兄はきっと自分のことが疎ましいのだろう。
 はずっと、そう思っていた。二宮匡貴、ボーダーで二宮隊の隊長を務める俊英がの兄だ。本当に、あんなすごい人が自分の兄なのだろうか。犬飼などは面と向かって「似てないね」と言ってくれるだけ正直で、辻は明らかに気をつかっているとわかる挙動不審な態度(異性が苦手なのを差し引いても)で「けっこう似てるよ(要約)」と取り繕ってくれた。
 兄がを見る目は、いつも冷たい。ボーダーの中では話しかけられることもないし、そもそも会話をする以前に接触もない。ランクにすれば同じB級でも、あちらは隊員の不祥事によるA級からの降格で、こちらはB級にかろうじて引っかかっているだけのみそっかす。逃げるように玉狛支部に異動してからは、本部と玉狛の軋轢もあってますます兄妹仲は冷え込んだ。才能と努力を兼ね備えた兄にとって、トリオン量が少し秀でているだけでサイドエフェクトも有用ではない不出来な妹など認識もしたくない汚点なのだろう。
 ボーダーで兄にかけられた唯一の言葉は、「お前にボーダーここにいる意味があるのか?」というものだ。血縁とはいえどコネのように見られるのは嫌だからと、B級に上がるまでは兄にボーダーで声をかけないようにしようと心に決めて。やっとの思いでB級に上がったその日、報告と挨拶をしようと思って駆け寄ったにそれだけ言い放って兄はその場を立ち去ってしまったのだ。は呆然と、その姿を見送った。別に、兄の隊に入れてほしかったわけではない。四六時中、うろちょろと付き纏っていたいわけでもない。ただ、自分の実力で得たものを憧れの兄に見てほしかっただけなのだ。落ち込むを、たまたま通りかかった迅が拾ってくれた。めそめそと兄の名を呼んで愚図る面倒なB級隊員を厭うこともなく、「じゃあうちの子になるか」と玉狛に連れて行ってくれたのだ。ぼんち揚げを齧りながら迅に手を引かれて、初めて会ったばかりなのに迅の方がよほど兄らしいと思った。思えばと匡貴が言葉を交わしたことなど、ボーダーの外であろうといくらもなかった。手を繋いだのも遠い昔に数えるほどだ。大袋のお菓子を分け合って食べたことも、覚えている限りはない。ボーダーの皆は、匡貴とを苗字が同じだけの他人だと思っている。実際そうなのだろうと、もその日から思うようにしたのだ。

「家に帰ってないんだって?」
 にやにやとした顔は、決してこの状況を面白がっているわけではなく犬飼の素なのだとわかっていても落ち着かない。本部で兄の部下に捕まったは、思わず脳内で「両手を掴まれて捕獲されている宇宙人」の図を連想してしまった。もっとも、反対側の隣を塞いでいる辻は真っ赤な顔をしてから顔を逸らし気味なのだが。そんな状態でも、が辻の側から逃げようとした瞬間即座に腰を掴んでひょいっと持ち上げ元の位置に戻してしまったのだから、マスタークラスの隊員というものは恐ろしいものだった。
「二宮さん、心配してたよ?」
「せめて、辻さんが心配してたって嘘にしてください……」
「お、おれ……なの……?」
ちゃん、ネガティブなのにバッサリ言うよね」
 だって、兄がのことを心配するわけがない。家に帰っていないことだって、林藤経由で知った鬼怒田あたりが二宮に苦言を呈したのだろう。あの人は厳つめの外見に反して、小さい女子には特に過保護だ。心配してくれるのは嬉しいけれど、兄にそれを言うのはやめてほしかった。ただ血縁だという理由での監督責任を問われるのは、二宮にとっては煩わしいことだろう。ただでさえ兄によく思われていないのに、雑事を増やしたと悪印象を積み重ねるのは避けたい。小言を言われるのは申し訳ないが捨て置いてくれて大丈夫だと、二人から伝えてもらうべきだろう。ぴょこりと立ち上がって、深々と二人に頭を下げる。いつか言うことになるかもしれないと思っていたセリフを、脳内で復唱して深く息を吸った。
「え、なになに」
「玉狛支部に、泊まり込みしてるのは本当です。でも両親の許可も取ってますし、学校もおろそかにしていません。二宮隊長にはご迷惑をおかけしないようにしますので、」
「待っ、て……ぇ、っと、」
「『二宮隊長』って何?」
「あ……そ、その、部外者の私なんかが隊長って呼ぶのは、烏滸がましいとは思うんですけど……」
「いやいや、そうじゃないでしょ。お兄ちゃんのことを……」
「お、『お兄ちゃん』……?」
「そこで怯えちゃうかー」
 何だかとても恐ろしい敬称が聞こえてきた気がして、は青ざめた。何やら遠い目をした犬飼と、相変わらず赤面しつつもどこかおろおろとしている辻。言うべきことは言えただろうかと再び逃走経路を探すの耳に、どやどやとした喧騒が届いた。
「『E.T.』……?」
「言いたいことはわかりますけど、宇宙人違いですよそれ」
「ヤクザのカツアゲみてぇな構図だな」
「ちょい、『ヤクザのカツアゲ』って何や新しいメニューみたいな字面しとらん?」
「しとらんですね」
 奇しくもと同じ感想を抱いたらしいが宇宙人違いの生駒と、律儀に突っ込みを入れる水上。「ちび宮じゃねぇか、珍しいな」と頭を撫でてくれたのは、この構図をヤクザのカツアゲと評した諏訪だ。諏訪はと二宮が兄妹であることを知っているが、「二宮妹」ではなく「ちび宮」とを呼ぶ。語感がいいからだと言っていたが、それがへの気遣いであることを知っていたからは諏訪に少し懐いていた。
「諏訪さん、俺と同カテゴリのくせによう女子の頭撫でるやん……」
「同カテゴリって何だ、同カテゴリって」
「ちっこい子に近付いたら通報されるカテゴリ」
「言うじゃねぇか、水上よォ」
 生駒にガンをつけ水上にヘッドロックを決めながらも、諏訪はちらりと犬飼たちに視線を向ける。「そんで、お前らは人攫いか?」と投げかけられた言葉は冗談の体をしていたが、油断なくその挙動を見据えている。隊としては上位にあるとはいえ年長者に面と向かって反発する気はないのか、犬飼はおどけたように降参のポーズをとってから距離をとった。
「やだなぁ、可愛い後輩とお話してただけですよ」
「絵面に気ぃ遣えよなー、お前らヤクザってかマフィアみてぇだぞ」
「えー、スーツなのは確かですけどそこはSPとか」
「カタギに見えるツラで言えよな」
「ちび宮ちゃん、飴ちゃん食う?」
「あ、ありがとうございます……」
「SPさーん、仕事仕事」
「水上、急に裏切るやん……」
 生駒から飴を受け取ると、それを指して水上が犬飼たちの注意を引く。辻はもう帰りたそうにしていたが、じっとの手の上にある飴を見ていた。
「……た、食べますか、辻さん」
「ぇ、……!? い、いい……」
ちゃんって辻ちゃんに甘くない?」
 犬飼の不満げな声が聞こえるが、二宮兄妹の関係を面白がっているように見える犬飼とは異なり、辻は純粋に二宮を気遣って致し方なくに関わっているようだから不憫に思えるのだ。どちらかといえば『こちら側』で、飴の十でも百でも献上したくなる。けれど辻が要らないと言うのなら押し付けることもないだろうと、包み紙を剥がしてもきゅりと口に含んだ。
「あ」
「?」
 辻がなぜか驚いたような、困ったような声を上げてを見る。やっぱり飴が欲しかったのだろうかと目で窺うも、挙動不審の辻からは何も読み取れない。何がまずかったのだろうかと首を傾げるも、その答えを辻がくれることはなく犬飼が生駒を茶化した。
「困りますねぇ生駒さん、こういうのは事務所通してもらわないと」
「嘘、ちび宮ちゃんの事務所二宮隊やったん? 俺出禁?」
「出禁です出禁、ついでに握手券も没収です」
「ほんまぁ? 堪忍したって〜……って握手券って何やねん、そんなんあるんやったら俺が欲しいわ」
「付き合ってらんねぇ、なぁちび宮」
 諏訪が呆れたように頭の後ろで腕を組み、今のうちにさっさと行けとばかりに視線で廊下の奥を示す。その気遣いにぺこりと頭を下げて駆け出すと、水上がひらひらと手を振って見送ってくれた。犬飼が妙にあっさりと退いてくれたことを疑問に思いながら、は目的地である香取隊の作戦室を目指して小走りになる。振り返ってもう一度頭を下げると、諏訪はわざとらしく顔を顰めてあっち行けのジェスチャーをしてくれた。
「――そんで、結局本当にただSPやってたのかよ?」
 と、それから生駒と水上が去った廊下で諏訪は唸った。諏訪は、少しだけと縁のある間柄だ。師匠と言うほどでもないが、銃手として面倒を見てやったこともある。入隊指導の場であまりにも所在無げにしていたのが目について、構わずにはいられなかったのが細い縁の始まりだった。二宮の妹であるとにわかには信じられない、甘えたで内向的な性格。見た目も、あの端正ではあるが鋭く圧のある兄とは違い柔和で可愛らしい顔立ちをしていて、パッと見は髪や目の色くらいしか共通点がない。ありふれた色であるしあまりにも二人が他人のようにしているから、ボーダーのほとんどの人間は彼らを兄妹だと思っていないのだ。妹の方は玉狛で防衛任務ばかりしていて本部ではレアキャラであるし、二宮の妹がボーダーに在籍していることすら知らない者ばかりだろう。諏訪とて、が「兄さんみたいな、立派な隊員になりたいんです」と憧れと共に兄の存在を打ち明けてくれたときはどんなに驚いたか。確かに二宮という姓はボーダーにおいてあまりに有名だが、を見て即座に血縁と結び付けられる者はまずいない。兄である二宮が妹に興味も示していないのに、部下である犬飼たちは何をに構うのか。後輩想いの男の訝しげな視線を受けて、犬飼は肩を竦めた。
「だって二宮さん、ちゃんがボーダーいても不機嫌ですけど、ほっといて誰かに構われてても不機嫌になるんですよ」
「はぁ?」
「お菓子とか、知らないところで食べ物もらってるのも嫌みたいです」
「実は過保護ってことか?」
「さぁ、どうでしょうね。今日も俺らが勝手に動いただけですし」
 何だあいつ、と諏訪が首を捻るも犬飼も辻もその答えなど持ち合わせていない。実際彼らも二宮の機嫌の下降を防ぐために自分たちの都合でに付き添っていただけで、二宮に何か指示を受けているわけではないのだ。自分の部下であるからかはわからないが、まだ全くの他人より犬飼たちが面倒を見ていた方が不機嫌が長引かない。彼らなりに、隊の雰囲気が悪くならないように努力しているだけだ。
「ボーダーを辞めてほしいのは確かみたいですよ。ただ、玉狛にいられるくらいだったら本部にいた方がいいみたいで」
「本部にいたらいたで周りが構うんで、俺たちが出張ってるってわけです」
「……いや、もう自分の隊にでも入れろよ。いっそ」
 諏訪が呆れて煙草を咥え直すものの、辻は首を横に振り犬飼は肩を竦める。二宮としてはそもそもボーダーにいる妹を透明人間のように無視しており、部下の行動も咎めはしないものの言及もしない。「複雑怪奇な兄妹仲ですよね」と笑う犬飼に、辻も静かに頷く。兄妹は兄妹で大概だが、部下も部下でどこかおかしいのではないだろうか。とはいえ諏訪はあくまで他人だ。困っている後輩に多少の助け舟は出せるが、よその家の事情に首を突っ込むような真似をするつもりはない。妹に関わろうともしないくせに勝手に不機嫌になる二宮には思うところもあったが、どうしてかが兄に嫌われていると思い込んでいるままの方が良い気もする。どのみち深く関わることでもないと、諏訪はかぶりを振ってその場を解散したのだった。
 
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