二宮に、特定の師はいない。いないというより、誰も教えるに教えられないのだ。そもそも戦法スタイルは、ランク戦を前提としていない。レイガストにシールド、エスクードという防御偏重のトリガー構成と、散弾銃型のアステロイドにメテオラという「狙わなくとも当たる」ことが優先の広域火力。市民や拠点を盾で守り、大量のトリオン兵を牽制・制圧するためだけのトリガー編成。防衛任務の意義を考えればひとつの最適解ではあるが、ランク戦のために対人チーム戦を極めているボーダー隊員たちの中では意味の薄い防御偏重。メインにもサブにもエスクードとシールドをセットし、レーダー対策のバッグワームを持たない構成を見て諏訪などは「教えてやれることが無ェ」と頭を抱えたものだった。実際、トリオン兵の襲撃があった際の避難誘導や警護、民間への被害軽減など、防衛任務の実績は少なくないのだが。ランク戦がすなわち隊員としての評価に直結するボーダーにおいて、ランク戦のことを一切考えていないトリガー構成を伸ばしてやれる師はいない。あらゆるトリガーを使いこなす木崎だけが、どうにか面倒を見てやれるくらいだった。
 剣にしろ銃にしろセンスのないに、散弾銃とメテオラという「とりあえず撃っときゃいい火力」を与えたのは諏訪である。がB級に上がれたのは、C級という戦闘技術や戦略がどんぐりの背比べ状態の集団で「単純な火力の押し付け」が純粋に強かったからだ。さすがは二宮の妹というべきかそれなりに飛び抜けたトリオン量を持つの戦い方は、基本的に物量のばら撒きである。木崎が教えたのは盾での格闘の他に「盾に相手をメテオラと一緒に閉じ込める・盾に引き篭って全域メテオラ」「散弾銃と盾で牽制しつつ敵を目標地点まで押し上げる」など警護や拠点防衛、掃討戦が前提の戦略だった。
 最終的に木崎が鍛えてやれるのは、主にフィジカル面のみとなった。トリオン体である程度膂力のなさはカバーできるとはいえ、根本的にセンスのないができるのは「練習通りに体を動かす」「体力をつける」だけである。毎日地道に体を鍛え、仮想トリオン兵に文字通り体当たりする日々。ネックであるそもそもの体格の小ささは、トリオン量にものを言わせたスラスターの推進力でカバーして。救助活動も木崎の伝手で本職のレスキューに教えを受けに行っている。本当に、ランク戦というボーダーの仕組みが惜しいと木崎は常々思っていた。
 けれどは、防衛任務ばかりの日々に満足しているようで。そもそもボーダーを目指したのも街を守る兄の姿に憧れたからだと、そういえば迅が言っていた。今のは、小さな体を張って立派に市民を守っている。銃手や攻撃手としての評価は低くとも、ボーダー隊員としてしたかったことを成している現状は憧れを体現できているということなのだろう。小南も烏丸も宇佐美も陽太郎も、もちろん木崎も、迅に連れられ玉狛支部にちょこんと現れたを可愛く思っている。だからこそもう少しわかりやすい評価を受けに行ってほしいと口惜しく思うことも多いのだが、チームを組みランク戦に挑むには戦法やトリガー構成を根本的に変えねばならないを見ていると「そのままでいい」と言ってやりたくもなるのだった。
「あれの能力の多寡など聞いていません」
 出されたコーヒーに手もつけず、二宮は淡々と木崎に告げた。今はまだ、は学校に行っている時間だ。木崎と自身の講義のない時間に、二宮は木崎の元を訪れたのだ。
「俺は愚妹を回収しにきました。要件はそれだけです」
「そうは言ってもな……」
 二宮が兄であるというのも、何某か確執があるらしいというのも聞いていたが。二宮が本人に「ボーダーを辞めろ」だの何だのと直接言わない理由はわからないが、二宮の態度は一貫していた。二宮は、がボーダーで何をしたいのか、何ができるのかなどどうでもいいのだ。ただ、がボーダーを辞めるということは二宮の中で決定事項で。それを実行するのに、玉狛を訪れただけだった。二宮は本人を説得する必要など微塵も感じていない。の身柄に権限のあるところに話を通して、淡々と処理をする。彼らが兄妹であることを知っている面々は、二宮が妹に対して心配性と照れ屋を併発させているだけなのではないかとすれ違いを見守るような雰囲気であったが。これはそのような可愛いものではないと、二宮と対面した木崎は危惧を抱いた。ただ、落とした鉛筆を拾った相手から受け取るだけのような物言い。
「あいつは優秀な隊員だ」
「あれが優秀だろうと無能だろうと、何か関係がありますか?」
 二宮が木崎に求めているのは林藤への面通し、もしくは林藤の代理でのの除隊に関するサインだけだ。なぜのボーダー隊員としての能力の話になるのかと、本気で不可解な様子を示していた。二宮は徹頭徹尾、の除隊のみを結論に話をしている。以前が、兄に嫌われているのだと落ち込んでいたことを思い出した。自分が無能だから、きっと兄は自分のことが嫌いなのだろうと。違う、と木崎はその時も否定した。けれど今その言葉を否定する根拠は、当時と違う。二宮は、妹のことを嫌ってなどいない。無能か有能かなど、そもそも興味もない。ある意味嫌われているより残酷な現実は、到底に言えないだろう。
「ご両親は、のことを応援していると聞いた」
「そうですね、彼らは妹のボーダーでの活動を認めています」
「本人も、ボーダーを辞めるつもりはないそうだ」
「そうですか」
「……保護者の同意があり、本人の意思で在籍している。一方的に除隊する理由はない、林藤支部長に聞いても同じことだろう」
 また、だ。妹自身がどう思っているのかという最大の論点であるべきところに、あまりにも関心がなさすぎる。それとなくそこを指摘すると、二宮は本気で意味がわからないという顔をした。
「あれは俺の妹です」
「…………」
「あれに判断を求めることに、何の意味もない」
「それは、あまりにも二宮の人格を軽視した物言いだ」
「人格の尊重は論点ではないでしょう」
「その言い分は通らない、少なくともあいつの除隊を求める上においては」
「……なるほど。確かに俺に除隊の権限はないようです」
 あっさりと立ち上がった二宮は、木崎に無理を通せないことを理解し呑み込んだようだった。時間を無駄にするつもりはないらしく、それ以上粘る様子は見せなかった。本人もしくは両親の気が変わらなければ、兄にすぎない二宮にはの進退に関して何の権利もないのだという事実を確認した時点で彼の用は済んだのだろう。
「妹を危険に晒したくないというのなら、話し合いの場を設けることくらいはする」
「……それはどういう意図で?」
「単に、フェアじゃないと思っただけだ。お前にとっても、あいつにとっても」
「気遣いには感謝します」
 だが結構だと、踵を返した二宮の背は雄弁に拒否の意思を語っていた。結局兄妹仲は複雑怪奇な現状維持か、と二宮が去った部屋で木崎は腕を組む。妙なところで律儀な二宮は、視線で木崎を制してコーヒーカップを片付けのために持って出て行った。
 二宮とて別に、極悪非道の冷血漢ではないのだ。を危険に晒したくないのではないかという木崎の言葉を、二宮は否定しなかった。根底の感情は、心配なのだろうか。安易にそうとも言えないが、二宮はの兄であることを前提に話をしていた。「無能な妹を汚点と思い認めていない」のなら、ああいう交渉はしないだろう。けれど一度もの名を呼ぶことはなかったし、結局と話し合う気もない。二宮の意図が読めず、あれではが萎縮するばかりなのも当然かと木崎はこめかみを押さえた。
 小さい頃から、にとって4つ歳の離れた兄は「何を考えているのかわからない」存在だったらしい。家でも学校でも、親に言われてのことや家族皆で動く流れを除いては特に関わることもなく。年の離れた男女のきょうだいの距離感などそんなものと言ってしまえばそうだが、一緒に遊んだり喧嘩をすることもなかった。落ち着きがあって年齢以上に大人びた子どもである二宮が、年相応に甘えん坊なの世話を任されているという構図だったらしい。見るからに「大人しい女の子」であるは「年上の男の子」である兄に気後れしていたし、二宮の方もに構うこともなかった。ひとり遊びや読書をしているが視界に入る範囲で、自分の勉強や課題をこなす。なまじが手のかからない子どもであったため、二宮が手や口を出す必要もなく距離は縮まらなかったのだ。
 そのうちにも二宮にもそれぞれの人間関係ができて、も兄のお守りを必要とする幼子ではなくなって。近界民の大規模侵攻という転機を経ても、兄妹関係は二宮のボーダー入隊によって更に遠くなっただけだった。は冷たい兄に対して萎縮してはいたが、同時に畏怖にも似た憧れを抱いてもいた。昔から「いい子」であまり我儘を言わなかったが兄を追いかけてボーダーに入りたいと言ったとき、両親は反対どころか喜んで賛成したらしい。両親とも、の性格を考えればオペレーターやエンジニアが精々だと思って危険はないと考えていたのだ。玉狛に異動になった際には迅や林藤と連れ立って挨拶に行ったが、戦闘員であることには驚いていたものの「この子がそう言うなら」とあくまでの主体性を尊重する意志を見せていた。つまり、に対して奇妙な態度をとっているのは兄である二宮だけだ。二宮匡貴だけが、二宮の自主性を否定している。そもそも干渉するほど近い仲でもないというのに、なぜ二宮はそこまで頑なに妹をボーダーから遠ざけようとするのか。それを二宮が当事者である妹にすら語ろうとしないのだから、誰もわかるはずがなかった。
 『あれは何も成せません』
 いつだったか二宮が語っていた言葉を思い出し、木崎は眉を顰める。あの天才にして秀才の男から見れば、大抵の人間は無能だろう。ましてやは兄の背中を追って生きる程度の才覚はあるものの、「いい子」や「優等生」のそれに留まり鬼才だとかそういった抜きん出たものは持っていない。はぼんやりとした憧れで兄を追っただけであり、ボーダーにいることの根底を深く考えたことはないのだろう。それを悪いこととは言わない。そもボーダーにいる戦闘員の多くは、本当の意味で人命を守ることの重さを知らない学生たちばかりだ。良くも悪くも、自分たちの戦いには自身の命が懸かっていない。まるでゲームで遊ぶようにランク戦で日々トリオンを消費し、同じ組織の中で優劣ばかり競い合う。他の世界と戦争を行うことの深刻さやボーダーという組織の根本的な存在意義を、一体どれだけ理解しているというのか。木崎もそれを理解しているのかと問われれば、自らの経験を元に自身の考えを語るしかない。彼は亡き父の背を意識して生きてきたし、ただのふんわりとした憧れが確固たる軸に変わるまでも含めてが子どもの成長というものだ。しかし、二宮はそれを見守る気も導く気もないようで。そのくせ、が選ぶべき正しい道は二宮が知っているとでも言わんばかりの態度だ。二宮がそういう考えであるとしたら、あの男は無関心なのではなく。
「……はぁ」
 ため息を吐いて、自分も席を立つ。落ち着きのある筋肉と称される通り、木崎は思慮深い性質の肉体派だ。あれこれと思い悩むことを良しとしているわけではないが、勢い任せの脳筋というわけではない。同じレイガストを扱う後輩として、あの努力家で気落ちしやすい子どものことは気にかけているのだ。自分が深入りしていいものかという躊躇いはあるが、放っておけば兄妹どちらにとっても良くはない結果になるのだろう。「どちらも」ボーダーから欠けてはならない人物だと、木崎は思っている。少なくとも話し合いくらいはすべきだろうと、気弱な後輩の行く末を案じたのだった。

 実のところ、二宮がの除隊に向けて働きかけたのはこれが初めてではないらしい。がボーダーに入ると決めた時も、入隊してからも、B級へ昇格した後も、玉狛に異動してからも。林藤も木崎たちの知らないところで二宮の来訪を受けていたらしく、そのくせに自身は一度も二宮に面と向かって辞めろと言われたことがない。兄がそうやって動いていることも知らなかったらしく、木崎に二宮の一件を伝えられたは「二宮隊長が……?」と慄いていた。そんなに自分がボーダーにいることが嫌だったのかとまた落ち込みつつ、レイガスト片手に今日も訓練室で仮想トリオン兵相手に突進を繰り返しているのだから案外タフなのかもしれない。憧れていた兄に拒絶されたらボーダーを辞める方向に行くのではないかと思っていたが、にその意思はないようだ。かつて二宮に拒まれたことがかえって、がボーダーを「兄のいる場所」ではなく自身の居場所として考える契機になったのかもしれなかった。
 そんなことを思いつつ、食事当番で芋を剥く手は淀みなく動く。の好物が甘ったるい洋菓子ではないことを、二宮は知っているのだろうか。今日の手土産に二宮が寄越してきたのは、有名店のものではあるがには少し甘すぎる、クリームがふんだんに使われているケーキだ。まさか木崎の好みだと思って買って来たわけではないだろうから、の好みだと思っているのだろう。は炭酸が飲めないからジンジャーエールの味も知らないし、外でわいわい焼肉をするよりは玉狛で木崎の肉じゃがを食べたいという。タルトやケーキは少し甘すぎるのだとだいたい陽太郎たちに譲ってしまって、煎餅やぼんち揚げをぽりぽりと食べている。内気ではあるが行動力はあり、ネガティブではあるが言いたいことは案外言う。迅に尻を撫でられた時など、迅がトリオン体だったのを良いことにレイガストで思い切り殴っていた(迅のトリオン体の腕は吹き飛んでいた)。が二宮に対し萎縮しているのは、兄への憧れがあるからだ。あんな人間を小さい頃から傍で見ていれば、親よりも先生よりも絶対的な存在として認識するだろう。
 『二宮隊長は、かっこいいんです。射手として飛び抜けた実力があって、大局を見て立ち回れて、指揮もできて。昔から、何でもできて……運動も、勉強も……』
 まるで、アイドルのファンか恋する乙女だ。二宮のことを兄と呼べないのも、兄に対して大きすぎる畏敬の念を抱いているからだろう。二宮匡貴という存在を頭のてっぺんから爪先まで尊敬しているから、緊張してろくに話せないし対面すれば直視もできない。失望されたくなくて、幻滅されたくなくて、視界に入るとどうしたらいいのかわからなくて動けなくなる。二宮の言うことを面と向かって否定などできなくて、与えられるものに疑問を抱くなど以ての外。なるほど二宮から見た妹は、いつもビクビクしていて自分の言うことを聞くだけのつまらない人間なのだろう。は兄に対しては自分の好みなど主張しないから、年頃の女児であればこうだろうという二宮からの印象を変えようともしなかったのだ。二宮がケーキを持ってきたのも、がいつも本当にそれを嬉しそうに受け取っていたからだろう。兄への尊敬が強すぎて自分のことを主張しなかったにも、現在の奇妙な兄妹関係を作り上げた責はあるのだ。
「木崎さん、お手伝いします」
「ああ、助かる」
 訓練を終えてきたが、木崎に声をかけてテーブルを拭いたり皿の用意をしたりする。くるくるとよく働くは、木崎が肉じゃがを作っているのを見るとぱあっと顔を輝かせて足取りを軽くした。
「正直、お前は二宮に辞めろと言われたら辞めると思ってた」
 ふと、言わずにおこうと思った言葉が口をつく。振り向いたは、唐突な言葉にきょとんと首を傾げて。木崎の言ったことを理解すると、ゆっくりと目を瞬いた。
「私も、そう思ってました」
「自分でも意外なのか?」
「はい、びっくりです」
 困ったように、眉を下げて笑う。ああ、と木崎は納得がいった。の兄への憧れを恋に喩えるのなら、は既に失恋しているのだ。迅がを拾ってきた日に、既に一度二宮に拒絶されていた。憧れが全て消えたわけではないが、期待するのをやめてしまったのだろう。女という生き物は、男が思うよりも切り替えが早い。二宮のことは尊敬している「けれど」、もう既にその言葉は天啓ではない。まだ向き合って話し合うことは怖いけれど、盲目的に言うことを受け入れることもない。二宮は、気付いているのだろうか。いつも片手間に面倒を見るだけで事足りていた聞き分けのいい妹は、もう自分のことを見ていないのだ。
「子どもは成長が早いな」
「そうですね……?」
 未だその自覚はないらしいは、ふっと笑んだ木崎に首を傾げる。あどけない少女の顔はしかし、あの日の迷子のような表情でないことは確かだった。
 
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