は兄のことが嫌いだった。嫌いというより、気味の悪い人と思っていた。あれは「三番目の兄のアヤックス」などではない、そんな人としての名などあまりにも似つかわしくない。だからアレは「公子」で良いのだ、ファデュイの執行官タルタリヤ、それがあのおかしな存在にはまだ相応しい呼び名だろう。
「おかえりなさい、兄ちゃん!」
テウセルが元気に駆け寄っていき、トーニャがおずおずと、しかし嬉しそうにそれに続く。無邪気に兄を慕う弟妹たちに隠れるように、はそっと暖炉のある部屋から離れた。小さな弟妹たちに、タルタリヤは自身の職業を「玩具販売員」だと説明している。まったくもってふざけた冗談だが、兄の「仕事ぶり」を聞けばそれはもう楽しく「遊んでいる」ようだったのであながち当たらずとも遠からず、といったところだった。父母はもちろん、兄姉たちも彼のイカれた仕事を知ってはいたけれど、弟妹たちの可愛らしい夢をわざわざ壊すようなことはしなかった。それはとて同じだ。
鯨の群れに突如生まれた鯱のような兄だが、それでも家族への愛情は本物なのだからなおのこと不気味だった。彼は良き弟であり良き兄で、この女皇の国における己の地位を家族にひけらかすこともなく、家の中ではきょうだいの一員として笑ったり困ったりと忙しくしている。には兄の考えていることがわからない。家族想いで戦闘狂で弱者を見下し慈しむ、それらの全てが取り繕った姿ではないなど、そんなわけのわからない人間がいるだろうか? は兄が人間に見えなかった。間違って人間の家に生まれてきた、何か違う生き物だと思っていた。だから、は自分にいちばん近い兄を避けた。家族は非凡な三男のことをそれぞれ形は違えど、愛している。そんな家族の前であからさまに兄を気味悪がって排斥することはできなかったし、単純に家のいないことの多い兄に対する距離感を保つように努力はした。けれどどうしてかタルタリヤの方は、妹の中のひとりであるはずのを放っておいてはくれなくて。
「やぁ、。俺のお姫様。元気にしてたかい?」
「……トーニャたちにするようにしなくていいよ」
「子ども扱いしないでって? まだは子どもじゃないか。可愛い反抗期だなあ」
「そういうことじゃなくて……」
反抗期だと思うのなら距離を取ってくれればいいのに、素知らぬ顔をしてタルタリヤは距離を詰めてくる。「特別なお土産があるんだ」と部屋へと促す兄の手は、いつの間にかの肩をしっかりと掴んでいた。痛くはないが、有無を言わせない。ここで下手に反抗して弟妹たちの前で騒ぐ方が嫌だと、は嘆息して兄に従わざるを得なかった。
「はい、お土産」
「…………」
ガチャガチャと、玩具のように床に散らばる重い金属。短剣、弓、片手剣に大剣。槍までどうやって持ち込んできたのかと、は何度目かのため息を吐いた。タルタリヤはいつもこうだ。別に他の兄弟のようにおもちゃや服が欲しいわけではないが、どうしてかタルタリヤはに武器ばかり持たせようとする。時には魔物の素材を寄越してきたこともあったし、著名な冒険者や武芸者の書いた指南書まで押し付けてきたこともあった。すぐ上の兄はどうにも、に戦士としての期待を寄せているらしい。
「今回もお気に召さなかったのかい? 俺のお姫様は将来有望だね。次は楽しみにしててよ、もっとゾクゾクするような武器をあげるから」
「……いらないよ」
どうにも性能や質の低さを気にして受け取らないのだと勘違いしているらしい兄に、それこそ何度も繰り返した言葉を連ねる。それをいつものように聞き流して、ニコニコと笑いながらタルタリヤはの手にナイフを握らせた。
「こうやって持つんだ、そう、上手。短剣は便利だよ。突き刺すことはもちろん、短い間合いでも薙ぐことができる。にこれはまだ大きいかもしれないけど……短剣を使うのなら、兄ちゃんがぴったりのを用意してやるから」
自らの胸にナイフを突き付けさせて笑うタルタリヤは、それはもう楽しそうにしていた。どうしてこうも、兄はに人殺しの才能を期待するのか。は戦いなどしたくない。姉たちのように、暖炉の前で料理や裁縫をして穏やかに暮らしたい。のことが嫌いで嫌がらせをしているのかとも昔は思ったが、兄がを見る目はゾッとするほど甘やかだ。恋焦がれて待ち侘びるようなそんな目は、を見ているようで見ていない。いつか戦士になるを遠くに見ているのだと、最近はわかるようになった。
「早く俺を殺しに来てくれ、。兄ちゃんは楽しみにしてるよ」
重ねられた手は、熱い。例えこの切っ先を僅かにずらして心臓に沈めようとしても、兄は歓喜の声を上げて笑うのだろう。そして、その瞬間からは弱者ではなく彼を楽しませる戦士として見なされる。そんなのは御免だ。誰がこの戦闘狂に付き合って、殺し殺されの人生を楽しもうと思えるのか。楽しい戦いは何度も続くほどにいい、そんな信条めいたものすら見せる兄は例えが期待外れに弱くとも殺して終わらせてはくれない。むしろ何度も何度も戦って、が自分を満足させる域に至るまで、至った後も、命尽きるまで永劫に続けようとする。そんな終わりのない闘争に人生を捧げられるのはこの頭のおかしい兄だけだ、自分を巻き込もうとしないでほしい。そう思えども、タルタリヤはずっとずっと待ち続けている。が彼に刃を向けるその時を。一度始めてしまえば、その先は死なせてすらくれない兄に一生追われることになる。だからこそは、この危険極まりない引き金から指を離したかった。兄がその手を上から押さえ続けていても、いつか逃れられると信じていた。
「俺から逃げたいなら、道はひとつだよ。俺を殺さなきゃ。そうすればお前は、自由になれるんだ」
刃の重さに震えるを慈しむように、タルタリヤは耳元で囁く。この人は時々、生きたいのか死にたいのかわからないことを言う。そんなところも、が兄を不気味だと思う理由のひとつだった。は兄を嫌いだと思いたくない。積極的に負の感情を向けてしまえば、それが敵意になる気がした。この兄と戦ってはならないのだ。だからは、兄に反発するより逃げ道を探す。きっと全部わかっていて楽しんでいるのだろう、タルタリヤはいつもの前で笑みを崩さなかった。自由という言葉に、ふと遠い異国が思い浮かぶ。抑圧の嵐を貫いた風は、この冬の国にも訪れてくれるだろうか。そんなことを思い描いてしまったせいなのか、の手の中に神の目が現れたのはその夜のことだった。
「あんた、『公子』の妹だったのね」
言葉こそ剣呑だがその実どうでも良さそうに、『淑女』シニョーラはを見下ろした。執行官の例に漏れず諜報に秀でた彼女は、兄との一方的な不仲もの家出の原因も知っているのだろう。でなければあの執行官らしからぬトラブルメーカーの妹など、懐疑と不信の目を向けられていたに違いなかった。
「はい、『淑女』様」
「確かに顔は似てるけど……」
刺々しい装飾に覆われた爪先が、そっとの顎を持ち上げる。気位の高さが振る舞いに現れている淑女の指先は、兄とは別の意味で誰にも有無を言わせない何かを有していた。「ふうん?」と愉快そうに口元を歪めた淑女は、途端興味を失ったようにパッとから手を離す。「髪は染めたの?」と金色のそれを指し、が黙って頷くと「無駄口を叩かないところは悪くないわね」とここにはいない兄と暗に比べた。
「『公子』の血縁者で、風神に視線を向けられて、騎士みたいな格好をして。気に食わない要素だらけだけど、まあ嫌いじゃないわ」
「……ありがとうございます」
風属性の神の目。あれを手にしてしまった夜、は絶望した。こんなものを手に入れてしまっては、兄はいよいよを戦いから逃がしてくれないだろう。逃げたいと思ったを憐れんで翼をくれたつもりなら、生涯風神バルバトスを呪う。そんな誓いじみた決意すら抱いて、は神の目を叩き割ろうと無駄な格闘をしたものだ。
けれど物音に気付いたらしい家族がドアをノックして、我に返ったは咄嗟に窓から逃げ出してしまった。あれほど乱暴な扱いをしたというのに、神の目はを助けてくれて。風に運ばれて行く宛てもなく飛び続け、何の因果かファデュイの養成所でもある孤児院に拾われた。当然戦士になどなる気はなく暫く雑用をしていたが、ある日庭で出会った男に言われたのだ。灯台下暗しと言うではないかと。公子は騒乱の種であるがゆえにほとんど国に戻らず遠くへ派遣されているし、謀略を嫌って他の執行官たちには戦い以外の興味を向けようとしない。厭戦的な妹が、まさか自分と同じファデュイで戦士として戦っているとは思いもよらないだろう。誰か執行官の下につけば、目眩しになると共に権力という盾を得られる。それに風の元素は移動の術に秀でているから、神の目の扱い方をきちんと学べば兄に遭遇しても逃げることができる。そう滔々とファデュイに加入するメリットを説く男に、思うところはあったものの結局は正しいことを言われている気がして。どの道に逃げ場はない、他国へのツテもない。それなら兄が自ら傅いた女皇の率いる組織に入った方がいいのではないかと、そう思わされてしまった。
その日自分が話した男が『道化』その人であると知ったのは、男の元で教育を受けるようになってからのことである。道化ではなく詐欺師と名乗るべきだと思いながらも、頭のおかしくなりそうな訓練についていくのでやっとだった。もしかしたらもうは、あの道化の良いように動く兵士に変わってしまったのかもしれない。そのうち西風騎士団にでも潜入させる気だったのか、髪の色を変えさせモンド風の名を与え、服装も振る舞いも騎士のように整えさせて『道化』は満足そうに頷いていた。そうして納得のいく出来になったを道化は自らの元で使いたかったようだが、ある日に下った辞令は『淑女』の補佐というもので。騎士のように育てられたが騎士ではない半端者を淑女は眉を顰めて見下ろしていたから、道化が手ずから育てたと聞いて彼に探りを入れたのだろう。
「使える駒なら何でもいいわ。ちょうどモンドの駒が欲しかったところなの」
その言葉に嘘はないらしい。椅子にかけた淑女は、淡々と命令を下していく。モンドでの長期的な計画があること、西風騎士団に駒を送りたいこと、偽装の身分とその設定。が成すべきことや、符丁と協力者。それらを言われたとおりに頭に叩き込んでいけば、淑女は満足そうに頷いた。行っていいわよと手を振られ、は黙って一礼する。部屋を去る間際に彼女が何か呟いた気がしたが、呼び留められてもいないのに振り向けばこの美しく恐ろしい人は機嫌を損ねるだろう。そのままドアを閉める刹那、指先を冷たい風が撫でた気がしたのだった。
221012