『お前はどこにも逃げないんだな』
私はゲンジツトーヒに凍原に来ているのに、エレーナちゃんはそう言ったことがある。宿題も人間カンケーの悩みも、嫌になったらどこにでも行ける。それって私の最大の強みだ。本当に嫌になったら、どこかに行っちゃえばいい。誰も私を追えない。私は小さい頃のことを思い出して、エレーナちゃんに話した。実のところ、シルバーアッシュにも話したことのないどうしようもない、
感傷。
『小さい頃にね、あちこちに行ったことがあるの。新聞とか電気屋のテレビとかで盗み見た光景に、あちこち』
『大冒険だな』
『うん、うっかり死にかけたこともあるよ。砂漠でやばそうな生き物に襲われたり、湖の真上に落ちちゃったり』
私は泳げなかった。今なら頑張れば水面歩行とかできるし、水泳の訓練も受けてるけど。ドボンと水に沈んで頭が真っ白になって、パニックで手足をジタバタとさせても口から空気が逃げてくばかりで、死ぬ前にアーツのことを思い出して『飛べ』たからどうにか死なずに済んだ。頭からつま先まで濡れ鼠になって(ザラックじゃないけど!)家も着替えもない孤児の私は路地裏でガタガタ震えながら過ごしたものだ。ほんと、よく死ななかったと思う。それでも私はあちこち覗いてみることをやめられなかった。同じくらい、いつも路地裏に帰ってきていた。貴族の屋敷にだって倉庫の屋根裏にだって忍び込めるのに、私は路地裏で寝起きすることをやめられなかった。
『いろんなものを見たよ。いろんなところを見たの。でも、やめちゃった』
『ああ』
『なんかね、私はたぶんずっと「どこか」に「どこか」がある気がしてたの。「ここじゃないどこか」がテラのどこかにはあって、私はきっと「そこ」についたらピンと来るんだって。そう思ってた』
私の頭の悪い表現に、けどエレーナちゃんは静かに頷いてくれた。
『でもね、路地裏に帰ってきて思ったの』
私はここにいた。「ここ」がずっとそうだった。いつからいたのかわからないけど、寝心地なんて良くないし、ちょっと臭いし、寒いし暑いし、たまに金持ちの子どもに石を投げ付けられたり、蹴り飛ばされたりするけど。この路地裏には私がいた。「ここじゃないどこか」なんて、どこにもなかった。
『どこに行っても「どこか」なんてないのかも。誰かがいるから、「ここ」って呼ぶのかも』
イェラグにはシルバーアッシュがいて、凍原にはエレーナちゃんがいる。私にとってのテラって、点と点の繰り返しかもしれない。どこまでも行けたって、私はきっと『点』が欲しくなる。「どこか」って、私にはあんまり意味のないものなんだ。
『この雪原には私とお前がいる』
エレーナちゃんが私に手のひらを向けた。私はそっと手を重ねた。温度はない、伝わらない。けど、「そこ」に何かがあった。
私はお屋敷の厨房でひとり飴を舐めていた。死ぬほど甘い。甘すぎて眩暈がしそうだ。これが「ほんのり甘い」と笑っていたらしいエレーナちゃんの感じる世界を、私は理解できない。私は結局凍原の客人で、夕方になれば帰ってお屋敷とか外食とかでおいしいものをお腹いっぱい食べて(たまにお酒なんかも飲んだりして)、ぬくぬくと暖炉の火で温まって、ふかふかに整えてもらったベッドで寝たり、シルバーアッシュの隣でシーツの柔らかさを堪能していたりする。通りすがりの旅人でしかないのだ、私とエレーナちゃんはお友だちだったけど、同じ道を歩いてはいなかった。ただ少し、あの凍原で同じ時間を過ごしただけだった。私にとってはシルバーアッシュが一番だし(お薬の配達と「会社」の仕事なら、当然のように
後者を優先していた)、私はシルバーアッシュとの契約を捨ててエレーナちゃんたちの
戦列に加わろうとは思わない。そこには私の望むものはない。エレーナちゃんたちも、命を懸けた戦いを投げ打って『束の間の
安寧』なんて得ようとはしないだろう。噂に聞くレユニオンのイメージは制御を失った暴徒じみていたけど、彼女たちは怒りのままに当たり散らしているという感じではなかった。
「甘い……」
エレーナちゃんに受け取ってもらえない飴は積み上がる一方だ。私の手料理(?)のレパートリーはこれしかない。缶に詰め切れなくなったあたりで、もうやめようという考えが頭をよぎった。けど、これで最後だからと言い訳して厨房を借りた。作ってしまった甘すぎる飴を、一人で舐めていた。
もうおしまいなんじゃないかな、頭の中の私は諦めが早かった。これ以上どうするの、薬だってもう、受け取ってくれる人はいなくなった。「兄弟」さんの誰とも連絡がつかなくなって、彼らの元への「転移」はうんともすんとも発動しなかった。だいたいの場合、それは相手が死んだことを意味する。依頼は依頼人の死亡により自動的に消滅、それで終わりじゃない? 私はシルバーアッシュに残りの薬を返した。シルバーアッシュは何も言わずに、私のお給料から薬代を天引きする処理を止めた。エレーナちゃんは生きているだろうか。彼女の鉱石病はほとんど末期だった。もう間に合わないかもしれないとわかっているのに、「転移」するのが怖い。
エレーナちゃん、エレーナちゃん。凍原の女の子。髪も肌も雪うさぎみたいに真っ白で、氷みたいにきれいな顔には一文字の傷がある。優しい声で歌って、唇を歪めるようにして笑う。私の、初めてのお友だち。詩的なお父さんがいて、たくさんの兄弟がいて、クールっぽいのにイタズラとかしてくるし、案外
激情家で、私のことが好きで、私に会いたくなくて、たぶんもうすぐ死んじゃう。
人が死ぬことも、お仕事が突然なくなることも珍しくない世の中だ。先輩がいなくなったとき、私は追おうともしなかった。だって先輩は私を置いて行ったから、生きてたとしても私についてきてほしくないんだって、そうやってあっさり諦めた。ついてこいって言われなかったから「転移」しようともしなかった、そうやって物分かりのいいリーベリでいるつもりで、いた。
エレーナちゃんは言ってた。私のことが好きで、会いたくない。私に嘘をつかないエレーナちゃんの言うことだから、どっちも「本当」。好きで、けど会いたくないって私にはわからない。私は好きな人には(実際会いに行くかは置いといて!)会いに行きたい。シルバーアッシュにもヴァイスさんにもマッターホルンさんにもブレヒャーさんにもノーシスさんにもお屋敷のみんなにもどっちのハールートにも、そしてもちろんエレーナちゃんにも。好きだから会いたい。
順接だ。けどエレーナちゃんは「好きだけど会いたくない」の
逆接じゃなくて、「好きだから会いたくない」の順接だ。同じ順接なのに、結論は真逆。私とエレーナちゃんの世界はこんなに遠い。私はまだ何もわからない。軽い頭は急に回り出しはしないのだ、けど。
「まだ会える気がする」
エレーナちゃんが会いたくなくても、私は会いたい。
「もう会えなくなる気がする」
テンジンの眼差しよりスルドイ私の勘が言ってる。ちょっと
誇張かも。テンジンの方が私よりずっと賢いのは確実。でも、この勘はきっと間違ってない。きっともう会えない――行かなきゃ、きっともう二度と会えない。
私はガタッと立ち上がった。飴の袋を片手に持って、こういう時こそ「転移」すればいいのにそれも忘れて階段を駆け上がる。ウィッグとお
化粧をしている心の余裕はなかった。クローゼットの奥の奥から箱を「引っ張り」出して、『マールート』のフルフェイスメットを手に取る。
「『仕事』か?」
後ろから声をかけられて、めちゃくちゃびっくりした。シルバーアッシュだった。あなた今日会議で戻って来ないんじゃなかったっけ。私のヘルメットに視線が向いていて、私はどうしてか胸の辺りが怖さでギュッと縮こまった。悪いことを見つかったみたいだった。
「お、仕事?」
オウム返しみたいに(オウムじゃないけど)私は聞いていた。『会社の仕事』だったらどうしよう、そう怯えてるみたいだった。前のめりで、まるで違うって言ってほしいみたいに。私、シルバーアッシュの『仕事』を嫌がったことないのに。シルバーアッシュは首を横に振ってくれて――あれ、なんで安心してるんだろう。シルバーアッシュは私をじっと見ていた。質問を質問で返すなんてマネをした私を怒らずに、ただ最初の答えを待ってくれていた。
「あ……その、ごめんなさい、『仕事』じゃないよ」
依頼人はもういなくなった。エレーナちゃんは薬を受け取らない。差額を埋める人たちは、もういない。じゃあ私、何のために行くんだろう。途方に暮れたような気持ちで、私は言い訳みたいに呟いた。
「……ケンカしたの」
好きだから会いたくないって。私も好きだよって、それなのに、好きだから会いたいよって言えなかった。
「私の知っている喧嘩とはだいぶ異なるようだ」
「でもケンカだよ。ケンカなの」
お互いに嫌いって言うのがケンカだっけ? 私の友だちはエレーナちゃんが初めてだからわかんないよ。でもエレーナちゃんは泣いてるみたいだった。泣かせたのはきっと私だから、これはケンカなんだ。
「私にはまるで失恋のように聞こえるが」
「失恋?」
それって、どっちがどっちに? 私は首を傾げたけど、シルバーアッシュは答えてくれなかった。恋の歌だっていっぱい歌ってきたのに、私には恋のひとつもわからない。これが失恋? 賢い人には、私の知らないものが見えている。私に近付いてきたシルバーアッシュが何か言おうとして――ぱしん。私は、
衝動的にその口を塞いでいた。う、背が高い。腰がつりそーになりながら、私の両手がシルバーアッシュの口をばってんに塞いでいた。これ、
減給になるかな。冷や汗が流れたけど、なんでこんなことしたのかわからなくて、でも私の口からは私が考えをまとめるのを待たないで、こぼれ落ちるみたいに言葉が出ていた。
「だめって言わないで」
「…………」
「だめって、行っちゃダメって言わないで、私……シルバーアッシュがそう言ったら行かないから、絶対行かないから、今だけ言わないで、お願い……」
私、何を言ってるんだろう。でも、シルバーアッシュが行くなって言ったら私は行かない。もう二度と会えなくても、ケンカしたまま『失恋』しても、絶対行かない。私はそれが怖いんだ。シルバーアッシュには私のケンカなんて、何も関係ないのに?
「あなたに失望されたくないよ、あなたの
要望、ひとつも落としたくないの、だから」
いわないで。みっともないくらい震えた声が、広い部屋に響いた。私にはもったいないくらいの部屋だ。私が今こんな生活をキョージュしてるのだってシルバーアッシュのおかげなのに、私は何をしてるんだろう?
でも、シルバーアッシュは私の手を剥がさなかった。私の頬をゆっくりと擦って――涙を拭うみたいな仕草だけど、私は泣いていなかった。そして、ゆっくり頷いた。
***
シルバーアッシュが頷くと、の姿は瞬く間に消えた。いつ見ても規格外のアーツだった。開け放たれたままのクローゼット、テーブルの上に置き忘れられた飴の袋。彼女が『荷』を忘れていくなど明日は槍でも降るのだろうか。シルバーアッシュの知る限り、彼女はもっとも優れた配達人の一人だ。アーツには関係なく、運び屋という仕事に対する真摯さで。仕事中は周りが(印象との落差で)驚くほどしっかりしているだが、そういえばこれはもう彼女の『仕事』ではない。プライベートのは、たまに抜けている。
――いわないで。
実際のところ、シルバーアッシュは最初から彼女を止めるつもりはなかった。彼女が関わっている「友人」の正体を、ある程度察していても。シルバーアッシュが口にしようとしていた言葉は「お前は有給休暇を一日も使っていない」という事実だった。それはに対する情だろうか? 少なくとも今は彼女に急を要する仕事はない、それだけだ。あるいは信用、でもあった。はあれで公私混同を控える方だ。自身のプライベートがシルバーアッシュやカランド貿易に害を及ぼさないか必死に慌てふためく様はいじらしく、そして実際彼女は思った以上に自分自身で物事を完結させてしまえた。シルバーアッシュには些か、物足りないほどに。
シルバーアッシュはソファに腰掛けた。と――厳密に言えばあの日のは『マールート』なのだが――出会った日のことを思い返していた。実のところ、『運命の出会い』の時がどんな顔をしていたのか彼は知らない。フルフェイスのヘルメットを被っていたからだ。応接室でヘルメットを脱いだ彼女は、まるでそこだけ春が来たかのように色彩豊かで。イェラグのどこにいても目を惹きそうな、鮮やかな少女だった。契約を持ち出した時も「関係を進めた」時もは面白そうに笑って(そして胡散臭そうに警戒もして)いたが、実際が思う通り、シルバーアッシュにとってとの男女関係はそれが最も彼女を繋ぎ止められる情になるだろうと考えた、それだけだった。もっとも彼女は人との距離感を掴むのが存外上手で(アーツの話ではなく)シルバーアッシュを煩わせず、木琴楽器のように軽やかで心地良く笑う。掌の上で愛らしく囀って、捕食者のそれに頬ずりさえする。いつでも飛び立ってしまえるが故の余裕だとしたら、大したものだ。彼女という存在はシルバーアッシュの関心と――恋や愛と呼ぶには早計であるが、何らかの愛着の――対象だった。
「もう少し、困ってくれれば尚よかったが」
警戒心の強い小鳥だった。綺麗な籠を用意して、柔らかいクッションを敷いて、丁寧に巣を整えてやっても中には入らず籠の上にちょんと座って、まるで止まり木のように。掌の上に餌を撒いても、必要な分だけ啄んで踏みとどまってしまう。身動きが取れなくなるほどには頬張ってくれないのだ。『仕事関係』の人間には尚更そういう一線を引いた態度であったから、彼女が羽を乱すならそれは『外』の人間だろうとは思っていた。何なら嵐であってもよかった。彼女が自身では抱えきれなくなってシルバーアッシュに『公私混同』を求めてくれれば、なおのこと望ましい。けれどはシルバーアッシュに助けを求めなかった。些か物足りない結果ではあったが、予想外の収穫はあった。「いわないで」という懇願。は思った以上に、シルバーアッシュの失望と落胆を恐れていた。
「……今はこれで満足としよう」
のいない部屋で、シルバーアッシュは静かに呟いた。
***
「来た、のか……」
エレーナちゃんは、呆れたように笑った。私は間に合ったけど、間に合っていなかった。私のアーツって便利だけど、私が術者だから時に役立たずにしてしまう。今がそうだった。エレーナちゃんはひどい戦いの後みたいに『
満身創痍』で、かろうじてビルの地面に片膝をついていた。私はなんだかもう何も言えなくなって、エレーナちゃんに抱きついていた。慌てたみたいな、悲鳴みたいな声が私を止めたけど気にならなかった。黒いコータスの女の子にフェリーンのお姉さん、リーベリの女の子と……覆面とフードの怪しいひとが、エレーナちゃんと抱き合って凍らない私を目を見開いて見ていた。えっと、お取り込み中にごめんね。どなた?
「ロドスの、ドクターたちだ。私が負けたら、彼らの陣営に加わると……約束した」
「何その圧迫面接!? 怖いよ! ロドスってブラック企業だったの!?」
そんな暴力的な面接でエレーナちゃんをこんなにボロボロに追い詰めるなんてひどい企業だ。噂のロドスさんに初めて会ったかと思えばブラック企業だったなんて。エンシアちゃんを置いておけない。エレーナちゃんはフンガイする私に可笑しそうに笑って、咳き込んだ。
「面接官は私だ」
「ブラックコータスだ……」
「黒うさぎなら、そこにいる……」
エレーナちゃんが圧迫面接した側だったらしい。勘違いしてごめんね。ロドスの人たちは何か言いたげだったけど、後にして思えば私も大概怪しい人物だった。突然現れたフルフェイスメットで、しかも先代ハールートお手製の変声機で声を変えている。むしろよくエレーナちゃんは私と気付いてくれたなぁって思うけど、まあ彼女は「突然現れる不審者」のことをよく知っている。私だ。けど私はロドスの人たちと親交を温める時間なんてなかった。エレーナちゃんはかろうじて立ち上がったけど、どう見てももう『保っている』のは時間の問題だった。だからロドスの人たちも、エレーナちゃんと親しげな私にその時間を……最期を、譲ってくれたんだろう。言いたいことはたくさんあったけど、話したいことは限りなくあったけど、でも私もロドスの人たちみたいに口を閉じた。エレーナちゃんが、私に何か言おうとしていたから。
「頼みが、ある」
エレーナちゃんの声は細かった。吹雪にかき消される木立のざわめきみたいに、細かった。
「なぁに、エレーナちゃん」
エレーナちゃんが私に頼み事をするのは初めてだ。私はなんだか嬉しくて、エレーナちゃんの頬に耳を寄せた(フルフェイスメットだけど!)。
「私を父の元へ、連れて行って……くれないか」
そして、覆面の人に「ドクター」と呼びかける。
「これは離別ではない……ドクター。例え……私が、生きて戻らなかったと……しても」
「フロストノヴァ、」
「私は……ロドスに背を向けるのではない。ロドスと歩むために、私は……『行ってきます』」
エレーナちゃんは少し笑った。唇が、いびつな弧を描いていた。エレーナちゃんの願いを叶えようとして、私は気付く。気付いて、私は真っ青になった。私――エレーナちゃんのお父さんを『知らない』。
「……?」
「だ、大丈夫……大丈夫だよエレーナちゃん、私、すごい運び屋なんだから」
「ああ……」
エレーナちゃんは目を閉じた。少し疲れたのかもしれない。けど、意識を失っただけじゃなかったら。もう二度と、目が覚めなかったら。どうしよう、どうしよう、心臓がバクバクと鳴る。私は『知らない』人の元へは飛べない。試しに「エレーナちゃんのお父さんのところ」「エレーナちゃんの行きたいところ」と必死に念じてみるけど、アーツはうんともすんとも発動しない。私がウカツだったからだ。『訝しげ』に私を見るロドスの人たちに助けを求めるみたいに、私は勢いよく彼らを見た。
「だ、誰か、エレーナちゃんのお父さん、知ってませんか……!」
「えっ……?」
「写真でもいいんです、お願い、誰か……お父さんがいるところの写真でも、映像通信でも……それだけあれば、『飛べる』のに……!!」
眠っているエレーナちゃんの鼓動はひどく弱い。このまま、長くはもたずに尽きてしまうだろう。叶えたい、エレーナちゃんの初めてで最後のお願いを叶えたい。私は流れ星じゃないけど、運び屋なのだ。それなのに――私って本当に肝心な時に役に立たない。いつもそう、アーツは便利なのに、アーツはどこにだって行けるのに、私は。動いて、動いてよ、飛んでよ! 術力だけが辺りに凝って渦巻いて、空間が軋むみたいに奇妙な音が響いた。
「……姿がわかれば、いいんですね?」
戸惑っていた彼らの中から黒うさぎの女の子が歩み寄ってきて、私とエレーナちゃんにそっと触れた。もう、エレーナちゃんの肌は私以外の人間も凍らせない。覆面の人やフェリーンのお姉さんが女の子を制止しかけたけど、『意を決した』みたいに女の子は首を振った。
「ロドスのフロストノヴァさんが、望んでいます。彼女のために、泣いている人がいます」
あれ、私泣いてるのかな。そう考える暇もなく、頭の中に景色が流れ込んできた。何これ、すごくたくさん――頭がぐらぐらする。視界が視界じゃなくなる。たくさん、たくさんの――凍原、採掘場、冷たい床、雪原、雪原、雪原……私と、凍原……移動都市、廃墟と氷、割れたスクリーン――ドクン、と心臓が大きく脈打った。胸の奥が軋む、折れそうなほどに軋む、痛い、頭の奥も割れそうなほどに痛い! 心臓が私から飛び出したがってるみたいに激しく脈打つ、バクバクと破裂しそうなほど暴れ回る、頭が割れる――その刹那、私の瞼の奥に「その人」は映った。雪原で、大きな槍を携えて背を向け『
私』を待つその人を。
「あなたは……」
女の子の戸惑うような声が聞こえた。けど私は次の瞬間、バツン! と乱暴にスイッチを切るような音を立てて彼らの前から消え去っていた。
「運び屋失格だ……」
不時着。まさにそんな感じだった。地面に倒れ伏した体を起こして、傍に転がってしまったエレーナちゃんを抱き上げる。私の筋力が増えたのか、エレーナちゃんの体重が軽すぎるのか。たぶん両方。エレーナちゃんは衝撃で目を覚ましたみたいで(本当にごめんね!)、辺りを見回して少し笑った。
「お前は……本当に『すごい運び屋』だ」
「え、失敗じゃないの?」
あの時見えた光景は雪原だったのに、ここはどう見てもウルサスの移動都市だ。こんなところにエレーナちゃんのお父さんがいるのかな。エレーナちゃんは黙って頷いた。
「……父の兵がいる。それに、巫術も」
こんなところに、と呟いたエレーナちゃんも、たぶんお父さんの行き先を詳しくは知らなかったんだろう。それぞれが違う作戦についていたらお互いの居場所なんて知らないのは当たり前だ。もしかしたらエレーナちゃんはそれこそ流れ星に願いをかけるくらいの気持ちで、私にお願いをしたのかもしれなかった。
「ああ……あそこに」
エレーナちゃんが指差したのは、けっこう離れた区画だった。数百メートルはあると思う。私、こんなに誤差を出したのは初めてだ。後で知ったけど私はサルカズの巫術とかそういう「古くて強い力」とめちゃくちゃ相性が悪いみたいで、そういうものが多く設置されているこの都市に『飛ぶ』ときに若干座標が狂ってしまったらしかった(私には知る由もないけど黒いコータスの女の子――アーミヤちゃんのアーツの影響を受けたことも、不時着の一因だった)。
「ショートカットしようか?」
「……いや。お前とも話しておきたい」
数百メートル。決して歩きやすい道ではない、長いようで短い道。その道を、エレーナちゃんは私と話すために歩きたいと言ってくれた。私は気付いてなかったけど、ヘルメットの内側から首筋を伝って血が流れていたから、っていうのもあったんだと思う。帰ってから気付いたけど、私めちゃくちゃ鼻血が出ていた。アーツの過剰使用による反動の怖さはきっと、私よりエレーナちゃんの方がよく知っている。
エレーナちゃんに肩を貸しながら歩く。もうエレーナちゃんの体温は、アーツを使わなくても「ちょっと冷たい」くらいだった。
「私は……お前と会いたくなかった。だがお前はこうして来てくれて……私は結局、それが嬉しかった」
「……うん」
エレーナちゃんは少し黙る。ポケットからキャンディを取り出して、右手に二つ並べた。
「『どちらも』最後のひとつだ」
選べ、と笑っていた。私は迷わず片方を手に取った。口に入れて、悶絶した。お酒と唐辛子を煮詰めたような味だった。エレーナちゃんは笑う。春が来たみたいに、笑う。笑って、甘い飴を口に入れた。
「……甘すぎるな」
「……ふふ、」
驚いたような、ちょっと引いたような顔だった。私は笑った。瓦礫にぶつけてたっぽい脇腹が痛んだけど、笑った。顔が見たいとエレーナちゃんが言うから、ヘルメットを外す。ウィッグに隠れていない髪がふわりと広がった。
「……春風のようだ」
「詩的だね」
「お前は、凍原に……春を運びに来たんだろう」
「ゲンジツトーヒをしに行ったんだよ」
「それでも私には、春だった」
エレーナちゃんは私の肩に頭を預けた。肩が少しひんやりした。
「……会いたくないと言って、すまなかった。スクリーンを壊したことを、後悔していた」
「いいよ、そんなの。私のスクリーンじゃないし」
「だが、お前を傷付けた……気がした」
「……私も、エレーナちゃんを傷付けたなって思ったことあるよ、ごめんね」
「……いいさ」
やっぱり私とエレーナちゃんはケンカをしていたらしい。お互い謝って、いいよって言って、きっとこれで良いんだろう。私たちは、友だちだから。
「お前は……傲慢だとか偽善だとか、繊細に悩み続けていたが……私は、ずっと……」
「うん、」
「そんなお前が、いとおしかった」
雪解けみたいな、笑顔だった。ふわりと雪がほころぶみたいに、日差しを浴びて、白がきらめくみたいに。エレーナちゃんが私に見せてくれた、いちばんの「ほんとう」。私は、その笑顔にただ目を奪われていた。そして、するりとエレーナちゃんは私の腕を解いて歩き出した。
「父さん――」
私は、エレーナちゃんとお父さんの話を聞かなかった。私の聞くべき話じゃなかった。ただ、トクトクと暖かく鳴る心臓の音を聞いていた。シルバーアッシュが私たちのケンカを『失恋』って言った意味が、少しわかった気がした。あの時スクリーンの私を目にしたエレーナちゃんは私に『失恋』したから会いたくなくて――私は、私が愛おしかったって笑ったエレーナちゃんに恋をして、失恋した。初恋をした瞬間に、フラれていた。
「」
お父さん――今思うとエレーナちゃんのお父さんにしては何というかめちゃくちゃすごいゴツい? いかつい? 人なんだけど、その時の私は失恋の
感傷でいっぱいだったので失礼極まることを口に出さずに済んだ。人の家庭事情に首を突っ込むべきじゃないし。私を呼んだエレーナちゃんに駆け寄ると、氷がきらめく。お父さんと話をするのに、アーツを振り絞って戦っていたみたいだ。バイオレンスなご家庭だ。お父さんが納得したのかどうかは知らない。けど、エレーナちゃんはもう満足したみたいだった。帰ろうとは、言わなかった。
「私の帰るべき……ロドスへ」
運んでくれ、その言葉を言い切ることなくエレーナちゃんは事切れた。道を違えた父親に背を向けて、私の腕の中に倒れ込むように、息絶えた。名残り雪の溶けるような、最期だった。
「……の、娘。春風の、子」
エレーナちゃんのお父さんが、いつの間にか眼前に迫っていた。怒っているみたいな、泣いているような、どっちでもないような、けどそんなことより、その矛先が私に向けられている方が問題だった。振り下ろされる槍を前に私は「通過」させようとしたけど、「無理だな?」ってどうしてかわかった。私、この槍をアーツでかわせない。死――
「お前は、私の娘を、ただ、運んだ。理解して、いる」
死ななかった。槍は眼前でぴたりと止まった。エレーナちゃんのお父さんが止めてくれたから私の首は繋がってるんだって理解して、心臓がバクバクと揺れていた。
「希望、気休め、甘い夢……死への、誘いを、運んだと、しても。この子が、そんなもの、に乗せられて、彼らに信頼を、寄せたのだと、しても」
「何……」
「古き、一族。とうに、大地に、背を向けた、お前たちが。何故、今、現れた。何故、私の娘に、」
ギリギリと、彼の手の中で槍の柄が軋んでいた。今にも私に突き立てたいのを、必死に抑え込んでるみたいに。
「……だがお前は、私の娘の、恩人だ」
「恩人じゃなくて、友だち……」
「古き一族への、敬意も、ある。故に、一度は槍を、引く。行け、この子を、連れて。この子の選んだ、道へ、運ぶといい、春風の娘」
私の言うことをまるっと無視して、エレーナちゃんのお父さんは槍を引いた。ひゅんっと、死に近い音がした。二度目はない、私はこの人と話そうなんて思わなかった。私はこの人に急かされるまま、移動都市から逃げ出した。
「うわ、シルバーアッシュ、その飴食べたの!?」
「……甘いな」
甘いなんてものじゃないのに。それでも表情を変えないこの人はプロだ。きっと毒飲んでも「毒だな」って言いそう。周りの人間のキモが冷えるから、もう少しリアクションを大きくしてほしい。あと、頼むから部屋に入る前に声をかけてほしい。振り向いたらシルバーアッシュが私の初めての手料理を食べてるとか、心臓に悪すぎる。
「お仕事?」
「いいや、お前の顔を見に来ただけだ」
前もあったね、このやりとり。私の顔可愛いから好きに見ていっていいけど、私今ちょっと忙しい。
「銅貨磨きか?」
うん。チェスターさんにやり方を教わって、私はウルサスの銅貨を磨いていた。シルバーアッシュはテーブルで手を動かす私の向かいに座って、私の磨いた銅貨を眺めていた。私の顔見てないじゃん。別にいいけど。
「実はお前との契約には、一定距離以上の『外出』について報告義務の記載がある」
「うそ、そんな記載あった!?」
私は目玉が飛び出そうになった。これでも契約書は隅々まで確認する方のリーベリなのに! 私が『遠出』をした回数を思うと、規定違反の数は。
「冗談だ」
「ブラック上司ジョークやめて!?」
真っ青になった私を見て、シルバーアッシュは面白そうに笑った。あなたは面白いかもしれないけど私は笑えないよ。
「その顔が見たかった」
ジャックかな。第六感が私にそう言えって囁いてた。何のことかはわからない。
「だが、部下の失恋を慰めるのも上司の務めかと思ってな」
「
福利厚生が手厚い……」
部下の恋バナを聞きに来るシルバーアッシュ、面白い。そっちの方がジョークとして安全だよ。頼むからいつもそういう冗談にして。「ああ」って頷いてたけど、シルバーアッシュは私が話し出すのを待ってた。これ、ほんとに恋バナする流れなの? 私がシルバーアッシュに?
「……『いとおしかった』って」
あの後のテンマツなんて大したことはない。エレーナちゃんをロドスの人に預けて(ヘルメットはちゃんと被り直した)、私はロドスの人に訝しがられたまま不審者として去った。エレーナちゃんはきっとロドスでちゃんと遺体を処理してもらえるんだろうし、ロドスの人たちはまたどこかで戦い続けるんだろう。エンシアちゃん、ほんとに大丈夫かな。変な作戦に巻き込まれてないといいけど。
私は『仕事の合間をぬって』曲を書いた。別に企画でも何でもなかったけど、エレーナちゃんのことを考えていたら書きたくなったから書いた。私の中の「本当」を探すみたいに、心がぽろぽろ剥がれ落ちるみたいに、夢中になって書いた。私が恋して失恋したエレーナちゃんの笑顔がずっと頭の中で歌っていた。その歌をなぞるみたいに書いた曲は――「いい曲じゃない!」って担当さんが意外そうに褒めてくれて、もうすぐ企画の第二弾として売り出される予定だ。プレなんとかで龍門のスクリーンに映ったMVを私は見に行った。
清楚系の格好がよく似合ってた。案外ちゃんと見てくれてる人は多くて、胸がムズムズした。スクリーン、私でもアーツをうまく使えば壊せそうだなって思ったけど――壊したくなるような衝動は、私の中には生まれなかった。よかった。
ロドスの人は、私にエレーナちゃんの遺品はあげられないって申し訳なさそーにしてくれた。感染対策だって。でも私は最初からそういうのはよかった。エレーナちゃんからの告白と、初恋と、失恋。少食の私はもうそれだけでお腹がいっぱいだ。
「だから、これも手放すのか?」
綺麗な手袋に包まれた手で銅貨を摘み上げて、シルバーアッシュは聞いた。うん。私の返事は、私の頭みたいに軽かった。シルバーアッシュって何でもお見通しなんだね。
「雪原に埋めて、ひとりでライブでもしてこようかなって」
「『』のチケットは高かったと思うが」
「差額は私持ち」
ヘルメットはヒビが入ってた。シルバーアッシュが直してくれるって言ってたけど、私はもうあのヘルメットを使わないだろう。エレーナちゃんたちにしたこと、『反社会組織へのホージョ』になる? って聞いたらシルバーアッシュは首を横に振った。
「言わなければわからない」
「悪い大人だ……」
「それに、『マールート』はとうの昔に廃業している」
銅貨がからんと、缶の中に落ちた。私は銅貨を磨く手を止めて、シルバーアッシュを見上げた。
「うん、私、あなたのだよ」
シルバーアッシュは私の羽を撫でた。いい子だねって、褒めてくれてるみたいだった。
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