってくれたのだった。
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