初恋って実らないものなんだそうだ。ヴァイスさんが教えてくれた。凍原の失恋を経験して、それでも私の日々は変わらない。一に仕事、二に仕事、三四が「恋人」と「歌姫」で五が……なんか結局ぜんぶ仕事だね。カランド貿易は別にブラック企業じゃないはずなんだけど。私の
業務形態が特殊なだけ、きっとそう。お給料は十分以上にもらってるし、お休みと仕事の境界は時々アイマイだけどすごく貴重で面白い経験はしてる。
エレーナちゃんのお父さん、めちゃくちゃゴツかったしめちゃくちゃ怖かったけど、それでも何か重要なことを教えてくれた気がする。古き一族がどうとか、こうとか(記憶力が悪い!)。ノーシスさん――彼の生家、エーデルワイス家はありとあらゆる記録をまとめている家系らしい――にあの移動都市での言葉を伝えれば何か調べてくれたのかもしれなかったけど、最近はもう『お芝居』が始まりつつあったから
自重した。こっそり会いに行くことだってできたけど、『竹馬の友』っていうカンケーであろうシルバーアッシュだって「連絡を取り合わずとも彼は彼の考えで最善のために動く(要約)」ってちゃんと脚本通り知らん振りしてるのに、私がそういうルールを破ったらダメかなって思ってやめた。仲良い(よね?)人と仲悪いフリする自信が、ちょっとなかったとも言う。エレーナちゃんに「会いたくない」と言われたケーケンは、少しばかり私をおくびょーにした、かもしれなかった。
私のアーツについてわかったことがあればシルバーアッシュに報告してるのだけれど(私のアーツの情報はシルバーアッシュの利益だから最優先で提供するとか何とか、そういうケーヤク)、意外なことにブレヒャーさんがその情報に興味を示した。意外って言ったら失礼かもしれないけど(「リターニアの欠陥品」なんてひどい二つ名を、彼女が気にしなくても)、ブレヒャーさんってアーツが嫌いなのかなって思ってたから。私みたいなアーツに頼りっきりのタイプとか、仲良くしてくれてるのが不思議なくらい(大人だから態度に出さないって可能性は考えないようにしてる)。まあ単純に戦力分析として、の興味らしい。私がサルカズの巫術とかの「力」に影響されて「転移」に誤差が出たり「通過」できなかったりするなら、ブレヒャーさんみたいにアーツが効きにくい人に「中から斬りつける」とかは実はできないんじゃないかって話になって。考えてみたら当たり前の話なんだけど、私が今まで会った「敵」が大したことなかったっていう幸運が悪い方にはたらいていた。私は「やだ、ムリ、万が一ってあるよ!?」って実践をめちゃくちゃ嫌がったんだけど、ほんの皮一枚とかあなたが間違えなければ大怪我はしないとかなんとか最終的にはゲンコツ混じりに言いくるめられて、アーツを使って、結局のところブレヒャーさんはアーツによる攻撃を弾いた。本当に怖かったからもうやらせないでほしい。ノーシスさんという知的マッドと距離ができたと思ったら、ブレヒャーさんという戦闘マッド(?)と距離が縮まった。仲が良くなるのはいいこと、だよね? ただ完全に無効化できるというわけでもないみたいで、ちょっと
流血沙汰になったりもして、二人揃って始末書を書くハメにもなった。「私の術力と相手の術力や抵抗力との差」によって私のアーツは左右される、当然だけど抜け落ちていた認識をブレヒャーさんは埋めてくれた。「転移」を試みたこともなかったけどイェラガンドの山頂近くとか、そういうところ(何か強い力があるところ?)も実は弾かれる。思ったより私のアーツって便利じゃなかったんだね。それでも使えるって、シルバーアッシュは価値をつけてくれてるけど(彼の場合、そういう諸々も私よりわかっていたんだろうけど)。
私はブレヒャーさんから投げナイフ? とかサイコロくらいの大きさの三角錐とかをもらった。当然オモチャやアクセサリーではない。「あなたのアーツはこっちの方が向いてる」とめちゃくちゃ稽古をつけてもらった。確かに私が「転移」や「移動」で武器を扱うなら、剣よりこういう小さい使い捨ての武器だろうなって思った。「中」に直接転移させるのって私の抵抗感が大きいせいかよくブレるから、こういう投げ付けるような武器が扱いやすいと考えてくれたみたい。私のアーツは「刃先だけ空間を隔てて突き立てる」とか「向こうから呼び出す」ことはできないから、間合いを無視した斬撃とかどこかに剣を大量に置いといて必要になったら呼び出して降らせるとか、そういうことはできないのだ。カッコいいからやってみたいんだけど。目立ちにくい武装、小さい動きで不意を突けるってことで「恋人」や「歌姫」をやっている間は特に
重宝している。剣を捨てたわけじゃなくて、そっちも続けてるけど。使う機会は減る一方だけどやめる気にはなれないというか、お守り代わりというか、憧れというか。シルバーアッシュって、普段は護衛対象だけど戦えないわけじゃなくて、むしろ剣を持つとめちゃくちゃ強い。もうほんと「圧倒的」って感じに強い。ブレヒャーさんは言わずもがな、ヴァイスさんの太刀筋もなんて言ったらいいのか、目を惹かれる。別に誰かに見せるための剣術なんかじゃないんだろうけど(ましてやみんな、まさに命懸けで剣を振ってきた)、周りにいる人たちを見ていたら諦められないのだ。まだ頑張りたいって、口に出すのは何となく気恥ずかしいから内緒だ。
「隠せてないけどね」
ブレヒャーさんはその日の訓練の後、私に缶コーヒーをくれた。バレバレだった。ちょっと悔しかったから、ブレヒャーさんがメジャーで活躍してた頃の映像記録を手に入れて映画代わりに見まくった。外周が倍になった。
「体が冷えるぞ」
「あなた私にGPSでもつけてる?」
イェラグの空って綺麗だ。あんまり夜空が透き通って見えて新鮮だったから(私のいた路地裏は、空が少し濁っていた)、屋根の上でホットミルクを飲んでいたんだけど。天窓の方から声がして振り向いたらシルバーアッシュがいて、私はもうそろそろ慣れつつあったけどめちゃくちゃ驚いた。シルバーアッシュって何でいつも私の後ろから出てくるんだろう。私の冗談半分の質問にシルバーアッシュは答えなかった。 ……ほんとにつけてる?
「GPSでは高低の誤差が大きい」
「なんかその返事怖い」
屋根の上にいるってことはGPSじゃわかんないよ、って言いたいんだろうけど怖い。もう聞かないでおこう。
「風邪引くよ、シルバーアッシュ」
あなたに風邪引かせたら
懲戒処分モノだからやめてほしい。呼んでくれれば可愛い顔を見せに行くから。シルバーアッシュは首を横に振った。
「お前と星を見に来た」
「新しい口説き文句だ……」
「毎回同じでは飽きるだろう?」
そうかもだけど。でも結局私は時々こうして呼び出しもせず現れるシルバーアッシュがどんな用事で来ているのか知らないままだ。ガクメン通りに「顔を見に来た」わけじゃないんだろうけど、言わないから聞かない。持ってきた毛布をシルバーアッシュに渡すと、なぜか私もシルバーアッシュの膝上に収まって一緒に毛布に包まることになった。そういうことじゃないんだけど、どっちも暖かいからいいか。恋人っぽいし。私たちの場合、『っぽい』ポーズは大事だ。きっとそういうことだろう。
「お前はすっかり我が家の『
家妖精』になったらしい」
チェスターさんたちからどんな話を聞いたのか、シルバーアッシュは少し面白がるみたいな目で私を見ていた。白系統のワンピースばっかり着てるからかな。でもあなたのシュミだよ。素知らぬフリは長く続けられなかった、視線が痛いから。あの、微妙に隠せていなくてごめんね。
「構わないが……『絶対に逃さないように』と言われた」
出て行かれると縁起が悪いんだそうだ。それ、極東のザシキワラシの話が混ざってないかな? ヴァイスさんか誰かから聞いた知識で私は首を捻った。
「お前に出て行く予定がなければどちらでもいい」
「そういう話だったの?」
「そういう話だ」
頭の良い人の話って時々ついていけない。私は黙ってホットミルクを一口飲んだ。例の飴を消費するためにミルクに溶かしているので、死ぬほど甘い。
「お前にはイェラグはどう見える?」
頭の良い人の話題の急転換についていけない。私はちょっと首を傾げて、口の中の凶悪な甘さを喉に流し込んだ。どう、と言われて初めて考える。
「いいところじゃないかな」
それはソンタクとかじゃなくて本心だった。閉鎖的ではあるかもしれないけど人が大地と共に生きてるって感じがして、
排他的かもしれないけど懐に入れた人には優しい。ここには「路地裏」がなくて(あったところで凍死するだけだから、だろうけど)、空が綺麗で、時間がゆっくり流れている(シルバーアッシュの周りは時間が早いけど、それも別に嫌いじゃない)。
「お前の生まれはおそらくヴィクトリアだろう」
「あなたって私のこと私より知ってるね」
「そう見せるのが上手いだけだ」
発音の訛り、時折出るスラングや
童謡、路地裏の景色、工業化された街。私は自分がどこの路地裏にいたのか知らないけど、そうしたものから推測したらしかった。シルバーアッシュはヴィクトリアに留学したことがあるから、少し馴染みがあったみたい。そして私より私を知っているシルバーアッシュは、私がヴィクトリアを嫌っているって考えてる。
「煙と煤に満ちた、空の濁った街……私がイェラグをそう作り変えたとしても、『いいところ』に見えるか?」
シルバーアッシュがアークトス様みたいな人に嫌われる理由だった。イェラグを穢す悪魔。自然を壊して工業化を進めて、イェラガンドや慎ましやかで伝統的な暮らしを蔑ろにする人だって批判されたりする。私がイェラグに来た頃、トゥリクム――イェラグの玄関口でさえまだどこか
牧歌的な景色を残していた。けれどあっという間に地区開発が進んで、どんどん私の知っている景色に近付いていく。もしかしたら「路地裏」だって、もうどこかにあるのかもしれなかった。
「あなたは『路地裏』を作らないでしょ」
もうあるのかもしれない。けど、シルバーアッシュの手の届かないところだっていう確信が私にはあった。シルバーアッシュは好き好んで人を踏み付けにしようとはしない。面白半分に工業化を進めてるわけじゃない。そのくらいは私も知ってる。そのくらいは、この人の隣でいろいろなものを見てきた。そしてこの人は神様じゃないし、めちゃくちゃ賢くて怖い人ではあるけど、余すところなく全部に手が届くわけじゃない。私のアーツが、思ったより便利ではないみたいに。この人の手の届くところを少し増やすために、私はきっと雇われている。
「あなたが考えることだもの」
この人について私が知っていることなんて、そう多くはない。見えている以上のことは知らない。見えているものも全部本当ではないだろうけど、私には見えてるものだけで十分だった。そして私の知ってるシルバーアッシュは、とてもイェラグ思いの人である。それこそ、アークトス様にも負けないくらいに。「イェラグを想っているから」の
順接の先が重ならないことを、今の私はちょっと知っていた。
シルバーアッシュがこの国を急いで変えようとしている理由は、ヴィクトリア(たぶん)やクルビア(運び屋時代の拠点)にいた私が説明されて理解できたくらいには単純だ。この国は、外の国に目を付けられたらまともに抵抗できない。それが『国力の差』だってことは、外の国から来たからわかることだ。星空が濁ったとしても、大地がくすんだとしても、この人には辿り着かなきゃいけない「イェラグの未来」があるんだろう。私はシルバーアッシュに雇われてるから、ちゃんとお仕事の範囲でそれをお手伝いする。お手伝い、できてたらいーけど。
「……ホットミルクが冷めちゃった」
私はあまり賢くないから、たくさんは口に出さなかった。ただ、シルバーアッシュを促して暖炉のある部屋に戻る。こういう時こそ「転移」を使えばいいのに、ってだいたい後から気付く。
「……私にアンケートを取りに来たの?」
いつだったかもイェラグの話をしたような、そんなときのことをちょっと思い出して聞いてみた。
「『家妖精』の機嫌は重要だからな」
シルバーアッシュは頷いた。私の機嫌なんて気にしなくていいのに。でもちょっと嬉しいかな。機械みたいに人を使い潰すことのできない人だから、たぶん私はシルバーアッシュという上司が優しいと思うんだろう。私はヴィクトリアみたいな街が嫌いなのかもしれない、綺麗な星空が好きなのかもしれない。でもシルバーアッシュがすることならそれもいいんじゃないかなって思える。結局何をやったかより誰がやったか、なのかもしれなかった。
「じきに吹雪が来る」
暖炉の前にホットミルクのマグカップを置いた私に、シルバーアッシュは言った。
「私がお前に用意した脚本は『か弱い恋人』だ」
「つまり?」
「お前の自衛手段を全て奪うことになる。、お前は自身の安全を私たちに委ねなければならない。その結果お前が傷付くとしても、お前の周囲の人間が傷付くとしても、お前は『何もできない』」
シルバーアッシュが私を手招く。ベッドに腰掛けるシルバーアッシュに抱っこされるみたいに座って、腰のホルダーを取られた。イェラグで出歩くときやお屋敷の中で帯剣はしないけど、ブレヒャーさんがくれた武器はいつも身に付けている。それを取り上げると、シルバーアッシュは言った。『会社』の仕事はお休みで、私は当面専業の「恋人」だ。アーツでさえ、指示なく使う許可はしばらく下りない。路地裏の孤児だったときからずっとアーツに頼ってきた私には、半身を奪われるみたいな不安でもあった。私は、本当の意味で他人に自分の安全を任せたことはなかった。
「無論、そのような事態に陥らせるつもりはないが」
シルバーアッシュは目を伏せた。まあ、『不測の事態』ってあるよね。どこまでが本当に『不測』なのかは、知らないけど。
「――私自身が、お前の『知らない』危機に陥ったとしてもだ」
その言葉は、意外なほど頭に響いた。私の
自衛手段を奪うって聞いたときは確かに不安になったけど、この人を守ることもできないって言われたらそれどころじゃなくなった。私の戸惑いをよそに、シルバーアッシュは話し続ける。
「だが、それはお前の能力を軽視しているからではない――私が最後に抜くことになる刃は、お前だからだ」
「……あなたって、人を喜ばせるのが上手だね」
私にかろーじて言えたのはそれだけだった。シルバーアッシュは私の喉に優しく噛み付いた。『窘めてる』みたいだった。シルバーアッシュの口って、開いたら案外大きい。食べられてるみたいで、背中がゾクゾクした。
「……もうひとつ、何かカッコいいセリフが聞きたいな」
私のおねだりに、シルバーアッシュはふっと笑って応えてくれた。
「私の
共犯」
今度は耳を甘噛みされる。刻みつけるみたいに。さっきよりももっとゾクッとして、私は思わずシルバーアッシュの首に抱き付いた。暖炉の熱より、齧られた耳の方が熱いかもしれなかった。シルバーアッシュが私の首を指先で撫でる。全部食べちゃっていいよって、そう言いそうになって怖くて口を閉じた。でも私って、今回この人に「私」を全部預けるんだ。私自身の安全も、武器も、アーツも、目の前で誰かが――シルバーアッシュが傷付くことになるかもしれない恐怖も。それってすっごいゾクゾクする。好奇心とかそういう、「ヤバい」ことに反応する何かがぞわぞわと震えてた。両手両脚――ううん、全身も気持ちさえもこの人に差し出して、好きにしていいよって言うようなものだ。私のいちばん柔らかいところを、咥えてもらってる。
「食べちゃっていいよ」
結局私はそう言って笑った。
「――今だけね」
全部預けるのはいーけど、今回の脚本が終わるまでかな。私は怖がりなリーベリだから、ずっとは耐えられない。けどドキドキしたいリーベリだから、
期間限定で全部預けてあげる。シルバーアッシュはいつもとちょっと違う感じに笑った。それが怖いとすら感じるのに、胸がキュッと締め付けられたから私の感覚はたぶんちょっとバグってる。「あなたって自分で思ってるより天性のスリルジャンキーよ」、いつかそうブレヒャーさんに言われたっけ。
「お前はぎりぎりが好みのようだ」
ちょっと苦しいくらいに抱き締められた。牙を突き立てられる三秒前って感じ。その夜初めて、シルバーアッシュに「好きなように」された気がした。
内臓から熱を齧り取るみたいなセックスだった。私ってマゾだったのかな、ちょっと事後に恥ずかしくなってシーツに顔を埋めてたら、顔を上げるまでいじめられた。
――ノーシスさんが谷地の件で解雇されたのは、その夜からそう遠くはない日のことだった。私はその知らせをカランド貿易の一室で聞いた。ノーシスさんが置いて行ったチェス盤を、私は返し忘れたままだ。吹雪が来る、チェス盤をひとりで抱えた私の頭を、シルバーアッシュの言葉がよぎっていた。
230509